オーディブルで聴きました。

 

スピリチュアル(宗教、心霊主義など)の危険性についての本です。江原啓之さんや細木数子さんがテレビで活躍しているころに書かれた本みたいです。

 

スピリチュアルの危険性については同意しますけど、自分とは宗教解釈がちがうなと感じるところが多かったです。わたしは仏教を体系的に学んだことはないし、興味を惹かれた本を気ままに読んでいるだけなので、自己流の解釈をしているからなのかもしれませんけど……。

 

釈迦は "思考実験" によってアートマンを否定した?(仏教は哲学だけじゃないと思うんです。哲学だったらなぜ瞑想をする? 戒がある?) チベット密教は危険?

 

この本にはヨーガのことも書かれています。ハタヨーガ(柔軟体操みたいなやつ)をやってるだけならいいけど、ラージャヨーガ(瞑想)をやると危険だそうです。こんないいかたをするなら、ハタヨガだってひとによっては "危険"(エクササイズ以上の効果が強く出るという意味)だと思うんですけどね。どういうことにせよ、わたしは危険です。

 

ま、考え方の違いにしかすぎないし、わたしみたいなもんが違和感を覚えたところをひとつひとつ拾い上げても意味ないと思うので、本の趣旨から大きく外れるけれど、オカルト的におもしろかったところを取り上げたいと思います。

 

「神社の結界」と「祟り」。

 

まずは「神社の結界」の話から。結界を肌で感じたいなら御殿場インター近くにある浅間神社へ行くといいですよって話。

 

浅間神社じゃなくても、神社の鳥居を入ると体感温度が少し下がったような感じがすることってないですかね。神社の鳥居を出ると体感温度が上がったような感じがしたり。わたしの感覚だと体感温度のちがいのほかには、鳥居のなかは空気が締まっている、というか空気が整っているようで、鳥居のそとは空気がほどけるような柔らかいような気がします。ひとが大勢いないときの方が感じやすいような気がします。もちろん気のせいだけど。

 

神社の概念がない海外のひとはそのような体感はないだろうと、苫米地さんは書いています。気功とかをやっていて気感のある海外のひとだったらどうなんだろう、とちょっと気になりました。感じるんじゃないだろうか。

 

「祟り」についてもおもしろかったです。「祟りがある」という情報を知ったらもう "祟られる" 可能性が出てくるんだそうです。祟りがあると振舞えば振舞うほど "祟られる" 可能性は高くなる、と。

 

怪談とかで「この話は障るんだけど……」といったら、もう障る可能性が出てきちゃうんですよ。ウソでも信じてなくても障っちゃうことがあるんですよ。

 

といっても苫米地さんは「祟り」や「結界」を超常現象だと思っているわけじゃないです。簡単にいうと思い込み。だけどその思い込みに打ち勝つのはとても大変だともいっています。そして、こうもいっているんです。強い意志力が情報空間になんらかの影響を与えることができるのではないか、と。

 

これがわたしにはオカルト的に思えるんですよ。なので思い込みだろうがなんだろうが "祟り" も "結界" もあるってことじゃん。わざわざへたなことはしたくないわ、なんですよ。

 

苫米地さんの本を2冊オーディオブックで聴きましたけど(この本と『なぜ、脳は神を創ったのか』)、この独特の雰囲気、ある意味、胡散臭さ(失礼)みたいなものは、あえてやっているのかなんなのかわからなくておもしろいですね。