クリスマスイブイブに想うまとまりのない話 | オカハセのブログ

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YouTubeは音楽発信として聴いてる人達を満足させるというより演奏宣伝の使い方が理にかなっているかもしれません。じっくりと音楽を聴く人ならYouTubeよりもCDなどをじっくりと聴くほうが遥かにハイクオリティですから。
「いやLPのほうが遥かに良い」というツッコミはなくていいです(笑)。

来年の話になりますが、
僕の中で去年と今年にやって一大イベント(笑)になってるコルトレーントリビュートライブですが。
毎年演るのは、宣伝的にはそのほうが良いのですが、あれからしばらく経って色々考えました。
今は僕的には数年に一度のほうが良いと感じて来ました。何故ならは、コルトレーンは僕がサックスを始めた原点ではあるけど、今はコルトーンの影響下ではないサウンドに気持ちは変わっています
もちろんコルトレーンは僕がサックスを始めた原点には違いない。だからこそ数年に一度くらいは一大イベントとしてトリビュートライブをやらせてもらえる以上はやりたいですもちろん。
だけど毎年は少しキツイかな。
何故なら、毎年やろうと思ったらなんだかんだで年中コルトレーンの影響下の姿勢を維持しなければならない。そうするとコルトレーン以外のものに行く時間を大幅に取られるし、色々と並行してやるのは難しいテクニカルな事情がある。

何もかも忘れてコルトレーン一辺倒になれるような企画ライブにするには今自分が目標にしてるコルトレーン影響下とは直接的には繋がらないアプローチをある程度自信を持って演奏出来るようにならないとコルトレーン一辺倒になるスウィッチもなかなか入れられない。【慣れているアプローチに簡単に逃げてる】という気持ちになる。
例えると。
コルトレーンはアバンギャルドに徹底的に行くためにテクニックを極めようとしていたんだと思う。
本当に【感覚だけのスウィッチ】を入れるにはアカデミックなものを中途半端にすると聴いてる人ではなく演奏側本人が躊躇する。だから頭を空っぽににするには極めるという。考えないで演奏するために考えて練習をしまくった。
わかりやすくいうとデタラメやっても自信が根底にあるピカソも絵を描く技術が元々凄かったりする。
聴いてる人達には感じてなくても、自分からしてみると僕のコルトレーントリビュートのプレイは過去の焼き直しに近い。過去の偉人の焼き直しという大それたものではなく、あくまで自分の過去のアプローチの焼き直しという次元ですがね。
そりゃ来年もやったほうが色々と得なのはわかってるけど、、だから悩むところです。
自分の中からナチュラルに立ち上がってくるフィーリングに従ったプレイがしたい。
そのほうがもっともっと良いライブになったと感じています。
本当の意味で瀬尾高志のベースと竹村一哲のドラムとは対等なレベルでやりたい。去年は思わなかったけど今年は彼らに守られ過ぎている(もちろん感謝)と感じた。
確かにコルトレーンにしてもマイルスにしても今だれがやっても焼き直しの部分はあります。でも、単なる表面的な焼き直しになるか血肉化して聴いてる人を感動させられるかの違いは大きいと思います。焼き直しが悪いのではなく、新鮮にインプロヴァイズ(即興)できるかのメンタル面です

例えば一生ブルーススケール1発でも常に新鮮にインプロヴァイズできるメンタルもあれば、アカデミックなアプローチを極めても本人の中では新鮮ではなくなるメンタルがある。
こういう話っていうのは聴いてる側とはイコールではない話です。だけど【本人がマンネリと感じたメンタルだと】音楽という時間空間の芸術では止まってしまい気がつくと曲が終わってしまいます(笑)。
テクニカルなアーティストほどこのマンネリ感を感じるのは心理学的に理にかなっていると思います。やはり自己顕示欲というものと無関係ではない。
その点一生ブルーススケールだけでやってる人は自己顕示欲よりもむしろメンタルはナチュラルになりやすい
僕の場合はギターとかギタレレ引いてる時にはマンネリでもあまり気にならない。
良い意味で多分趣味という感覚だからです。
だから誤解を避けずに言うなら、サックスもオカリナも【遊んでるみたいに演奏】できたら今の何倍も良くなるはず。
でもそれが、僕にとっては難しい。

人それぞれ楽器を始めるキッカケは別です
僕の場合は音楽をやることが生きていけるキッカケになったからそれはそれで感謝してるのですが、どうしても自然体の遊び感覚にはなれない。瀬尾に言わせれば「傷を負った人間のなんたら」ってやつです(笑)
だけどそういうのと無関係で音を出せたら僕の中では大成功です。
僕にとっては、コルトレーンの影響下にある演奏を僕がするのは=そのジレンマと繋がっています。
確かに音楽って、プレイヤーのフィーリングが聴いてる人にダイレクトに伝わった瞬間に感動するから、傷みを経験して深みが出てると聴いてる人が思うのはそれでいいのですよ。だけどそれはそれで、語弊はあるかもしれないけど「お涙頂戴」的な感じもする。傷なんてわざわざ見せなくてもいい。傷はなかったことにはならない。ずっとそこにある。
人間的にも魅力的な人は、傷を負っているけどもそれを超えて愛を注いでいる人だから。
そういう意味のナチュラルな感じに行けば成功だと思います。
もちろんプロセスだから良いも悪いもないし、プロセス途中だからこそできるものはあります。

サックスも大事だけど今はオカリナを極めたい気持ちが大きい。


なんだかまとまりのない話でした(笑)。





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