【長文】自分史[61]〜[64] | オカハセのブログ

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[61]アパートを夜逃げ

ライブハウスの「近代人」でセッションした翌日か翌々日に早速そのお寺へお邪魔させていただきました。

びっくりするくらい大規模な寺院でした。

ここまで書けばなんて名前の寺院かが分かる人には分かるけど(笑)。

詳しくは書かないけど、そこでは住職を交えてお寺の若いスタッフ(女性が3人)たちに、僕の自分史みたいなのを根掘り葉掘り喋らされた(これって多分僕への最大の【おもてなし】だったのかもしれないと思う)。そして、仏像や本堂やその他パワースポット等の前でサックスも吹かせていただき、多すぎるチップもいただいた(チップじゃなくてお布施なんだろうけど)。夕方近くまでお世話になってから宇都宮の居候先の多田さん(仮名)の家の「はなれ」に戻り、更に2日くらいお店でセッション等をして、その後宇都宮を離れた。

そして、水戸市の「ダウンホーム」関連の人達に挨拶をしてから札幌へ帰った。

その後、家賃滞納が続いたため、大家の持ってるもっと安いアパートのしかも事故物件部屋に移された。事故物件とは言っても、そこに住んでいたお爺さんの死後の発見が遅くなっただけで、その1ヶ月前には隣の婆さんと笑顔で会話していたらしいので、お化けは出なそうと判断して(というか家賃滞納してる僕を大家が追い出さすにその部屋に移してくれるのだから選んではいられなかった)住むことになる。家賃は確か数千円だった筈だ。もっとも他の部屋も2万前後だった筈(元々、札幌という街は五大都市の中では安いアパートが多い場所です)。結局その部屋はお化けは出なかった(笑)。しかしその後その部屋ですら家賃滞納が続いていた。

ラッパ吹きの小野(仮名)とは、その後も半年くらいはたまに行き来していたが、そのうちに会わなくなる。最後に会った時とかは色々とメンタルが疲れている感じがした。勤めている解体屋で少しイジメにあっていたのかなと想像する。

僕は僕でなんとか家賃滞納から抜け出そうと、中学卒業してすぐにしていた塗装の仕事をすることになる。しかもなんと、18歳の時に自転車で放浪する時に失踪することになった塗装屋に挨拶に行った…

先ずは20年程前に突然失踪したことを詫びて、それから現在の事情を話し、翌日から働かせてもらうことになった。親方は、当時のパワハラ一歩前の厳し過ぎる感じはほぼ無くなりかなり丸くなっていたので特に怒られることもなく働いていたのだが、1ヶ月も経たないうちに職場の人に対してあることでキレてそのままボロアパートに帰って翌日から行かなくなってしまう。

家賃滞納は更に続き、僕はアパートを夜逃げするつもりに切羽詰まっていたので、パーカッションの宇田さん(仮名)の荷物を処分したかった(数年前に大阪に一緒に出稼ぎに行ったけど現在は消息不明)。その宇田さんの弟さんが、北区でスープカレー店を営んでいたので、店に顔を出して事情を話し荷物を引き取りに来てもらった。

もうこの頃になると酔っ払って部屋に帰ってくると、部屋の鏡に向かって、自分に「お前、何やってんだよ!生きる価値がねえんだよ!」って言うくらいに色々と切羽詰まっていた。

大家にも呼び出され「仕事なんて選ばなければいくらでもあるだろ。お前は嘘つきだ。俺はな、お前みたいに嘘つきが嫌いなんだよ!」と説教された。

ここまで来ると、流石に僕は【社会的な不適合者】なのだと認めざるを得なかった。世間で当たり前のように出来る筈の仕事も出来ず、もう登校拒否児のようにお腹が痛くなる始末だった。産みの母親からも数年前に呆れられているので頼れる人はいなくてニートにすらなれないし(今から考えたら、それはよかったのかもしれないけど)、母親は自分にも責任が少しはあるとは認めなかった。多分認めると母親自身のメンタルが危なかったのかもしれない。

そしてその後まもなく手にサックスを持ち背中のザックに入る荷物だけ詰めてある夜に夜逃げした。



[62]ホームレス。そして完全な孤立


流石に外で寝ている間に大事な楽器が盗まれては困るので、路上演奏で毎日サウナ代以上は稼がないと行けない。この頃はまだ現在に比べたらずっと景気が良かったのでなんとか毎日サウナに泊まることは出来た。しかしいっときも休めないのは辛かった。だからたまたま沢山稼いだ日には、数日間サウナ施設から出ずに連泊してメンタルを休めた。

