お山の生活火のある暮らし  -3ページ目

お山の生活火のある暮らし 

楽しくてがんばらない脱力系田舎暮らしをしています。
人や自然、動物、自分との関わりについて、生きることに関係あること全般、山で暮らしながら日々感じることを綴っています。

 

 

羽仁もと子さんを知ったのは、去年姉に予算生活の家計簿を勧められたことがきっかけだった。
 

「家計簿イコール減っていくお金を書き留める」という勝手な思い込みを長年持っていたので、持ってないお金が更になくなってしまうのが嫌で、ずっとお金の管理を避けていた。

ところが羽仁もと子さんの考えに触れると、家計を把握していることにはものすごいメリットがありそうだということが分かった。

 

お金がどこからやってきて何にどの位使われているのか「明らかになっている」という状態は、無暗に”お金が足りない!”と不足感を抱いたり、”これにお金使ってるってことはこれが我が家では重要なのね~(例えば娯楽費の中の温泉代とか)”というのが分かったりして、家計に対する不安が減って、楽しみが増えた。

家計簿をつけ始めてからお金に対するネガティブな見方も減って、お金に素直に感謝できるようになった。
 

 

「人生の朝の中に」という本では、羽仁もと子さんの生きることに対する哲学のようなものが文章のいたるところにちりばめられている。

 

 

 

 

生きている時代はまったく違うけれど、同じ女性だから余計に共感できるのかもしれない。
1920年(大正9年)に書かれた羽仁さんの言葉は、今の時代に読んでもハッとさせられる。
 

 

 

私たちは自分の不親切によって得た金で肉を食べるよりは、しばらく忍んで野菜を食べていればよいと思います。

 

 

 

 

分業一方の社会をつくれば、ほんとうに整然と少しの無駄もなく、能率的に辻褄があってゆくように見えますれど、大きな辻褄の合わない証拠が、ある一方に明らかに出てきます。蜂の例で言えば、繁殖の役目を割り当てられて、すでに役目を終わった雄蜂が殺されることです。何といういやなことでしょう。ある一つの役目のために私たちがあるということになれば、その役目が済んでしまうと、なくてよい人になってしまいます。(中略)

 

すべてある役目の対象として人間を見るのは非人道的な思想および感情です。母という栄えある役目の対象とするにしても同じことです。夫を失って未亡人になり、子どもを育て上げて生み殻になるようなもので人間はないと思います。絶対の自己を自覚しているものには、自己の絶対的生活がなくてはなりません。それはすなわち各人の与えられた人格と才能を十二分に発揮することで、その最もよい道は職業です。

 

 

 

朝から晩まで同じ仕事をすることによって機械のような能率を人に求めたり、自分に求めたりすることは、やがてわれわれを殺すものであります。

 

 

 

 

女性として家庭を持ちながら育児をしながら自分を輝かせて生きるには、男性的な「一日勝負の仕事ではなく、長い年月の間に成長して毎日のわずかの時間が生きた連続をするようなもの」を仕事に、そしてその「だんだんに育ってゆく仕事というのは、仕事の種類よりも、むしろ仕事をする態度にあると思います。」と羽仁さんは言う。
 

 

「態度」とは、「人に親切な仕事」をする態度。これは人に喜ばれる仕事や誠実に仕事をする態度とも言い換えられると思う。

 

それで上記の「自分の不親切によって得た金で肉を食べるよりは、しばらく忍んで野菜を食べていればよい」という言葉がある。

 

人の事を考えない、お金が得られればそれで良い、というような仕事をして肉を食べるのでなく、誠実に、相手のことを想って仕事をしていたら、時には野菜を食べて忍ばなければいけな時期もあるかもしれないけど、いずれ仕事は拡大していきますよ。そして収入にもつながっていきますよ、そんなことが書かれている。

 

 

わたしも子育てをしながら自分で仕事をしていきたいと思っているので、羽仁さんの言葉を心に留めて、大事にして少しづつ前に進んでいきたい。
 

 

 

 

 

 

旦那さんは製炭師です。

製炭? はい、炭です。あのバーベキューの時に使う。

 

俗に言う、炭焼きさんです。

ブログにはずっと私の心のうにゃうにゃを書いてきたけど、そんなことよりきっと読む人にとっては、炭焼きのマニアックな話とかの方が面白いかも!と思ってこれからちょこちょこ「炭焼き」という仕事と暮らしについて書いてみようと思います。

 

 

