お山の生活火のある暮らし  -4ページ目

お山の生活火のある暮らし 

楽しくてがんばらない脱力系田舎暮らしをしています。
人や自然、動物、自分との関わりについて、生きることに関係あること全般、山で暮らしながら日々感じることを綴っています。

今朝一番、夫に思っていることを正直に伝えた。

「これこれこうで、昨日は悲しかった。きちんと謝ってほしい。」
 

 

わたしも夫もお互い「伝える」のがすごーく苦手。それで今まで何度もすれ違ってきた。言わずに心に抱えて、あらぬ方向に心が暴走してしまったこともある。

「無視されたらどうしよう」

「言っても伝わらなかったらどうしよう」

恐いという気持ちが先走って、言葉にしないまま思いを抱えてしまって、抱え込んだものがだんだん重くなって、最初感じてた

 

「悲しい」 とか 「傷ついた」
 

とは別の 「私のことどうでもいいと思ってるに決まってる」 とか

「もうこの人とは別れた方がいいのかも」とか 

思考と感情がこじれた思いに発展してしまう。

 

 

今朝は自然と、「言って伝わらなくても言わなくても結局もやもやするのは一緒だし伝えてみよう」という気持ちになった。


それで正直に話すと、素直に申し訳なさそうにした夫。
「ごめん。次から気をつけるから」 と言ってくれた。
 

そしてハグして仲直り。水に流した。


どんな感情でもきっとそうだけど、胸の内に閉じ込めてしまうとどんどん形を変えて心の中を不健康な形で占領し始める。そして自分で自分を責めたり必要以上に相手を悪者にしてしまったりする。​

 

それはとっても恐ろしいことで、それに比べたら本当は伝える勇気をほんのちょっと出すことなんて何でもないことなんだろう。


小さなことから、少しずつ、自分の声を聞いてあげる練習。

自分自身のお母さんになったつもりで。

「どうしたの?悲しいの?何がつらかったの?」
「これこれが嫌だったのね。悲しかったのね。
じゃあちゃんと相手に伝えようね。」



相手に正直になることは自分に正直になることと同じだな。



 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

9月1日の新月から半月がたち、17日土曜日に満月を迎えた。

1日に”満月ごろにはこうなってたいなぁ”と思う自分をいくつか書きだして、その日から毎日受けとった物や親切、うれしかったことなども手帳のその日の欄に書きだすのが日課になった。

今までも新月のお願い事は何度も書きだしたことがあるけど、
いつも途中で手帳を開かなくなり、果てはどこに願い事を書いたか忘れてどーでもよくなる始末…

そんなことを繰り返してきたから、今回はちょっと自分の中で特別な半月になった。
書きだしていたのは願い事というよりは、どういう気持ちで毎日過ごしたいか、誰と過ごしたいか、そんなことが中心だった。受けとった物を書くのに毎日手帳は開いてたから、願い事のページもついでにちらっと目を通すことが増え、しょっちゅう願い事を見ていたら後半になってほとんど全部思い通りに叶ってることに気付いた。

 


▲心の声がよく聞こえるようになったので、無理せず行動できる
▲したいこと、幸せを感じる事がだんだんはっきりしてくる
 


この2つはそれぞれ連動していて、日々自分の心に手を当てて、「する・しない」、「したい・したくない」の選択を自分自身に問い続ければ、毎日したいことや幸せを感じることを意識的に選び取る習慣が出来て、その先にもっと大きなこと -ライフワークとしてのやりたいことが見えてきたらいいな、と思っていた。ぼんやりと。

自分の中にやりたいことや好きなことって実は山ほどあって、
「自然が好き、今住んでる地域が好き、人が好き、子どもが好き、妊娠・出産が好き、電話がすき、おしゃべりが好き、語学が好き、メキシコが好き、フラメンコが好き、木が好き、旅が好き、音楽が好き、食べることが好き、お菓子が好き、作ることが好き、書くことが好き・・・・」


自分が好き・わくわくする気持ちと現実にはこれは無理~
という打算や思考との狭間で頭がぐっちゃぐっちゃになっていた。
今も…


だけどこの2週間をふりかえって分かったことは、とにかくものすごい長い時間、子どものことや保育環境のことをあれこれ考えてる、ということ。

自分の子どもでも友達の子どもでも他人の子どもでも、赤ちゃんや子どもと一緒にいる時、すごい幸せを感じる。柔らかくてぷにぷにしてて正直で表情はコロコロ変わって、泣いてても次の瞬間笑って、純粋で、、、

 

 

子どものと関わることを私の仕事にしていきたい!


