オーディブルで聴きました。

 

内容は題名のまま。遠藤周作が描くイエスの生涯。遠藤周作のイエス像。

 

最初にお断りしておくと、わたしの聖書の知識は、子どものころに読んだ旧約と新約のダイジェスト版の本(もしかしたらマンガかアニメだったかも)と、いろいろな作品などで引用されている聖書のエピソードやイエスの言葉に触れたくらいです。つまり聖書をまともに読んだことがない。そんな人間の感想です。

 

わたしがこの本を聴こうと思ったのは、イエスの空白期間はどう書かれているのかな、と思ったからです。イエスには空白期間があって、その期間に修行をしていたんじゃないかと思われるんです。インドに行ってヨーガを学んだという説もあるのですよ……。

 

この本には空白期間のことは書かれていませんでした。けど聴いてよかったです。遠藤周作が描く「イエスの人生ドラマ」にグッとくるんです。

 

このグッときたところを一つひとつあげてもいいんですけど、ここではオカルトらしく「十三章 謎」に書かれているイエスの復活について取り上げようと思います。

 

遠藤周作はこのようなことを書いています。我が身可愛さに師を見捨てた弱虫でイエスの教えを理解していなかった弟子たちが、イエスの死後、殉教も恐れない聖人になったのはどういうことなのか。イエスの死の前後に "なにか" があったにちがいない、と。

 

多くのひとはイエスの復活をどう解釈しているんですかね。イエスの教えが弟子に伝わったことを「イエスの復活」と表現している? イエスを神格化するための創作? 

 

イエスの復活を現実的に考えたとしたら、イエスの最期をあんまりだと思ったひとが、こっそり墓を掘り起こしてべつの場所に埋葬した、なんて妄想ができるかもしれないです。もっと妄想を膨らませて、イエスと似た背格好のひとに一役買ってもらった、なんてことも。でもこれはただの妄想。

 

オカルト的には、そりゃアストラル体でしょ、ってなっちゃうんだけど。『あるヨギの自叙伝』でヨガナンダのお師匠さまが亡くなったあと、弟子のヨガナンダのまえに現れたように(ヨガナンダは聖書を意識してこのエピソードを入れたかもしれないですね)。でもこれはオカルト的解釈。

 

たしかにオカルト的解釈なんだけど、イエスがアストラル体でもなんでもいいけど、死後に弟子のまえに現れて、弟子になにかを体験させたとしたら……数時間で聖人のように変わってしまうのもありえない話じゃないと思うんですよね。っていっても、その「弟子のまえに現れる」っていうのがありえない話なんだから一般的には、なにいってんの? という話ですよね。

 

なにがあったにせよ、またはなかったにせよ、師は死でもって弟子たちを導いたんですよね……。

 

『イエスは弟子たちのために死んでやらなきゃいけなかった。 byダンテス・ダイジ』

 

*

 

聖書を読むと疑問に思う「なぜイエスは自分に対して奇蹟を行わなかったのか」「なぜ神はイエスを助けなかったのか」についても書かれていました。

 

遠藤周作はイエスを無力な "人間" として描いています。これはこれでグッときます。

 

『イエスは群衆が求める奇蹟を行えなかった。湖畔の村々では人々に見捨てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、子を失った母の手を一夜じっと握っておられたが、奇蹟などはできなかった。』

 

なぜ奇蹟を行わなかったのか、なぜ神はイエスを助けなかったのか、イエスは無力なひとだったのか、わたしにわかるわけがないんですけど、もし磔になったとき、例えばイエスを磔にしようとしたひとが突然苦しみだすとか、みんなが見ているまえで姿を消してべつの場所から歩いてくる、なんて奇蹟が起きたとしたなら、いまわたしがイエスを知ることはなかったかもしれないと思えるんです。

 

そういうことはそれまでに充分に起きてますよ。死者をもよみがえらせるほどの奇蹟(超能力にしろ、信じられない偶然、思い込みにしろ)を起こしてきたイエスを、人びとは自分の期待とちがう、自分の欲望を叶えてくれそうもないと思うと見捨てたのだし、弟子たちも我が身可愛さに見捨てたのだから。最期のときに奇蹟が起きても同じだったんじゃないかと。これまで奇蹟を見てもだれひとり、その奇蹟が起きる力、そのものに目を向けたひとがいないのだから。イエスは奇蹟を通して、そして最期の姿を通して、この力はあなたにもあるんだ、この力は愛(神)なんだ、わたしが神の子なら、あなたも神の子なんだ、と伝えようとしていたんじゃないかと思うんですよね……。

 

……聖書を読んだこともないのに自分の妄想を暴走させてしまいました。

 

ちなみにダンテス・ダイジは遠藤周作のイエス像(病人の手を握って泣くことしかできない無力な愛のひと)についてこんなことを話しています。

 

『あれはね、遠藤周作さんがね、あまりにもね、ヒューマンすぎるんでね。イエス・キリストなんてとんでもない男だよ。そんな男じゃないって(笑)。本当にあれも知ってりゃこれも知ってるっていうとてつもない男だ。(略)俺だってそんなものを聞くとさ、何かしみじみとしてきて涙が出そうになるよ(笑)。だけどそんな男じゃないもの。時に応じ期に応じ自由自在ってところがあった。それから血の気も多いし野蛮だし。』(「君がどうかい? ダンテス・ダイジ講話録 2」)

 

これはダイジのイエス像。

 

近いうちに聖書を読んでみようと思います。自分のイエス像を持ちたいです。