一方でベースの瀬尾はあちこちで引っ張りだこになって行き少しずつ僕に付き合っているような状況ではなくなった。僕とつるむのは多分色々リスクがあるのだろう。あちこちで瀬尾の耳にも「長谷川、アイツは云々」と間接的または直接的に届くようになっていて、瀬尾からしても否定することは出来ない事実だったようだから「ホントですよね」と、1〜2割の社交辞令と8〜9割の本音で返事をしていたようだ。なので全く顔を見せない。だけど彼は彼でジャズ研の学生達で派手に見栄えの良いストリートをしていた。先ずそもそもコントラバスがあるだけで見栄えが半端なく良い。僕がひとりで吹いていているよりも瀬尾達が3〜4人で演奏しているほうが10倍以上は投げ銭が入っているらしく彼らは終わった後に飲みに行ったり焼肉に行ったりしていた(実際、僕が瀬尾達とやっていた時の稼ぎは良かったのは事実です)。こっちはサウナ賃と食事代の2千円を確保するのが大変だった。多分彼は長谷川がこんなに投げ銭に困ってるとは思わなかったんだと思う

僕は悔しさ怒りでついつい「瀬尾!なんで学生達で小遣い稼ぎをやって、俺とはやらないんだよ!俺は生活大変なんだよ!」と横柄な言いかたで怒鳴るものだから「そんなの俺の勝手ですよ!」とキレられた。もっと素直になるべきだった。「瀬尾、俺は本当に毎日のサウナ賃確保するのも大変なんだよ。頼むから俺も仲間に入れてくれないか?ひとりで無伴奏で吹いてると本当に投げ銭は少ないんだよ」と言うべきだったがプライドが邪魔をして言えなかった。もちろんひとりで無伴奏で吹いていても稼げるストリートミュージシャンもいると思う。それは路上ライブで客を集めるセンスがある人だ。そういう意味で、長年路上ライブで生活して来た僕は「路上ミュージシャンとしての才能が無い」と良くわかった。基本的にひとりで演ってるストリートミュージシャンは愛想もある程度必要なのは事実だった。しかし瀬尾は僕と絡むことが札幌のジャズメン達にあまりよく思われない空気の中にいたのかもしれない。忙しいのもあるけど、実際に「あの頃は俺も自分のことで精一杯で、敬遠していたのは確かだった」と後年言われたことがある。

そして余りにも札幌ジャズシーンから村八分にされるものだから本来軟弱な自分のメンタルは更に自信が無くなっていった。【空気を読めないイタい部分はおそらく自分の演奏にも反映されていた】だろうから、その角度から批判を受けることも多かった。なのでステージに立つと「自分のイタい部分がまた出てるのではないだろうか?」と心配になってしまい、全然自信の無さそうなサウンドになっていった。

そんな自分が情けなくなっていった僕はある時から、コンプレックスから来る自信の無さを取り払うために【鈍感】になることにした。

つまり【開き直り】の手段に出たのだ。

そして僕は更に孤立していった。



[63]自分から進んで孤立する


つまり【開き直り】の手段に出たのだ。

とても自分勝手な己をどんどん自分自身でフューチャーさせて追い込んで行き「これが俺の音楽だ!」と、自分にストッパーを全くかけずに、それはもうとても【音楽とは言えない、野蛮な自己表現】に徹することにした。当然の如く更に自分は孤立して行くのだが【自分でわかってやっているので強くなれてるような錯覚】が出来た。

しかし更に誰からも相手をされなくなり、とうとう自分の音楽活動は【たった1人でススキノのミスタードーナツ前でサックスを吹くこと】その1つだけになってしまった。「彼はジャズ活動が好きとかバンド活動が好きとかではなくて、ただサックスを吹くことそのものが好きだから路上で1人で吹いているんだ」という褒めてるわけでも貶しているわけでもない解釈で噂されていた。現実にはそれは誤解で、自分はバンドをやりたくても組めず、瀬尾も一緒に演奏してくれない孤独の中で、とても悲しい気持ちで日々路上ライブをしていたのだ。

ある時テナーサックスを大掛かりなメンテをしないといけなくなりリペアに預けたら、今度はその修理代を払うのに何ヶ月もかかることになり、その間はアルトサックスのみで演奏していた。

ある日の朝方、いつものようにアルトサックスを吹き終えてサウナに向かう途中で、当時札幌では権威のあるベーシストの説法さん(仮名)に偶然会ったので少し立ち話をした。今の僕の現状を知って説法さんはボーカルの黒石さん(仮名)がオーナーのジャズバーに僕を紹介していただけることになった。それからは少しの間は、路上ライブの前や合間にしょっちゅうその店で演奏することになりました。だけどアルトサックスを吹いてる僕の演奏は未熟で説法さんに響かなかったと思う。少しずつ塩な対応になって来て(演奏だけでは無くて多分人間性もだろう)、僕に話しかけることもなくなったので、なんとなく店には行かなくなった。

けど黒石さんは「いつでもまた来なさい」とは言ってくれた。

今から振り返ると、ホームレスになりながらもサックスを吹いてる僕のことを説法さんや黒石さんはとても心配や応援をしてくれていたのだが、この頃の僕は…もう本当に…自分のことで精一杯で…

いや、、自分のことしか考えてない自己中だったと後悔している。説法さんはもう亡くなってしまったし、黒石さんに会いに行って謝る勇気もまだ持てない…

しかしそれは向こうからすると「顔も見せない薄情な人間」にしか映らないと思う…

そうこうしている内に、冬になり路上ライブは厳しくなる。実際に凍ってサックスのキーが動かなくなったり開かなくなったり閉じなくなったりで死活問題なので、西の方へまた春までしばらく放浪することに決めた。