そして仕事をしていても、自分の子どもと常に近い距離でいたい!




そんな気持ちが心の奥底からわいてきた2週間だった。
さぁ、この思いをどう現実の世界に反映させていこう?

 

わくわくと同時に怖がりな自分も登場するけど、少しずつカタツムリの速度で進んで行けばいいや。子どもは本当に寛容、弱い私も怒りんぼうな私も全部丸ごと受け入れてくれる。

 

子どもに倣ってわたしもワタシに寛容でいようっと。

 

 



 


 

お菓子みたいな小さなものから、素敵な刺繍が施されたブラウス、
古いぼんぼん時計、愛飲してるお茶、物だけでなく、
ちょっとした優しさ、友達が淹れてくれた最高においしい
コーヒーと癒されるおしゃべりの時間 

今週も色々舞い込んできている。


今、ラビラビの”Song of the Earth"を聴きながら書いてるけど
そこはかとない愛を感じる。

 



 

 

 

地球の歌だけど同時に”子宮の歌”にも聴こえる。

 

 

子宮を大事に生きることは、自分自身の声を聴きながら
生きること、それは同時に、子宮で育つ赤ちゃんが喜ぶ生き方。


 

子宮が喜ぶ=自分が喜ぶ=赤ちゃんが喜ぶ=地球が喜ぶ


赤ちゃんが欲しい
地球を守りたい
環境を良くしたい

 


とか言う前に、まずは目の前の自分に、子宮に
寄り添って、あふれるくらい愛そう。
気付いたら 
赤ちゃんがやってきて

​心地よい速度で歩いて
適量食べたいときに食べて
好きな人と笑って、
そんな自分に戻っていける気がする。


 


 

 

 

 

自分を一言で表現するなら 「世話好き」
父は根っからの人間好き
母はスーパー世話焼きおばさん
姉は過剰なサービス精神を発揮するし
もう一人の姉はおおらかで海のよう

家族そろって楽しいことが大好きなお祭り人間で、
人が大好きで、お人良しで頑張り屋で人の世話ばかりやいて
自分の事は後回し。


わたしが世話好きなのは遺伝的にも育った環境をみても自然なこと。

けど個々最近ずーっとひとつの疑問が胸に渦巻いていた。
 

 

 

「わたしは生まれ持った性質として人をお世話するのが好きなの?」

「それとも自分の中に満たされない何か、人から満たしてほしい何かがあって、
その思いを投影してる自慰モードの世話好きなの?」
 

 


今日は雨で、友達とゆっくりおしゃべりする時間に恵まれた。

彼女はわたしよりだいぶ年上で、わたしよりもむしろ母の歳に
近いくらい。だけどわたしを無闇に子ども扱いすることはなく、
いつも友達として対等に、自由に、思ったことや言いたいことは言う人。

 

 


それで彼女に例の自分の中の疑問を投げかけてみた。
 

 

 

そしたらそれはもうハッキリと


「前者だね!どっからどーみても。
あなたが生まれ持ったものだよ、その異常な世話好きは。」

と言ってくれた。
これが何よりうれしくてうれしくて。


それではたと気付いた。

これまでのわたしも、最近色んなブログを読み漁るわたしも、
自分を悲劇のヒロインに仕立て上げたくて仕方なくて、
そういう解釈ができそうなものばかりを読みこんで、
「ほーらわたしはこんなに可哀想。
こんな過去があるからこういう思考回路になっちゃってて、
だから○○できない。​

幸せになれない。
自分を生きられない。」 


言い訳の材料にしてた。



ありのままの今の自分を見ずに、ほんとに小さな不安の芽や
過去の感傷をひっぱりだして、誇大広告のように自分の
前にぶらさげて、
「わたしは可哀想な子。だから今はまだ○○できない。
そんな元気も体力もない。」

自分に悲劇のヒロインのレッテルを貼りつけて
幸せを自分から遠ざける口実に使ってた。

 

幸せや豊かさを選ぶのは勇気がいる。

今までの自分とは違う、変わっていく自分を直視しなきゃいけないし
なかなかひとっ飛びには変われなく焦ったり惨めだったり
弱かったりダサかったりする自分も見つめなきゃいけない。

