新約聖書を知っていますか? 知りません。ってことでオーディブルで聴きました。

 

知らないとはいえ、いまわたしは聖書を少しずつ読み進めていて、この本を聴いたときは「マタイによる福音書」を読み終えて「ルカによる福音書」の途中でした。

 

この本は新約聖書の内容を順を追ってわかりやすく説明するというより、新約聖書ダイジェスト版エッセイという感じです。それでも新約の大まかな内容はつかめると思います。

 

阿刀田さんがいうように西洋の作品(絵画、映画、本など)に触れるとき、聖書の知識があるかないかで作品の理解度が変わってくると思うので、こういう軽妙な語り口で内容を知ることができるのはいいですね。

 

大まかな内容を知るだけならYouTubeとかでもいいかもしれませんけど。

 

 

阿刀田さんは信仰を持たないひとです。現実的な視点で聖書を読んでいます。わたしも信仰者ではないんですけど、イエスのことを修行・探求をした覚者だと思っているので解釈がちがうんです。

 

ちなみにわたしが聖書を読もうと思ったのは遠藤周作『イエスの生涯』という本がきっかけです。遠藤周作は信仰者です。遠藤周作の解釈・イエス像もちがうんです。聖書っておもしろいです。読むひとによって解釈・イエス像が変わるんです。

 

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イエスが話したと伝えられている言葉を読むと、わたしにはイエスが覚者にしか思えないです。イエスは自我の視点で話していないと思うのです。とはいえ律法学者やパリサイ人にいちゃもんをつけられて、上手いこといい返しただけに思える言葉だったり、未熟なわたしには理解が及ばなくて、わけがわからないって言葉もありますけど。

 

『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。……』

 

このあとも「こんな人たちは、さいわい」といろいろ続くこの言葉は(一般的、神学的解釈はわかりませんけど)「自我の限界」に気づいたひとが「さいわい」と話しているように、わたしには思えます。

 

『汝の敵を愛せよ』という言葉も、そんなの無理ですって思うんだけど、でもやっぱりその通りだと思うのですよ。「愛せ」っていったって、それはなにも敵に優しくしろとか、友だちになれとかいうことではなくて、時代や状況、立場によっては戦わなくてはいけないだろうし、避けたり、話し合ったり、いろいろあるかもしれないけれど「愛せ」だと思うのです。

 

なぜって、頭がどうかしているようなことをいいますけど、究極的には敵は自分だから。敵や自分、その憎しみですら愛(神、実在、仏などなど、言葉はなんでもいい)に含まれているから。実践するのはとても難しいけれど、その状況や敵や自分を(慈悲でもって)見つめるのですよ。それは相手のためにというより "自分" のために。

 

これはわたしの勝手な解釈で、阿刀田さんはこんなことは書いていません。現実的に聖書を解釈します。

 

たとえば「イエスの復活」はこんな感じ。

 

イエスを埋葬したアリマタヤのヨセフがこっそりイエスを移して復活を演出したのだろうと解釈しています。移動させるなら埋葬した人間が一番容易だろう、と。なぜそんなことをしたかというと、イエスにこのまま死なれたら、残されたこちらはやってらんないんですよ! ってことです。復活をでっちあげて残された者たちが組織作りに利用していったのはないかと……。

 

現実的に考えたらそうなりますよね。わたしも似たようなことを思いました。でも遠藤周作は疑問に感じていましたけど、わたしも疑問に思うのです。でっちあげだとしたら殉教を恐れないほどになれるだろうかと……。


ちなみにわたしが気になっている「イエスの空白期間」はユダヤ密教で修行していたのではないかと推測されていました。血が繋がっていない父の跡を継ぐことを遠慮して(弟に譲るために)早く家を出たのではないか、と。

 

 

この本を聴いてわかったのは、わたしは聖書に興味があるというより、イエスに興味があるのかもしれないということ。だけどせっかく聖書を読み始めたのだから「福音書」だけではなく全部お付き合いするつもりです。この本を聴いた感じだとパウロの圧はすごそうですねえ。黙示録も読むのが楽しみです。


それはそうと、この本で一番びっくりしたところは、十二使徒のだれも「福音書」を書いていないってこと。ヨセフは四人いるってこと。聖書に詳しいひとが「お、おまえ、そっからかよ……」と絶句するのか、「そういう説もあるよね」と流すのか、それすらわからないほどわたしが無知だということは置いておくとして、聖書に登場するひとって同じ名前のひとが多すぎじゃないですか。予備知識がないと区別できませんよ。

 

予備知識がないとちゃんと読めないんだろうなと思いながらも、べつに勉強をしているわけでもないし、今日も気ままに数ページ読み進めています。

 

 

最後に、この本とは直接関係ないけど、ダンテス・ダイジの言葉。

 

『イエスが言っているのは倫理っていうか、社会っていうものを安定させるための倫理を語っているんじゃあないんだよ。イエス・キリストが言っているのは唯一つだけだ。何でお前たちはさ、そんなに惨めに自分を自分で自分勝手に自分をさ、制限して惨めに生きているんだって。それだけさ。たったそれだけ。そのためにいろんなことを言っているんだ。』(「素直になる ダンテス・ダイジ講話録4」)