きのうは窯出し(出来上がった炭を窯から取り出す昼夜ぶっ通しの作業)だったので、窯にご飯を持って訪ねた。

 

 

 



窯の内部は2000℃近くあり、燃え盛る炭を窯から出すのは熱気との戦い。

”エブリ”と呼ばれる長い鉄製の棒で、3メートルほど離れたところから取り出す。このエブリ、わたしが持った感じでは10キロくらいありそう。もっとかな。プルプルして持ちあげるのがやっとの重さ。もちろん男の人が持っても重い道具なので、写真に写っているように、天井から垂らした鎖に引っかけて、そこを支点に使いこなします。

 

 





黄金色、お金の色になってたらよく焼き締まって堅い、いい炭なんだそう。
 

焼いた炭が全部売れてお金になるのかと思うと、私はいつもごうごうと黄金色に輝く炭を見て、ついついニヤニヤしてしまう。旦那さんは灼熱地獄でそれどころじゃなさそうやけど。





炭を取りだした後のエブリは熱で真っ赤になる。

 

窯に来るたび、この熱を利用して鍛冶屋とか風呂やとかできそうやな~と余計なことを考えてしまう。

 






 

夜の窯出しは闇の中に炭が浮かびあがって幻想的。
いつかグアテマラの火山で見た溶岩みたい。

 

 

 

 

 

炭にするための木を山から切り出すところから始まる、炭焼きという仕事。100の仕事がある百姓ほどじゃないけど、たくさんのプロセスを経ておよそ1カ月かけて炭が完成します。


炭焼きの仕事の面白さや、炭がある暮らしの楽しさなんかもブログを通して発信していけたらなぁと思っています音譜

 

 

 

 

 



 

なかなかお天気が続かないので新米が収穫できず、とうとう去年のお米が尽きてしまった我が家。

久しぶりにトルティーヤを焼いた。

 

 


旦那さんはグアテマラに、わたしもメキシコ・グアテマラに20代の頃住んでいたので、二人ともトルティーヤはソウルフード。息子も具をまきまきして食べるのが大好き。
 

 

グルテンを気にして米粉で代用したり粉ものから離れてた時期もあるけど、やっぱりわたしは粉が好き! 

 

それに粉が悪い、グルテンが悪いというよりは、現代人の嗜好やニーズに合わせて、過剰な品種改良を重ね、不自然な作物を、農薬がかかっていても安いからと気にせず、私たち消費者が長い間求めてきたことが、アレルギーを生み出してしまったんだと思う。

体は、”近頃の小麦、ちょっと元々との”小麦”という植物からだいぶ違うものになってますよ!”ということを知らせてくれているんだと思う。


グルテンフリーもいいけど、小麦やグルテンを悪者扱いするんじゃなくて、やっぱり私たち現代人の食べてるもの、農家や企業に求めてきたもの、作らせてきたものって間違ってたんじゃないか、ってことに気付いて、小麦に限らずだけど消費と言う名の投票を日々し直していかなくっちゃと思う。

 


家にあったのは九州産強力粉、ご近所さん栽培中力粉、国産薄力粉、煎り米ぬか。これを適当な割合で混ぜて生地を作った。

 

 

 

 

2回戦生地作りは息子と旦那さんコンビで♪


粉はやっぱりたのしいな~♪

 

先週から読み始めた「神との対話2巻」。

 

 

 

 

 

ヒトラーが地獄へ行ったかどうか(そもそも地獄なんか存在しない、という話)や、タバコは合法で大麻が違法になっている世の中の欺瞞、軍事費(武器・弾薬・国家的防衛と人殺し)にかけるお金を、貧困にあえぐ人達の生活を保障するための予算に振り向けることなんかが書かれていて、読んでいてふんわり系スピリチャル本にはない爽快感がある。

 

 

不正や搾取、紛争、貧困が続く世の中、それを見て見ぬふりしつつ富を増やしていく権力者とその仕組みに気付いていながら容認する人達で形作られる今の社会を「原始的」だと観察している神。

 

 

第11章ではこう言っている。

 

 

「外側にある物質的な世界によって幸福が得られるのだとしたら、あなたがた(富める者)は人間として、国として、幸福になるために積み上げたものをひとかけらたりとも手放すまいとする。


持たざる者もまた、自分の不幸を物質的な欠乏のせいにしていたら、つねに人が持っているものを欲しがるという罠に落ちる。」
 

世界中で持続しうる唯一の平和は外部(物質)に依らない「内的平和」と定義した上でさらに話は展開する。

 


「それぞれの人が内心の平和を見出せば、外部世界の物(物質)を必要としなくなる。「必要としない」、それは自分には持てないものがあるという不安、特定のものがなければ幸せになれない不安から自由になることを意味している。

 

「必要としない」と怒りからも自由になれる。怒りとは不安の表現だ。不安に思うことが何もなければ、怒ることもない。」 



(中略)

 

「あなたは心の中で直観的に、自分の中で創り出したのもはすべて再び創り出せることを知っているし、もっと重要なことはじつはそれがどうでもいいことも知っている。」

すべて創り出せる!

