今日も新しい朝新しいいのちをくださった、父なる神さまの憐れみと恵みに感謝します。
全く罪のない神の御子イエス・キリストが、私たち罪人の身代わりとして全人類の罪を一身に背負い、あの忌まわしい十字架の上で父なる神からも見放されるという、私たち人間の想像をはるか超えるところの苦しみを受けて死んでくださったことをおぼえ、心から感謝します。また、死んで三日目に死の力を打ち破ってよみがえってくださったご栄光を心から褒め称えます。
聖書から
ピリピ人への手紙2章6~7節
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間のようになられたのです。」
「キリストは、神としての御姿であられるのに、神性と一致する姿であることを手放したくないものとはお考えになりませんでした。
かえって、奴隷の姿を取られるほどご自分を空しくされ、人間と同じ形になられました。そして、人間としての外観でお現れになりました。」
宇宙を創造された全知全能の神が人間と同じようになられたのです。
この『御姿』の原語は、「内部の本質を忠実に表現する外部の姿」を意味しています。
さらにこの『神』が無冠詞であることは、神のご性質、本質を表現しています。すなわち、主イエスは、受肉前、主の本質である神性を正確に表現する御姿を持っておられたのです。
主イエスは御子なる神として、御父と全く等しい全能なる絶対的主権者としての栄光に輝く姿であられるのに、その姿を保つことよりも、御父のみこころに従うことを優先し、御父を愛して御父に栄光を帰することを最重要視されたのです。そのためには人間の姿、しかも卑しく全く誉れのない、身分の低い、貧しい者になることをもいとわれなかったのです。そして十字架の上で、裸にされて、いばらの冠をかぶせられ、釘付けにされて、さらし者にされることをも選ばれたのです。
奴隷の姿の『姿』の原語も『御姿』と同じです。それは、主が、外面だけではなく、内面まで、真実にご自分を父なる神の奴隷とされたことを意味しています。そのために、主はご自分を完全に、惜しみなく、御父に明け渡してしまわれたのです。『空しくする』の原語は、「中身を全部出し切って、空にしてしまう」ことを意味します。
『人間としての外観』の『外観』の原語は、特に役者の外観や見せ掛けなどを意味し、内面の本質とは異なる外観を意味します。
主イエス・キリストは神であられるのに、神としての本質を隠して、人間としての外観をまとわれたのです。
そしてさらに主は、ご自身を貧しくされました。ご自身を卑しくされ、下賎の身に落とされました。キリストは、奴隷のような卑しい身分に身を落とされたのです。さらに、主イエスは死に至るまで、十字架の死に至るまで父なる神に従順になられました。御子の死とよみがえりによって、罪の贖いは完全に成し遂げられ、神の義の栄光は完全に立てられました。
今日も小さないのちが守られますように!
ご覧いただきありがとうございました。
みなさま、良い一日を!