流石に未熟なアルトで回るのは頼りないので、テナーの修理代をなんとか払い切ってからテナーを手に札幌を後にした。今回の放浪では、ほぼ一気に九州へ移動する

宮崎市内には「四海樓」という安い中華料理店があった。店内は3フロアに別れていていちばん安いフロアはラーメンと焼きそばが100円!そして中くらいの値段のフロアも麻婆豆腐250円、海老のチリソース煮が350円、鳥の唐揚げが200円!この店にはかなり助けられた。因みに、いちばん高いフロアは宴会客用なのでもちろん入ったことはない。

宮崎には10日間だけ滞在して、そのあと鹿児島に移動した。

鹿児島市の老舗のジャズ屋「パノニカ」によく顔を出して飛び入り参加とかさせてもらっていた。

白田さん(仮名)というピアニストに少し気に入られて自宅に泊まらせてもらったりもした。

ある夜、白田さんの自宅で一緒に呑んでいた時に、僕の今の札幌での現状と悩みを打ち明けた。札幌では完全に干されてることや、誰も一緒に演奏してくれないことや、その他演奏上の悩みなどを。

そこでもらったアドバイスで未だに心に残ってる言葉がある。



[64]応援してくれる人達を次々と裏切る


鹿児島のジャズピアニストの白田さん(仮名)から言われたアドバイスは次の通り。

「『音楽』である事に拘らずに、今はとにかく『嘘のない表現』をすることが大事です。今の君の音は『音楽』になる程には成熟していないし、『音楽』というのは今の君がすぐにできるようなそんなチンケなものじゃないよ」

文字にするととても厳しいアドバイスに思えるけど、これを実際に対面で言われた時には、とても優しさが感じられた。実際、目の前の霧が晴れるような気持ちになった。このアドバイスを受けてからは少しずつではあるけど「自分の自信の無さを隠すために自己中な自分をフォーカスさせる」という自己破滅的な試みから解放されて行き、少しずつ自然体に移行していくきっかけになった。

もちろんすぐにそんな風に変われたわけではなかったけど。

鹿児島には1ヶ月程滞在して、そしてもう一度宮崎市へ立ち寄った。

宮崎のジャズ屋「ライフライン」(仮名)で、ジャズピアノの渋谷毅さんのピアノソロライブを観に行った。演奏後、渋谷さんを囲んで地元のミュージシャン等が会話をした。渋谷さん「僕は、音楽を演ろうなんて全く思ってないよ。僕はピアノに向かってただ感じたことを弾いてるだけ」数日前に鹿児島市でピアニストの白田さんが言った言葉と完全にシンクロしていた。あまりにも僕が自信がなくなっていたので神様がこのようなメッセージをくれたのかな?と良いように解釈した。

次に向かった街は長崎県佐世保市。佐世保では「イーゼル」という名の老舗のジャズ屋があると聞いて訪ねた。老舗というからクセのある怖いマスターがやってるのかと思いきや、それはとてもニコニコして優しいマスターだった(しかも若い奥さんと結婚したばかりらしくてとても機嫌が良かった時期だったようた)。佐世保にいる期間、このマスターにはとても世話になった(この人はイーゼルの初代オーナー)。佐世保では「佐世保サウナ」というところに泊まっていた。サウナ割引券やサウナ賃そのものをイーゼルのマスターがくれたりお世話になった。2016年に亡くなる前に挨拶出来なかったのが悔やまれる…  佐世保での初日から、サウナ室や浴槽に浸かっているとフレーズのアイデアが怒涛のように浮かぶ。僕は翌日すぐに五線ノートを購入して風呂で浮かんだフレーズのアイデアを忘れないように書き込むことにした。多い時には書き込んだ後ものの5分もしないうちに更に浮かぶので脱衣室のロッカーを開けるとすぐに書けるように五線ノートとペンを置いて置いた。そのノートは佐世保に滞在した15日ほどの間でほぼ全ページ埋まるほどの勢いだった。あの日々はなんだったのか不思議だ。数日前の鹿児島での白田さんからのアドバイスと宮崎での渋谷毅さんの発言で、少し霧の晴れた僕のメンタルはもしかすると感性が高くなっていたのかもしれない。この時に書き留めたフレーズアイデアが今の僕の演奏スタイルの半分くらいを占めています。

ある日、イーゼルのマスターから「九州の各ジャズ関係者達が(確か熊本県の)某温泉宿に集まってオフ会&セッションをする」というイベントに誘われた。経費はマスターが持つと言ってくれたので甘えた。そこで知り合ったジャズ屋のうちの何軒かを訪ねてそして数日ずつ世話になった。そして最後に世話になった長崎市の「カンパイ」(仮名)というジャズ屋。そこのマスターはサックス吹きということもあり歓迎してくれた。しかしある日、僕はあることで荒れてステージで酔っ払い、挙句にサックスを床に叩きつけて壊した。



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