
数日前から羽仁もと子選集「人生の朝の中に」を読んでいる。
”この生(いのち)の使い方”という章では、仕事というものが人が自分を輝かせるための絶好のツールであること、また仕事に取り組む姿勢についても細かく書かれてあり、(→詳しくは昨日のブログに。読んでいただけると嬉しいです
)指針となるような言葉にたくさん出逢えた。
そして今日は“子供は弱者なり”という章を読んでいて、子どもとどう接するかという指針を得た。
子供によい環境を与えればよくなるといいますけれど、そのよい環境のもっとも重大にして中心的なる要素は何であるか。まずこちらの誠意をもって、子供達の中に隠されている同じものを自然にめざましてゆく、その教育者と被教育者の相互(あいたが)いの結びつきではないかと思います。そしてそのことさえあれば、物質の不自由にも周囲の無理解にもずいぶん勝つことができるように思います。
この言葉は、日々家庭で息子と接する時の心得になるのはもちろん、数人のお母さん仲間と一緒に今後、自分達の子どもを週末や保育所を休んだ日に共同保育していこうと話している今、とても励みになる言葉だ。
わたしは羽仁もと子さんが書いている、まさに「子供たちの中に隠されているものを自然にめざましてゆく」ような保育、そして大人・子どもという立場を超えて人間として「結びつき」合える
人と人との信頼に依った、魂と魂がふれあう保育がしたいと思っている。
いよいよ自分たち母親の手で保育をしようと考え出したのは、息子を保育所に入れたこと、そしてわたし自身が(息子が通っているのとは別の)保育所で働き始めたことがきっかけとなった。
息子を保育所に預け出したのは去年の冬。まだ3歳前で、おっぱいも吸っていて大のお母さんっ子だった。一方で、どんどん自分の世界を外へ外へと広げていた時期でもあり、友達や集団の中で遊び始めるにはちょうど良い頃合かなと思い、車で15分かかる保育所へ入れることにした。
何しろ周辺に住んでいるのはおばあちゃんばかりで、村全体で10人にも満たない同じ年頃の子たちと遊ばせようと思うと、保育所に入れるのが一番手っ取り早かった。加えて2年半以上、ほとんど子育てだけにかかりきりになっていたので私自身にも息抜きが必要な時期だった。
保育所入所と同時にわたしはパートの仕事を始め、母子で過ごす時間はそれまでと比べずいぶんと少なくなった。その分一緒にいる時間はなるべく密に関わるよう心がけた。
「保育」という経験を家庭の外で、家とは全く違った環境で、しかも複数の子どもを相手にすることは、同じ人間でありながら瞬間瞬間を生きている、大人とは全く別人種の「子ども」という尊い存在についてたくさんの発見や新鮮な驚きがあり、毎日がとても楽しかった。
同時に、息子を保育所に預けることと、「決められた保育」を仕事としてこなさなければならないことに対して日々たくさんのジレンマも感じていた。
働いていた保育所でも息子を預けている保育所でも、カリキュラム的なものや規則・決まりがやたらとあり、子どもの生理に合わせた保育というよりは、大人の都合に合わせた保育が当たり前のように行われていたからだ。
例えば2歳に満たない子がどんなに椅子に座るのを嫌がっても、「今は○○の時間だから」という理由(大人の都合)で椅子に座っていることを求められたり、
水遊びが大好きな子に、手を洗う以上の水遊びが許されなかったり、
お帰りの時の準備で帽子と靴を履く順番が間違ってはいけなかったり、、、、
とにかく「あれはダメ、これはダメ」
「こうでなくてはダメ」ということが多すぎて、
私は預け始めて、働き始めて、保育所という場所を知るにつれて、
「これが果たして子どものための居場所なんだろうか?」
「子どもたちが心から笑って遊びまわってもっとその子らしく
いることが尊重される空間はないんだろうか?」
「そういう保育の在り方がサービスとして住んでる周辺にないんだったら、まず自分達で試験的にやってみよう!」 と考えるようになった。
子供というものは、いろいろな意味においての弱者です。よいものをたくさんに持っている弱者です。したがって子供の世界も弱者の世界です。子供の世界はまた子供自身の目にも親の目にもはっきり見えない、いろいろよいもののたくさんある世界です。子供の世界の有望なのは、いうまでもなく、その中にいろいろよいものを持っている故(せい)ですが、またいま一つにはその弱者であるためです。(中略)
教育は深遠なものであるだけ、一方において気の長い仕事であり、それなのに他の一方においては、油断も隙もならないほどに速度の速い仕事です。子供という微妙な活きものの世界であるからです。
子供たちの弱みを、その教育上によく役立てるのには、子供より知恵のあるおとなは、決して自分の知恵にまかせてよい加減に扱ってはならないことです。
どこまでも誠実に正直に、子供たちの中にあるかれらのまだ心づかない、よいこと悪いこと物の道理やほんとうの人情を、どうして教えたり伸ばしたり退治したりしてゆくことが出来るかと、あらんかぎりの知恵や力を傾け尽くしてもなお、及ばないことを感じているのでなくてはならないと思います。なぜなら、(略)弱きがゆえに謙遜な子供たちには、私たちのよいことも悪いことも、実によく吸収されてゆくからです。
「いろいろよいもののたくさんある世界」の住人、子ども達と共に遊び、共に笑い、共に泣く、大人だけど子どもみたいな大人になって、そして最終的にはわたしも近い内にいつか、「いろいろよいもののたくさんある世界」の住人になりたい。
彼らと同じ心の純粋さで