自分の周りの人との関係性や価値観も自ずと変わっていくから
それにも向き合わないといけない。

それが怖くて、勇気がでなくていつまでも可哀想な自分を演じる
ことを自分に許してしまう。
自分がかわいそうな理由を探しまわる。
自分は病んでることにしたい。

 


大量の情報の中をウロウロして自分の心理状態を
だいたい把握したつもりになってる。
でも自分の心の奥深くは見ないふり。

 

聴こえた。気付いた。

 


わたしはわたしでしかない。
 

 

夫に「お前なんか大嫌い」と言われようが(実際きのう言われた
けどね。。。そりゃ落ち込むけど)、
少々つらい過去があろうが、
今傷ついていようが、わたしはわたし。

全部わたし。

その同じわたしのままで

豊かになる 

幸せになる、って決めたからそうなる。

幸せになってから”幸せだ~”って思うんじゃない。

まず決める。そしてそういう自分にだんだんなっていく。
 

 


決して無理に変化しようとするわけじゃなく、

柔らかくて強い決意と決断が

幸せを選ぶ道を進むわたしの背中を優しく押してくれる。


頭で考えても考えても全然答えなんて出てこなかった。

ここにいて幸せか、この人といて幸せか、わたしは
今の自分で幸せか、、、、

ただの堂々巡り。

そうじゃない、心の奥底でうずうずしてるものを
感じるだけできっといいんだ。


過去の傷とか将来の不安とかばっか言ってないで、
今、ここがスタート地点。
今決めて今始めればいい。

どんどん幸せになっていくということ

どんどん豊かになっていくということ。
 

 


どうやって? それは神(宇宙)のみぞ知る~

わたしの預かり知るところでも心配するところでもない。

心配してもそれって無駄なエネルギーを使うだけ。

くよくよ心配してる暇があったら、持って生まれたギフトを
携えて、たった一歩でいいから歩きだそう、
今この瞬間に。

それだけで「生きてる」って感じられる。

自分の生=性=命=魂を感じられたら
それが例え風が一瞬吹き抜けるようなものだったとしても
それって幸せって言うんじゃないのか。



さあ踊るように生きよう!


わたしはわたしの姿のまま

足すことも引くこともなく
 

天が与えてくれたこの姿、今この場所で


飾らずに踊ろう!生きよう!​





 

わたしは日常的に家のお風呂でおしっこをする。
(※湯船の中ではありません。念の為。)
(※お風呂をトイレ代わりにしているという意味でもありません。)


今日は新たな「お風呂でおしっこ」の利点を見つけたので、
それを世の老若男女に全力で伝えたくて急いでこのブログを書いている。忘れない内に!


小さいころから「お風呂でおしっこ」が良くない事だとは知りつつも、
ズボラなわたしは​風呂に入る前にトイレに行かず、この歳に
なるまで「トイレでおしっこ」を続けている。


そんなある日、「お風呂でおしっこすることはこんなにも合理的で
メリットもたくさんある」みたいな記事を目にして舞い上がった。



長年小さな罪悪感を抱えながらお風呂でおしっこをしてきたので、
「あなたは間違ってなかったよ。」と自分を慰めやっと肯定してあげられた。

 

 


記事の詳しい内容は忘れてしまったけど、

①おしっこは体の中から​無菌状態で出てくるので、とてもキレイ

②お風呂でおしっこをすれば、トイレで流す一回分の水とティッシュが
節約できてとっても環境に優しい 

この2つが記憶に残った。
 

 


「ほ~究極のエコかぁ(②)。そういう見方もあるのね。
まぁうちは汲み取り不要ぼっとんトイレ(要するに染み出して
いるっていう…笑)やから関係ないけど、いいことやな~」
とか適当な感想を抱いていた。
 

 


そして今日、田舎のボットン便所を使っていようが、外国人だ
ろうが誰だろうが、きっと世界中のみんなに役立つであろう
「お風呂でおしっこ」の計り知れないメリットを発見!
 

 


そのメリットとは
 

 



おしっこをしている時におしっこの温度を直接
肌に感じることで自分の体の「冷え」に気付けるということ!

 

きのうの夜たのしい宴会があって、産後こんなに
飲んだのはじめてかも、というほど飲み過ぎてしまい、2日
酔いをスッキリさせたくて朝方シャワーを浴びていた。

そしたら(※わたしはシャワーでじゃ~とお湯を流しながら
お湯に紛れてさせて、しれっとおしっこします。)
肌に感じる自分のおしっこが明らかにいつもよりひんやりしてる!
 