しかもそれすらもどうでもいい!らしい。




なんか話が壮大過ぎて、ついていけないけど。

 

 

「内心の平和を見い出したとき、人であれ、場所であれ、ものごとであれ、条件であれ、環境であれ、状況であれ、そうしたことの有無では心の状態も自分という存在の体験も影響を受けなくなる。」


 

 

 

これと同じことを言ってるのがさとうみつろうさんの言葉。

 

(以下みつろうさんブログより)

 

 

「じゃあ、僕たちが本当に在りたい姿は、なんだろうか?

 

 

状況には左右されない人生

 

 

ですよね。

 

 

 

 

例え、明日が雨でもワラエル人に。

 

例え、生活が苦しくてもヨロコビを感じられる人に。

 

例え、上手く行かない夫婦生活でも創意工夫ができる人に。

 

 

 

状況を変えたようで、ずーっと、状況に左右され続ける人よりも。

 

状況に左右されない人を目指しましょう。

 

 

 

あなたは、目の前の状況や、置かれている環境にまったく依存せず、影響されず、その場で今すぐ、

 

 

 

幸せになれるということです。」

 

 


 



幸せを自分の外に求めない。
ただ、今すぐ、幸せを「選ぶ」だけ。


それ、ものすごーくムズカシイんですけど。

 

そう思うわたしを、さとうみつろうさんはこう締めくくって安心させてくれる。

 

 

だから、大丈夫だよ。

 

どこにも居ないさ、【幸せな状況】を生きている人なんて。

 

居るのは、

 

目の前の【状況】を、幸せだと解釈し始めた人たちだ。

 

 



 

「幸せです」

「満たされてます」

「ありのままの自分を生きています」というメッセージが溢れてるわたしからすると”悟った“ところにいるようにみえる成功者の方々。さとうみつろうさんのことはあまり詳しく知らないけど、華やかなブログを見ているとそんなイメージを抱く。

そのみつろうさんが「どこにもいないさ。幸せな状況を生きてる人なんて」と言ってる。

 

 

 

やっぱり隣の芝生は青かったのか!!

 

人よりお金がないとか、特別な能力がないとか、子どもが授からないとか、夫が無愛想とか、雨ばっかりで洗濯物にカビ生えそうとか、干してる米から芽が出そうとか、そういう状況はあるけど、それはそれ。わたしの幸せ=心の平安とは切り離せることなのかもしれないと思いはじめた。

 

「状況」に依存せずに、自分の内側で幸せを毎瞬丁寧に積み重ねていこう。

 


 

 

 

 








 



 

 

 

 

 

 

きのうから読み始めた”神との対話2巻”

おもしろい!分かりやすい!

「神様」の語り口調がわりと親しみやすい感じラブ


4歳になる息子の子育て真っ最中なので、教育や性のこと、親の在り方(というか人としての在り方)とかが具体的に書かれててものすごーく参考になる。

 

 

今一番悩んでるのは息子の保育環境のこと。
毎朝「保育所いきたくなーい」が口癖で全然行きたがらない。車に乗って行ってしまえばそれなりに楽しくご機嫌で過ごしている(らしい(先生談))。

 

 

私自身が学校や保育所という場所が、子どもの社会性のためにそれほど、というかむしろあんまり必要とは考えていないので無理に行かせなくてもいいけど、そうすると母子1対1で過ごすことになり、これは保育所に入るまでの3年近く続けてきたけど、正直かなりキツイ。

 

自分が手を上げないまでも、虐待や育児放棄があるのも、すごく理解できる。

 


子どもを見守る、育てるって、本来一家族や親だけですることじゃなく、親、兄弟、おじさん、おばさん、近所のおじちゃんおばちゃん、お姉ちゃん、身近にたくさん頼れる人がいてこそ当たり前に出来ることだと思う。

 



