宮部みゆき『ペテロの葬列』をきっかけに手に取った本(杉村三郎シリーズ、おもしろいです)。

 

とても興味深い本でした。

 

内容は、 "自己啓発セミナー" の先駆者の半生を軸に、マインド・コントロール産業の流れを追ったノンフィクション、という感じですかね。

 

この本に書かれているようなセミナーはもうないでしょうけど、いまでも当時使われていたマニュアルやテクニックを利用して、なにかやっているひとがいてもおかしくないと思います。『洗脳体験』にも書かれているように、ひとは思うよりもシンプルな方法で簡単に変えられてしまいます。

 

このようなセミナーはクリスチャンに向けて行っていたのが始まりだったそうです。隣人愛を説いていても、本当に愛しているのはそんな隣人愛を説いている自分だけ、なんてこともあるようで、実践がともなっていないことに気づいてもらい、本当の隣人愛に目覚めてもらおう、という目的で行っていました。なかには本当の自分に気づいて聖職を去ったひともいたそうです。

 

それが企業研修として使われるようになり、マルチ商法に携わっていた人たちがその研修に目を付け、マニュアル化して自己啓発セミナーに利用していった、という流れがあるようです。

 

ST(感受性訓練・センシティビティ・トレーニング、略してST)という企業向けセミナーで行われていたことがとにかくすごいんです。とんでもない暴力行為。精神に変調をきたすひとや自殺者も出ています。業務命令でこのようなセミナーに行かされていたなんて、ホント、すごい時代です。

 

なぜ暴力が振るわれていたかというと『チェンジ体験』をしてもらうためだったみたいです。『チェンジ体験』というのはセミナー主宰者いわく「禅の悟り」のようなものだそうです。自分がやっていることを曹洞宗の老師に話したら「あなたがやっていることは禅です」といわれたそうです。

 

アメリカでは「STはLSDよりも効果がある」なんていわれていたこともあったみたいですし、きっと変性意識を体験できたんでしょう。それに「見られている自分」を発見できるんだそうです。ということは「見ている自分」を発見できるともいえますからね。自己観察。なにもそんなに恐ろしい暴力や、強い精神的負荷をかけなくても、瞑想という方法をとったらいいじゃないの、とわたしは思いますけど。

 

話を聴いた禅寺の老師はこんなことをいっています。

 

『私たちが二十年も座らねば到達できない境地を、一週間でおやりになっているとは恐ろしいものですね』

 

そしてこうもいっているんです。

 

『ときに……そのセミナーの効果は持続しますか』

 

 

STで行われていた精神的・肉体的暴力は本当に本当に衝撃的(精神の混乱を起こした人たちの描写は読んでいて息をのむほど)なので、いろいろ感想を残したい気持ちもあるんですけど、ここではオカルトらしくセミナーで体験する「神秘体験」についてとりあげようと思います。長くなるので最初に結論をいっておきます。

 

「神秘体験」はきっかけ(ときには支え)にはなるけれど本質じゃないと思います。

 

この本には『チェンジ体験』ができるかもしれないSTを受けたひとがたくさん紹介されています。わたしが注目したのはふたり。

 

ひとりは牧師さん。もうひとりはSTを受けたあと仏門に入った男性。

 

まずは牧師さんから。

 

牧師さんは信者から「夫が会社の研修に行ってから頭がおかしくなった」と相談を受けます。詳しく話を聴くと、研修から戻った夫は雨が降る窓の外を眺めては涙を流し、木の葉が揺れるのを見ては感激して涙を流している、と……。どういうことなのかと思って牧師さんは夫に会って話をします。そしてこの夫が自分と同じ体験をしていることに気づくのです。

 

牧師さんは15歳から20歳までキリスト教の信仰に全身全霊を捧げ、聖書の教えをひたすら実践したそうです。それはもう、右の頬を打たれたら左の頬を差し出すような徹底ぶりで。そこまでしても神の存在を感じることはなかったそうです。牧師さんは20歳のときに決心します。「今晩、夜を徹して祈ってなにも起こらなかったら、もうキリスト教とは縁を切る。」そして神を感じます。神秘体験。

 

企業研修で宗教体験ができることに驚いた牧師さんは、その研修に興味を持ち、研修を受け、その後、牧師の仕事を休職して、研修のトレーナー、研修を主宰する側の人間になってしまうんです。『教会できれいごとを言っているよりSTのほうが遥かに意義があった』、だそうです。

 

もうひとりはSTのあと仏門に入った男性。

 

「STで得た感動は時間がたてば薄れてしまう。日常生活では同じ感動を味わうことはできない。STには限界がある。」そう思った男性は宗教を毛嫌いしていたのに仏門に入るんです。STで感じたものを確かなものするには信仰、宗教実践にしかない、と思ったんでしょうね。

 

どちらがどうこういえるようなことじゃないですけど、神秘体験をどう受け取るかということを考えてしまいました。体験にとらわれてしまうことを考えさせられる、というか。「神秘体験」はきっかけ(ときには支え)にはなるけれど本質じゃないと思うんです。

 

祈りから入ったのにSTに流れた牧師さんが、わたしには驚きでした。STじゃ体験を深められないと思うんです。神秘体験をするだけなら田口ランディ『アルカナシカ』にも書かれているように、マジックマッシュルームやLSDでもできるようなことじゃないですか。