 

 

ビールの飲み過ぎで体が冷えてる!
あ~また妊娠したいし飲みすぎるのは今日で最後にしよう!
 

 

 


体でダイレクトに感じた後悔はすぐに決意に結びつく。
放尿から決意を固めるまでわずか1秒。
 

 

 

 

 


低体温の人がガンや鬱病、子宮筋腫、不妊になりやすいのは
よく知られていると思う。

 

日ごろからお風呂でおしっこをすれば、自分の体と健康を
こんなに簡単にチェックできる。


(ポイントはあえておしっこが肌にふれるような体勢で
放尿すること。)

 


体温計で計るより断然楽!冷えてるのをダイレクトに感じられて、
体温計のデジタル表示【35,8℃】を見てるだけより
「やばい!冷えてる!」という自覚も瞬間的に得られる。




お風呂でおしっこ、

絶賛オススメいたします
真顔真顔真顔
 

 

 

 

 

その日受けとったうれしかった物や出来事を探して
日記に綴りはじめて今日で10日目。


血眼になって探さなくても、意外とうれしいことって
自分のすぐ身の回りに転がってるもので。

 

 


わたしの目と心は最近うれしいこと、ありがたいことに自然に
フォーカスするようになっているので、そのせいか日常のあちこちに
潜んでるイライラすること、思い通りにいかないことに
過剰反応しなくなってきた。


心が10日前に比べてすごく穏やかドキドキ


そういう気持ちでいると、これまでに増して
いいことが増えてる気がする。

いいことって別に急にお金が天から降って来るとか、
夫が別人のように優しくなるとかじゃないけど、
心の根元の方を支えて温めてくれるような
ほっとするような感覚が自分の中で少しずつ増えていく。

 

 

 

 

今日受けとった恵みは

 

 

 

 

快晴  と  彼岸花 

 

洗濯2回にシーツと薄い掛け布団も洗って、
布団もぜーんぶ干して 
どれもお日様の匂いでいっぱいになって気持ち良い。
ここのところずっと、昼ごろから雷雨、
夜も雨がざーっと降る、みたいな天気が続いてたから
太陽が一日中出てるってありがたい。


 

 

夕方体を動かしたくなったので、いつもなら慌てて夕飯作りをはじめる
時間帯に息子と田んぼまで散歩へ。
2日前にはまだどこにも姿が見当たらなかった彼岸花が
あちこちで咲き始めていた。


 

 

 

あ、それから今日は人生で初めて栗の渋皮煮も作った!

これをわざわざ書き加える理由は…


今朝、一日の過ごし方を考えてた時、思考は

「いい天気やし昼から暑くなりそうやから
午前中のうちに畑仕事しよ~(やった方がいいよね、
ずっと畑いってないし、やらないとね、絶対今日やっとかな
明日からまた色々予定あるし。)」

というおしゃべりを脳内でしてて、心は

「栗! 栗! 栗のしぶかわに~
作ってみたい~!」 

と叫んでおりました。


「心と対話」を最近心掛けてるせいか、思考からの
抵抗・反乱はそれほどなく、渋皮煮作りをチョイスできた!


超ズボラな私は、栗が豊富な環境に毎年いるにもかかわらず、
栗の皮を剥くのを考えただけで
おえーめんどくっさー! ってなって
渋皮煮なんか絶対作るのムリ!って自分で思い込んでたけど、

作りたい!と思って作ったら手先を動かすのが楽しくて
700グラムあった栗は15分くらいであっという間に鬼皮剥き完了。

もっと鬼皮ばっかり剥いてたいと思うほど。笑 


栗=めんどくさい=ゆでて二つに割ってスプーンで食べる 以上!
 

 

を長年盲信してた自分って一体…チーン

 

 

ぱらぱらに砕けて皿や床にこぼれて捨てられた栗たちに謝りたい。
あなたの持ち味、殺してました。全然活かせてませんでした。
ごめんなさい! 
 

 

 

 

栗はまぁ一つの例であって、それ以外にも生きてる中で
自分には無理とか、 合わへんとか、
好き/嫌いとか、 
あの人は○○とか、これは良い/悪いとか
思い込みや限定、変な設定は山ほどあるんやろうな~

 

 

ちょっとずつ気付いて手放したり設定変更・解除していこう! 