公的支援が手厚くて、探せば人もサービスもたくさんある都会。だけど自然から隔絶され、危険も多く、孤立しやすい都会。

一方川も海も山も自然はそこらじゅうにあるけど、使えるサービスが限られ超高齢化・過疎化で頼れる人や同じ世代の人は少なく、子ども同士が遊ぶにも車に乗せて送り迎えが必須な田舎。

 

 

子育ての環境が大変なのは都会も田舎も一緒だなぁと思う。​



 

子どもも親も楽で楽しい幸せな保育環境はないものか、、、

探せば探すほど、考えれば考えるほど分からなくなっていたところに、

 

「神との対話2巻」で神様が

「つねに同じことを選択し続ける」というのと

「さっさとやればいい」 

というとような意味のことを言ってて、ハッとした。

 

 

 

そしてこうも言っていた。
 

「選ぶ前に”最善”は何かと考えてばかりいることは、時間の浪費で、終いには期待の海に溺れてしまう」

 

 

 

もっといい保育環境を、と思ってるなら思ってないでやる。狭い村で誰かに何か言われるかもとか、やる前から心配してないで、やってみる。

 

坂爪圭吾さん風に言えば傷つく前に傷つくな。
”現状を打破する道はただひとつ、自分が恐れていることをやることだ。”の記事の中の一節。坂爪さんのブログ毎回秀逸すぎるタイトルと中身。)

 

 

よし!実行あるのみ!!
 

 

 

さぁ~とりあえず今日は残り3分の1、読むぞ~♪
 

 

まぁ、こうして昼間のんびりブログ書けるのも読書できるのも、行きたくない保育所に行ってくれているからなのです。ここで通常のわたしなら自責モードに突入だけど

「物事に善悪も上下も優劣もなにもない」

 

「あるのは”わたし”がそれをどう受けとるかという視点だけ」

 

 

 

 

 

あさま感謝・合掌あさま

 

 

しかございません。

 

 

 


自然農的有機農業をしている友達Kちゃんから
「野菜いっぱい余ってるんだけどいる?」と嬉しい連絡が来た。

オクラにキュウリ、インゲン、ピーマン、それにジェノベーゼソースどんだけ作れるの?!っていうくらい大量のバジルをもらい、お互いの近況をおしゃべりしてそろそろ帰ろうかな、というタイミングで

Kちゃん「ちょうどこっこちゃんに渡そうと思ってた本があるんだ~」と言って、1冊の本を貸してくれた。
 

 

「神との対話 2巻」 

 

 

 

 

 


ちょうどその日、Kちゃんと憲法についてや政治についての話をしていたところで、どうやらこの本にはスピリチャル系の本でありながら、一人一人の在り方にとどまらず政治や世界の枠組みなんかに関することも書かれているらしい。


面白そうやから3巻セット買っちゃおっかな♪
 



 

 

 

昨日、午後から奇跡的に晴れてきて、稲刈りも無事終わりました―!

 

 

 

 

 

機械が入らないくらいぬかるんでるし、六角タイヤ投入も出来たけど、残り少しだったので手刈りすることに。

 

昔の人は家族総出、村人総出でわいわいとお祭りのような雰囲気で稲刈りしたんだろうなー。そんな一昔前の里山風景を想像しながら、少し羨ましく思いながら夫婦二人で黙々と刈りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

米は蔵に収めるまでわからない!
明日からもスズメとサルとの闘いは続く! 

 

 

やっとやっとやーっと稲刈り開始! 

 

立秋を過ぎれば、夕立も止み雷も鳴らなくなって晴天がつづくはずが、ここのところの雨といい、蒸し暑さといい、異常!!

 

 

さて、我が家は家で食べる一年分のお米を一反の田んぼで作っています。今年で3年目のお米作り。

 

 

 

一反といっても、小さな段々になっている田んぼで8枚を合わせて一反。機械が入らない端の方はどうしてもほとんど手刈りになってしまう。鎌で刈って、去年取っておいた藁でひと束ひと束丁寧に縛ってゆく作業。

一人でやってると先が見えなくて嫌になってくるけど、今年も午後から母と友達が手伝いに来てくれた。

 

 


ママ友にも息子さんを連れて田んぼに遊びに来てもらうようお願いして、うちの子も一緒に子守りをしてもらった。ツリーハウスに登ったり近くの川で裸になって遊んだり、最終的にはやっぱり田んぼで泥遊びする3・4歳児。息子は同じ年頃の子たちと体をいっぱい使って遊んで楽しそうだった。
 

 

去年まではわたしが周りの人に「お願い」や「助けてほしい」と言うことが出来なくて、そのしわ寄せは小さな息子に向かってしまっていた。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、畑の作業、、、最初の内は機嫌良く付き合ってくれるけど、途中から遊んでもらえなく寂しくてつまらんくてイヤになってぐずりだす息子。イライラして疲れるわたし。。。

 

 

お願いの電話をするまでは「相手も忙しかったら悪いなー」とか色々気が引けたけど、息子の笑顔を見たらやっぱり頼んで良かったと思う。それに田んぼにたくさん人がいて、子どもの声が響いてるのは活気があっていい。



さぁ、午後からは昨日ぬかるんで機械が入らなかったところ、手刈り!!!
 

