盤持石アラカルト | 尾田武雄のブログ

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小矢部市北蟹谷地区には、盤持石が各神社に多く残っている。県内でも稀なる地域であろう。高島槇助著の『富山の力石』を参考にして講演をした。

高島槇助著『富山の力石』より

令和6年3月9日小矢部市北蟹谷公民館 尾田武雄

「盤持石の設置場所」

盤持石が置いてあった場所は、公民館(昔の若衆宿、青年団の寄り合い場)などの広場、道路が交差した辻、神社仏閣の境内など様々であるが、人々が集まれるスペースのある場所であった。ほとんど集落近辺が多いが、なかには氏神が山の中腹にあり調査の際、息を切らして力石の現存場所まで行くこともあった。また力自慢の若者が絶えず自分の家の前に運ぶために力石が夜毎、集落内を移動する所もあった。

これら力石の設置場所を「力石、バンモチ場、バンボチ場、力持ち、バンブチ、石かたげ場、バンブツ場、バンバツ場」などと呼び、事ある毎に「力石に集まれ」という連絡があった。現在、これらの場所に「力石」を見る事が少なくなりつつあるが「力石、バンモチ場、バンボチ場、バンブチ、石かたげ場」という名は残っていることが多々ある。

 

『力石あれこれ』

江戸時代から昭和の初期まで日本の多くの集落で力石を用いての力くらべ(力持ち)が行われていた。現在、著者の元には北海道から沖縄までの情報が蓄積されており、そのうち約一万個を調査報告してきた。

昔の人々は、労働を人力に頼るしかなく必然的に個人の体力が必要とされていた。そのため、各集落で様々な力くらべや身体を鍛えることが行われ、同時に数少ないレクリエーションとしての役割も果たしていた。

もともと力石は、農村では米俵を、山村では材木を、漁村や港湾地域においては醤油樽、油樽、酒樽および鯨粕などの運搬に従事する労働者の問から発生したものである。これらの労働者は一定の重量を担げないと一人前と見なされず肩身の狭い思いをした者もあった。

調査の過程で全国のどこでも身体鍛練と娯楽を兼ねた「力くらべ」の情報が得られている。

それらの道具として、身近にあった「米俵」「土俵」「炭俵」「薪束」「灯籠の笠石や竿石」「墓石」「供養塔」「記念碑」「道標」「地蔵などの石仏」「手洗鉢」「狛犬」「山神」「石臼」「魚粕の俵」「墓場の棺桶台」「花立て」「亥の子石」「藁打ち石」「大砲の弾」「セメント樽」「レール」「トロッコの車輪」「土突き石」など様々なものを用いた「力くらべ」が行われていた。

その他の力くらべでは「祭礼時の幟立て」「相撲」「はしご立て」「棒押し」「棒ねじり」「でなおし(額押し・向かい合った二人が、お互いの顔を押しつけて押し合い、顔を引いた方が負けとなる。額をゴリゴリと動かすのは禁止である)」「腕押し」「脚相撲」「綱引き」「首引き」「箱枕引」などが行われていた。棒押し・棒ねじりに使用する棒が市販されていた地域もあった。

農村においては米一俵を担げるのが最低条件でもあった。当然、米俵を用いての「力持ち」はいたる所で行われていたが俵は変形したり潰れたりするところから、それに代わる石が用いられてきた。また紀伊半島南部などでは、丸い石には神霊が宿っているという玉石信仰があり、その大きさが力石として手頃なところから後には力石として使用された例も多々ある。地域によっては、一定の力石を担ぐことが出来た若者、またはその親が酒を差し出して若者組(青年団)への加入を認めてもらったりもしている。そのため青年団の若者は、酒が飲みたくなると誰それに石を担がせて酒を出させようなどと相談したこともあったらしい。

 

