Appassionato -7ページ目

「気遣い」という技能

数日前の、修士論文の提出締め切りが近い日の事です。
M1のTさんが、必死で論文を書いているM2の人たちに「差し入れです」とか言いながらチョコレートか何かを配っていました。
普段のTさんはあまりそのようなことをするタイプではなかったので、僕は少し意外な気持ちで見ていました。
そしたら、M2のSくんが、「『お疲れさまです。もう少しですから頑張ってくださいね』とか、もっと気の利いたことを言いながら配ってくれたらもっとうれしいですよね」みたいなことを、隣のMくん(D1)に話していました。
さらには「今度そう教えてあげようかな」とも。
それを聞いて、僕は思わず「そんなことできなくてもいいんじゃない」と言ってしまいました。
確かに、そっけない渡し方であったとは思います。
Sくんは気遣いのできるタイプの人ですし、彼だったらそのような言葉をかけて、場を和ませながらながら配っていたかもしれません。
しかしですよ、そんなことをできるようになる必要があるのでしょうか?
そういった気遣いができるかどうかというのは、ある種の技能だと思うのです。
例えば英語が得意とか足が速いとかと似たような。
確かにあってもいいし、あった方がベターなのかもしれませんが、別に誰もができなければならない必須の技能だというわけでもないでしょう。
英語は苦手だし面白いとも思わない、という人に無理矢理勉強させる必要はないでしょう。
それと同じことだと思います。
英語が得意ならそれを使う仕事に就けるかもしれませんし、足が速ければ陸上選手になれるかもしれません。
何をされたり言ったりしたら相手が喜ぶかを瞬時に察知して、その通りに振る舞うことが得意ならホストかホステスになれるかもしれません。
それらの能力がなければ単にそのような仕事には就けないというだけで、人として問題があるとか魅力がないというわけでは決してないと思います。
他人によほど不快な思いをさせない程度の気遣いがあれば十分だと僕は思うのですが・・・。
臭い言い方をすれば、そんなことができなくてもTさんにはTさんの良さ・魅力があるのではないかと・・・
そんな風に思いました。

死は共鳴する

小松美彦「死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ」という本を読みました。
著者は脳死・臓器移植に対し最も強く反対している論者の一人だと思います。
僕は大学の教養課程時代に著者の講義を聴講し、
「自分の目で見る、自分の心で感じる、自分の頭で考える」姿勢を求める講義内容に強く感銘を受けたことがあります。
残念ながら数回しか出席できませんでしたが。

本書で特に強調されている点を簡単にまとめます。
医学・医療が発達し、死を対象とするようになるにつれて、
死を構成する様々な要素のうち医学の対象と成り得る生理現象としての死亡だけが、
死の中で突出した存在となってしまった。
その結果、死は(死を構成する不可欠な契機ではあるが一契機にすぎない)死亡へと還元され、
死は死にゆく個人に内属したもの、
それゆえ死にゆく個人の所有物であるとして了解されるようになってしまった(個人閉塞した死)。
しかしながら、本来死とは死にゆく個人に内属したものではなく、
死にゆく者と看取る者、死んだ者と死なれた者との関係の中で成立するもの、
その関係に応じて様々な様相を持つ個々に具体的なものであり、
時間的にも広がりを持ったものである(共鳴する死)。
そして、「個人閉塞した死」だけがはびこっているかに見える現代においても、
ある種の「共鳴する死」はわれわれの日常生活の中にしっかり生き残っているのである。
このような考察を踏まえ、
生きている状態と何ら変化がなく非専門家には感知できない脳死を死亡の判定基準として採用することを、
死の観念の希薄化、「共鳴する死」の忘却へつながるものとして否定する。
さらに、一見抗いがたく感じられる「死の自己決定権」という主張、
すなわち「私の死について、脳死を選択するか心臓死を選択するかは、私の自由」という考え方をも、
死が個人の所有物であることが前提となっており、
看取る者を置き去りにし、共鳴する死を切り捨てるものであるとして否定する。

著者はあとがきで「言われてみれば当たり前のことしか結局は述べていない」と言っています。
しかし、少なくとも僕は、指摘されなければ気づかなかったし考えもしなかったのではないかと思います。
まさに「自分の目で見る、自分の心で感じる、自分の頭で考える」ことを常に意識していなければならないと強く感じさせられる一冊でした。

貴乃花

僕は相撲が結構好きです。
最近はあまり見ませんが、昔は良く見ていました。
で最近、貴乃花が二所ノ関一門を離脱して理事に立候補するということが話題になりました。
貴乃花を支持する親方も事実上の破門となったそうです。
貴ノ浪とか高三杉とか貴闘力とか・・・なつかしいです。

民主主義がベストだと言うつもりはありませんが、
一門内の談合の中で理事が決まるよりは、
なりたい人が立候補して選挙で決める方がベターなのではないでしょうか。
大体、一門って選挙以外にはどんな存在意義があるのでしょうか。
ただ残念なのは、
貴乃花が理事になって何をやりたいのかが伝わってこないことです。
それでも、一門の縛りをなくし誰でも理事に立候補できるようにするだけでも、
まずは十分な改革と言えるのではないでしょうか?

ところで、YouTubeで見ていて思ったのですが、
北の湖の立ち会いってひどくないですか?
全く手をついていないんですけれど・・・
というか、手を付く気すら全く感じられません。
蹲踞して立ち上がり、そのままぶつかっていく位の勢いです。
衝撃的です。
昔、小錦の立ち会いがひどいと思っていましたが、その比ではありません。
しかも完全にマイペースです。
武蔵川理事長(元三重ノ海)が立ち会い厳格化を打ち出したのは、
北の湖の立ち会いに苦しめられたからなのでは・・・と思ってしまいました。
どなたかご存知の方がいましたら教えてください。

博士論文

昨日は博士論文の審査会でした。
審査員5人とその他の聴衆(8人ほどいたでしょうか)の前で45分ほど論文の内容を話し、
その後40分以上質疑応答があったと思います。
発表は、原稿を作りほぼ暗記して臨んだのでさほど問題なかったと思います。
質疑応答では、本当に色々な内容が出ました。
僕自身も明らかにしたいと思っているのですがどのような解析を行ったら良いのかわからず、
いわば今後の課題となっている点について、
明らかにできないのか聞かれたり、
論文中の表現、記述のバランスなどについての指摘を受けたりもしました。
それでも最終的には、2,3の改訂を行えば良いとのことのことで、
どうやら学位を頂けることになりそうです。
多くの方々に支えられて、なんとかここまでたどり着けました。
論文は、量としては英語で80ページほどと博士論文としてはかなり短い部類に入ると思いますが、
それなりに充実した内容を明瞭かつコンパクトにまとめられたのではないかと思っています。
実際、論文および発表を通して、その内容・主張はきちんと審査員の先生方に伝わり、
かつある程度までは納得して頂けたのではないかと思います。
まだあと少し残っていますので引き続き全力を尽くしたいと思います。
ただ、今週末は休ませてもらいます。

投稿論文の査読結果

3ヶ月ほど前に投稿した論文の査読結果が先日返ってきました。
いくつか改訂せよという内容でした。
かなり難しそうな要求もいくつかあるにはありますが、
全く答えられないというほどのものはないと思います。
二人の査読者とも、
全体的には内容を高く評価したくれているので、
その点は良かったです。
これからは、
D論の発表会、その結果を受けてのD論の改訂(おそらく)などもあるので、
かなり忙しくなりそうです。