週末、あげまん男子モッさんのトークショーを聞きに行ってきました!

 

 

 

わたしにはものすごいバンジーだった、今回の大阪遠征。
産後子どもを預けて出かけたことは何度かあるけど、丸一日、しかも自分のためだけに時間(移動(行き帰りで合計9時間笑い泣き)とエネルギーとお金を一度にまとめてこんなに使ったのは初めてかも。

 

 

モッさんは元女性で結婚・妊娠・出産を経験し、性転換し男性になった今は、とても美人な奥さまと結婚し幸せに暮らしている。

 

 

 

「とにかく夫との関係を何とか良くしていきたい!」と、ほとんど勢いだけで申し込んだトークショー。行くと決めてから半月、毎日そわそわしながらモッさんと司会のタマオキアヤさんのブログを読んだりしながら過ごした。

読めば読むほど、そして実際にモッさんのお話を聞いて益々、誠実に生きておられる方だな~、と感じた。

 

 

聞いていてなるほど~と思ったことを幾つかまとめると、

 


クローバー自分の思いや感じていること、状態をパートナーに言う

クローバー何回も諦めずに色んな場面で伝える

クローバー一回一回、その都度思った時に言う(話す=放す・離す 思いを放出したら心から離れる、消える。心にためて思いを腐らせない。)

→これ、数日前にちょうど経験したところだった。

その時の記事はこちら「伝える、手放す」 

クローバー男性も甘え慣れてない人が多いので、甘えられる環境を作って慣れさせる
クローバー好き・嫌いの気持ちは表裏一体で波がある。嫌いになってもまた好きになればいい。

クローバー「好き」や「愛」の気持ちはずっと続かない。一生懸命生きてる「今」を持続させるのみ。

 

 

 

パートナーシップを充実させていくのって、小難しいことや小手先の理論じゃなくて、シンプルに「思いを相手に言う」を積み重ねていくこと。

 

そのためには心を開いて、自分の「思い」に気付く。
 

「快・不快」、「好き・嫌い」をちゃんとその時々に感じて、自分もその声を聞いてあげて、相手にも臆せず伝え続ける。

 

感じたことを自分の中だけで「なかったこと」にしない。

自分にも相手にも偽らずに生きる、つまり誠実に生きる、それがパートナーシップの極意なんだなと思った。


 

モッさんもタマオキアヤさんもブログを見ているとすごく華やかな世界に住んでるように見えるけど、きっと人一倍真剣に、誠実に生きることを一瞬一瞬、毎日積み重ねていらっしゃるんだろうと思う。だからこそ男性・女性としてそれぞれ輝いていて、パートナーシップも仕事も上手くいっている。そういうことなんだと、腑に落ちた。

 

 

結局、自分がどうするか!
 

「快・不快」を感じてそのままの状態に自分を放っておくか、

「いやだー!」 

「すきだー!」と表明するか。

 


「快適音譜」 「好きラブラブ」をどんどん選ぶ人生にシフトしていこう♪

 

さぁ、勇気を持ってバンジー飛びまくっていこー!!

飛んだからって(相手に言いたいこと言ったからって)、傷つくかもしれんし、後味悪くなるかもしれんけど、死ぬことはないからね。
胸の内で腐った思いは自分を蝕んでいく感覚はよーく分かるから、それに比べたらなんてことないはず!!
 