力石にまつわる談話

※他のムラの者が、自分のムラのバンモチ石に腰をかけたのを発見した場合、その石を肩まで担げなかったら、その者を袋ダタキにした。

※労働だけで金にならないことを「今日の仕事はロハの盤持ちじゃ」と云っていた。

※この青石と人のカカアには手を出すなと言われていた。

※村一番の美人を嫁に迎えることが出来た。娘達も力のある稼ぎの良い人の所へ行くのは当然だった。

※娘は、力石を担ぐ男性の中に、好きな男がいると、そっと男の名前を言って、男の顎の付くあたりに頬紅をつけて地蔵様に添えられるように願をかけた。

※酒一升や米}斗を景品に力くらべをした。

※当時では珍しい白米を食べさせてもらえた。

※決められた石を担げると遊廓に行くのが認められ、担いだその場で石を放りだして遊廓に走って行った。

※尋常高等小学校の高等部において数種類の力石を用意して、それを担がせることによって体力の進歩の状態を観察したこともあった。

※担げなかった場合、家に帰って鰹節と醤油をふりかけた御飯を腹一杯食べて力石を担ぎに戻った。

※この石を担げないと夜遊びをしてはならないという掟があった。

※可愛い娘が見ていると頑張ったものだ。

※石を抱きかかえるために衣服の胸の部分が擦り切れたり、胸に擦り傷が出来たが、それが自慢でもあった。

※担ぐのに失敗して大怪我をした。

※このあたりの人は、力石をもったいない石として絶対に足をかけなかった。

※夜中に一人で担ぎに行き、倒れた胸の上に石がかぶさり即死した人が出たため力石には決して一人で挑戦してはならなかった。

※力自慢の若者が自分の家の前に力石を運んで来ると、翌日には他の力自慢が自分の家に運んでいたりしたため、たえず力石が集落内を動いていた。

※夜這いをするには、この石を担がねばならなかった。

※夜中に家の前に石を放り出されるとドーンという音とともに地震のように家がゆれた。この家の庭の中に力石があるのは、ここの娘が可愛かったので夜毎、若者達がいたずらに家の前に石を放り出すので、ゆっくり眠れんと、ここの親が怒ってこのようにツツジの根本に埋めてしまったからや。※自力で担いで運ぶなら力石は盗んでも文句は言えなかった。

※大きさの違う力石を用意してどの石を担げるかで賃金を決めていた。

※石の置いてある場所を「力石」と呼び、何かあると「力石」に集まれという連絡があった。

※力石は神聖なものとして扱われており、特に女性が跨いだり腰掛けたりすることは禁じられていた。そのため女性は力石に近付くことを避けていた。

※五斗の石を二回続けて担いだら、酒一升買ってやると言ったので私は頑張って担いだ。

※担いだ石の大きさによって村の人夫賃が決まっていた。

※六斗、七斗は誰でも担げたのでションベンタゴケ(肥桶)と呼んでいた。

※担ぐ前にオカユを食べ、六尺フンドシをしめ、はだか姿で気合を入れて担いだ。

※昔の農家の仕事は今と違って自分の体でする仕事が多かったんですが、石を担ぐことを考えるとあとは何でも軽くて楽だったですよ。

※力石を隣村から担いで自分の村へ持って帰ると、さあ大変です。隣村は、その石を取り返しに行かなければ村の面目が立ちませんでした。このようにして若者は体を鍛えたのです。

※男の能力の最大の武器は力持ちであり、カモシカのように山を駆けめぐることのできる体力であった。

※米俵を担げなければ嫁の来てがないともいった。

※自分の体重の二倍担げる筈というのが昔の人の言い分で、「カツギ石をかつげねエ奴は娘の後を追うな」といわれた。

 

これらの談話は特定の地域のみではなく、全国的に得られており、力石による「力くらべ」

が自然発生的に生じてきたことがわかる。

また造り酒屋や味噌醤油醸造業、製糖所などにおいては作業過程で重しに石を多く使用したため、休み時間になると、それらの石を使用して力くらべが行われていた。

しかし多くの労働が機械化されるとともに種々の娯楽が増え、力石は現在その役割を終え、

その存在や意味が忘れ去られ続々と紛失している。中には庶民および郷土の文化遺産として保存されている地域もあるが、まだまだ多くの力石が神社や寺の境内、集落の一隅に放置されているのが現状である。また力石を知る人々が少なくなりつつある今、その確認が急がれるところである。反面、力石の確認された地域においては次々と保存処置が行われてもいる。