羽仁もと子さんを知ったのは、去年姉に予算生活の家計簿を勧められたことがきっかけだった。
「家計簿イコール減っていくお金を書き留める」という勝手な思い込みを長年持っていたので、持ってないお金が更になくなってしまうのが嫌で、ずっとお金の管理を避けていた。
ところが羽仁もと子さんの考えに触れると、家計を把握していることにはものすごいメリットがありそうだということが分かった。
お金がどこからやってきて何にどの位使われているのか「明らかになっている」という状態は、無暗に”お金が足りない!”と不足感を抱いたり、”これにお金使ってるってことはこれが我が家では重要なのね~(例えば娯楽費の中の温泉代とか)”というのが分かったりして、家計に対する不安が減って、楽しみが増えた。
家計簿をつけ始めてからお金に対するネガティブな見方も減って、お金に素直に感謝できるようになった。
「人生の朝の中に」という本では、羽仁もと子さんの生きることに対する哲学のようなものが文章のいたるところにちりばめられている。
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生きている時代はまったく違うけれど、同じ女性だから余計に共感できるのかもしれない。
1920年(大正9年)に書かれた羽仁さんの言葉は、今の時代に読んでもハッとさせられる。
分業一方の社会をつくれば、ほんとうに整然と少しの無駄もなく、能率的に辻褄があってゆくように見えますれど、大きな辻褄の合わない証拠が、ある一方に明らかに出てきます。蜂の例で言えば、繁殖の役目を割り当てられて、すでに役目を終わった雄蜂が殺されることです。何といういやなことでしょう。ある一つの役目のために私たちがあるということになれば、その役目が済んでしまうと、なくてよい人になってしまいます。(中略)
すべてある役目の対象として人間を見るのは非人道的な思想および感情です。母という栄えある役目の対象とするにしても同じことです。夫を失って未亡人になり、子どもを育て上げて生み殻になるようなもので人間はないと思います。絶対の自己を自覚しているものには、自己の絶対的生活がなくてはなりません。それはすなわち各人の与えられた人格と才能を十二分に発揮することで、その最もよい道は職業です。
朝から晩まで同じ仕事をすることによって機械のような能率を人に求めたり、自分に求めたりすることは、やがてわれわれを殺すものであります。
女性として家庭を持ちながら育児をしながら自分を輝かせて生きるには、男性的な「一日勝負の仕事ではなく、長い年月の間に成長して毎日のわずかの時間が生きた連続をするようなもの」を仕事に、そしてその「だんだんに育ってゆく仕事というのは、仕事の種類よりも、むしろ仕事をする態度にあると思います。」と羽仁さんは言う。
「態度」とは、「人に親切な仕事」をする態度。これは人に喜ばれる仕事や誠実に仕事をする態度とも言い換えられると思う。
それで上記の「自分の不親切によって得た金で肉を食べるよりは、しばらく忍んで野菜を食べていればよい」という言葉がある。
人の事を考えない、お金が得られればそれで良い、というような仕事をして肉を食べるのでなく、誠実に、相手のことを想って仕事をしていたら、時には野菜を食べて忍ばなければいけな時期もあるかもしれないけど、いずれ仕事は拡大していきますよ。そして収入にもつながっていきますよ、そんなことが書かれている。
わたしも子育てをしながら自分で仕事をしていきたいと思っているので、羽仁さんの言葉を心に留めて、大事にして少しづつ前に進んでいきたい。


















