ネパールのクリスチャン・ドクターとして知られた岩村昇先生のエピソードをご紹介させて頂きます。
ある日、重症患者を何日も何日もかかって病院へ運ぶ途中の出来事だったそうです。
山の上に建っている病院まで、器材ひとつ運ぶのもたいへんな労力でした。ましてや、重症患者を運ぶとなれば、さぞかしたいへんだったと思います。
そんな時、行きずり(通りすがり)のネパールの青年が、その患者さんを、ずっと背負って病院に運んでくれたそうです。
先生がその青年にお礼を渡そうとすると、「みんなで生きるために手伝ったのだから、お礼はいらない。」と言って立ち去ったそうです。
やはり医師をされていた野村実先生は、この事について、次のように言っています。
「わたしは、この話の中で『行きずり』というところが意味深いと思います。自分の家族や親戚が、また自分の住んでいる町の人が重病にでもなれば、骨身を惜しまず手伝うということがあるかもしれないが、ここで『行きずりの青年』とは、他の町の人だろう。見ず知らずの他人を助けることは、容易なことではない。」
「問題は、『みんな』というときの範囲の広さである。『四海同胞』とか『人間みな兄弟』とか言うのは易しいが、行きずりの人をすべて身内のように接しうるかどうかである」と。
たいへん感動させられ、また教えられる話です。
ところで、イエス・キリストの生涯はどうだったでしょうか。
キリストの弟子たちは、すべて行きずりの、しかも、ある者はきらわれ者、ある者はならず者、ある者は欠点だらけの者、といった具合です。
ある日、イエスさまは、税金取り、血も涙もない守銭奴、罪人、ならず者たちと食事をされていました。すると、それを見た教育家、宗教家、慈善家たちは、たいへん軽蔑的なまなざしで見て、さげすんだのです。
そして弟子たちに言いました。
「あなたたちの先生は、あんな奴らと飲み食いし、楽しそうにすごしている!」
イエス・キリストは、神でありながら、人と同じ労苦を経験され、人として、甘いも辛いもすっぱいも経験し、行きずりのすべての人と泣き笑いの人生を歩まれた方なのです。
ですからこそ、キリストは、あなたと共にいてくださることができるのです。
あの荒削りの十字架を背負ったキリストは、あなたがどのような重症の傷を負った人生を歩まれていても、あなたを背負って天のみ国まで歩んでくださる救い主なのです。
「だれでも、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげます。」(イエス・キリスト)
日本で、世界中で、小さないのちが守られますように!
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