よし、やっぱり飛ぼう!毎日飛びまくろう!笑


 

 

 

今週もずっと雨がつづいている。きのう、奇跡的に晴れてきたので一気にお掃除テンションが上がって小そうじを実行!
クエン酸スプレーを作ってトイレ掃除に勤しんだ。

 

トイレ以外でも使える、万能クエン酸スプレーの作り方はこちら
 

 

 

トイレの他に、掃除すれば絶対心が晴れやかになる場所、それは

 

冷蔵庫 と   洗濯機。

 

 

 

うちの洗濯機は半外。葉っぱや砂が舞い込んで、洗濯機自体も粉石けん置いてるあたりもすぐに汚くなりがち。拭き掃除をすると気持ちがスッとする。

 

 

 

冷蔵庫と洗濯機、どちらもトイレと一緒で毎日使う場所。生活空間に当たり前のように鎮座していて自然と視界に入るので、無意識に「汚いなー、傷んできた野菜どうしよう~、あれ片づけた方がいいなー、拭いた方がいいなー」と感じてたことは、想像以上に自分の中に日々こつこつと不快感を生み出し続けていた。
 

 

といっても、これはキレイにしてみて初めて気付いたこと。
汚いままにしていると、それが当たり前の風景になって、どこかで「イヤだ」と感じてることも感じなくなる。

 

 

人間関係も一緒だな、と思う。
「快・不快」を感じることなく、日常性の中で感覚を麻痺させてしまう。本当は「イヤ」、「つらい」、「しんどい」、「悲しい」、「何かが違う」という気持ちがあるのに、それを感じることをしないまま、「こんなもん」という枠の中で生きることを自分で自分に強いてしまう。強いる、というよりは、ごく自然に、無意識的にそういう生き方を選択している。


自然に、無意識に「快」を選べるようになるにはまだまだ時間がかかりそう。いまは日々、意識的に自分との対話を続けていくのみ!

 

 

 

それと、とりあえず、そうじ!!

 

 


 

 

 



 

 

 


 

 

 

 

築70年以上たってると思われるうち(借家)のトイレは、お約束の和式ボットン便所。どうしても暗くて不潔な感じになりがち。タイル張りの床と便器は小まめに掃除するようにしている。

 

トイレ掃除に力が入り出したのは、斉藤一人さんの本で
「トイレ掃除をすればするほどお金や臨時収入が入って来る」というのを読んでから(笑)。

 

お金ががばがば入ってきて使い道に困るという程の収入は全然ないけど、トイレ掃除をするようになってからは、確かにお金の心配をすることがなくなった。お金のことは抜きにしても、トイレがきれいな事ほど気持ちいいことはない。
 

「自分を心地よい空間に置いてあげる」の最初の場所がわたしの中でトイレだった。

 

そういうわけで、今日はトイレで使うクエン酸スプレーに精油と無水エタノールをプラスして、バージョンアップ。作り方はコチラ↓

お手持ちのスプレーボトルの容量に合わせて作って下さい。2週間くらいで使いきれる量がいいみたい。



材料/分量 (出来あがり量250cc分)

無水エタノール   25cc

精製水       225cc 

クエン酸     小さじ2

精油(お好みのもの) 10~20滴


1、スプレーのボトルにエタノール、精油を入れて軽く振る。(精油は水には溶けないのでまずエタノールで馴染ませて)​

 

2、精製水にクエン酸を入れてクエン酸水を作ってボトルに入れる

3、軽くボトルを振って出来あがり!

 

わたしは家の水道水(?)が塩素の入ってない山水なのでそれを使いました。精油はユーカリなんちゃらをベースにラベンダーと大好きなゼラニウムも少し混ぜて。

 

早速つかってみたら、ものっすごい爽快感!
今まで使ってたエタノールなしでクエン酸の量も適当だったクエン酸水と比べて、爽やかさが全然違う!!
いい香り~照れ

掃除のテンションが一気に上がりまくり、壁から床から便器からシューシューしてとにかく拭いてこすって!あースッキリ音譜

 

わたしはトイレで使ってるけど、香りの種類を変えたり精油を入れずに作れば使い道は無限大。ちなみにクエン酸は酸性で抗菌作用があり、水垢や黄ばみ、尿石(アルカリ性の汚れ)を溶かすので便器のお掃除と床の拭き掃除に。重曹はアルカリ性で油や皮脂(酸性の汚れ)を落とすので、キッチン周りの掃除や洗濯に。
 

重曹は消臭効果もあるのでトイレでも使えます。ガラス容器に重曹を入れてそこに精油をポトリ。これをトイレの片隅に置いておくとイヤな臭いは吸収してくれて、いつもほのかに精油の香りが。これも超お気に入りでいつしかトイレの定番グッズに照れ


効果が薄れてきたな~と思ったら重曹をまぜまぜ。精油をまたちょっと足す。そうするともうしばらく使えます。

 

 

 

トイレ三種の神器(手前からクエン酸スプレー・重曹水・木酢液)