今日は、青春時代の思い出です。 捨てられませんでした。

酒井和歌子さんは、私が高校の時代にファンになった人です。

ファンレターを書いたのは、後にも先にもこの人だけです。

妹が借りてきた雑誌を見たのかな・・・・・?

雑誌の ”女学生の友” でモデルをしていたのでたまたま目に留まり、 脇に小さく酒井和歌子とプリントされていましたので、雑誌社に住所を教えてほしいと手紙を書いて教えてもらいました。
この当時の雑誌社の方は親切だったのか、本当にはがきが来ました。

以下左がその時のはがきです。 

消印は、昭和411217日です。

その当時は、練馬区東大泉町476番地に住んでいたようです。

最初の返事は、42130日でした。

下の右です。内容は書中見舞いの時と殆ど変わらないので割愛します。

 

42年の暑中見舞いでは、まだ練馬区でした。

 

43年の年賀状では、板橋区に変わっていました。引っ越したのか?
場所は、大分離れているので境界変更ではないと思います。

 

この年賀状(封筒)には、サインした写真が入っていました。素敵です♡

 

凄く嬉しかった!家族に冷やかされた!高3の正月でした。

 

Wikipediaではこの部分が、栃木から板橋に引っ越しとなっています。

 

住所については、雑誌社から回答が来る前に別の号に住所が載っているのを発見して、それでファンレターを書いたと思います。滅茶苦茶な文と汚くて小さい字で送ったので読みずらかったと思います。よく返事が来たものだと今更ながら不思議です。

 

現在は、区画整理が行われ旧住所がどのへんだかよくわかりません。

もともと練馬は板橋から分離したので、飛び地などの境界変更を繰り返していた様です。確定したのは68年以降のようです。

日文研データベースに昭和35年の地図があったので載せておきます。駅の近くですね!

 

酒井和歌子さんのファン歴は、67年~70年(S42S453年間でした。

従って、酒井和歌子さんの全盛期は見ていません。

私が知っているのは、内藤洋子さんのほうが売れていた時期です。

434月就職をして、10月ごろから地方に出張ばかりになり情報が入らなくなりました。映画も行けなくなり、若大将は1本見ただけだったと思います。

その当時の出張は、25日間休みなく働き、日曜出勤の代休を取り(実家に帰り自動車修理の手伝い)、また次の出張に行くといったもので現代とは生活環境が全く違います。しかも工場泊です。ただし、女性の職場(中卒で入って夜間の高校を出るとほとんどが辞めていきます)で、テレビは特別に女子寮のテレビ室で見させていただいていました。最初が長野の岡谷で次が徳島の鴨島その次が山梨の甲府だったような気がします。作業日誌として書いていた帳面が見つからず不確かですが、こんな感じで日本全国の製糸工場に出張していました。

4445年の年賀状は以下です。

 

内藤洋子さんとの年賀状は、吉祥寺の映画館が区画整理で移転するためその案内を兼ねて同じ年に送られてきました。私は当時吉祥寺南口の借り上げ寮(元旅館)に住んでいて北東の角だったため吉祥寺のソープランドが良く見えました!吉祥寺駅は木造で線路もまだ下を走っていました。出張から帰ってくるたんびに工事で出口が変わっていて閉口しました。

酒井和歌子さんはこの年成人式ではないかと思います。内藤さんは一つ下。

 

当時は、情報が少ないのと学生でした、就職しても初任給18000円の給料ですので、いくばくかの雑誌の切り抜きがある程度です。

何時になくアクセスが多いいので切り抜き追加します。(5/2)

これは撮影会の時の物です。兄が趣味で普通のカメラで撮ったものです。

 

 

そのうち、気分転換でまた掲載したいと思います。

 

9/8追加:3枚封筒などと重ねているので単独の写真を追加します。



 

以上です。

 
和歌子さんの記事追加しました。