 

 

むずかしいけどそれはきっと頭で考えるからで、
やってみたら意外と渋皮煮並に簡単かもーーニヤニヤニヤニヤ



 

秋がどんどん深まって
冬がもうすぐそこに控えているのを感じる。

朝方は寒くって、薄手の羽毛布団を
ぎゅうっと体に巻きつけて寝ている。

日中はまだまだ日差しがきつくて
草刈りをしてると汗がでるけど
涼しい風が吹いてすぐに乾かしてくれる。


草を刈りながら段々畑の上の方に
登っていくと、草の茂った小道に

鹿の角が落ちていた。


前に猟師のおじさんから、獣を追って山に入ると
よく落ちている角に出会うと聞いた
ことがあるが、このことか!


鹿は新しい角が生える準備が整うと
ある日突然こうしてポトリと
どこかに角を落としてくるんだろうか。
 

 

さなぎが脱皮してある日突然
蝶々になるのとちょっと似てる気がする。





どなたか角を飾ったり磨いてアクセサリーを
作ったりするのが好きな方はいませんか?

 


送料は少しかかるかと思いますが
無料でお譲りします。
 

今日は夫の誕生日。

先週くらいからずーっと誕生日ケーキになにを
作ろうかもんもんと考えまくっていた。

もともとお菓子作りが大好きだけど
気が向いた時に作るのが好きなだけであって
誰かのために、何か特別な機会のために
となると肩に力が入ってしまって楽しめない。

今回もやっぱり
「誕生日といえばやっぱりスポンジ+生クリームかな~
息子も一緒に飾り付けできるしな~」

 

とか

 

「夫の好きそうなチーズケーキにしよかなー」

 

とか

 

「せっかく栗あるからタルト作ってみよかな~
でも栗とか多分嫌いやしな~」

 

とか  

 

 

 

と  に  か  く
 

状況や夫の嗜好、息子もケーキ作りに参加できるように、
ということばっかりが頭に浮かんでは消え
なんも決まらん!

それで一回考えるのをやめたら




「プリン」

という答えが浮かんだ。


なにせ我が家にはニワトリがいて
毎朝玉子を産んでくれるので
卵だけは豊富にあるのです。

 


 

 

 

それになんたって

 


作るの、めっちゃ楽。

 


唯一の「プリンにすが入って失敗したらどうしよう」
という悩みもネットで調べたら
低温で蒸したらいいだけというのが分かり
気持ちが一気にパァーっと明るくなった。


人に合わせたり顔色をうかがったり褒められようとして
いつも無理して何か作ったり演出したりして
自分の思うような出来に仕上がらないと、
周りから思い通りの反応がもらえないと、

疲れたり怒ったりしてしまう、
そんなことばっかり今まで懲りずに繰り返してきた。

 


今日はプリンを肩肘張らずに
ゆる~りと作った。


すは入らずにきれいに出来あがったプリンも
最後に型からはずすの失敗して
生クリームでデコレーションするのも不可能な
最悪な見た目になってしまったけど
 


それでもわたしが楽しんで作れたこと

 

しんどくなかったこと

 

自分で自分の失敗を許せたこと

 

夫も息子も別にケーキのことなんて
大して気にしてないこと 

 

わいわい言いながら一緒に食べれたこと



全部ひっくるめて
これで良かったんやー!



直観プリン、ばんざーい!!!

愛読しているブログがある。

坂爪圭吾さんの
 

いばや通信 http://ibaya.hatenablog.com/


いばや=「とにかくやばいことだけをやる(固定概念を破壊する)」
をしている坂爪さんは、確か去年くらいまで家も仕事もなくて
日本各地や海外を転々としていたかと思うと、
今度は一転素敵な古民家を
譲り受け、庭に花を植えて海をながめ、
無料の文庫やカフェやお泊まりスペースを
つくって、さらにそこには訪れた人が誰でも勝手に使える
共同財布が置いてあって
お金にも物にも人にも執着をもたず
ぐるぐる循環させ、ただその時を生きている人。

去年から今年にかけて、結婚生活や体の事で
しんどい時期が何度もあって

坂爪さんの綴る言葉が

真っ暗闇に深く深く沈みこんでいるわたしの心に
小さな光を灯しつづけてくれた。

 

 

比較的ものすごく元気な今は
同じ彼の言葉が今度は
躍動するような生きるエネルギーと
風みたいな軽やさを心に運んで来てくれる。

 

 


勇気をもつ

心を濁らせるものから遠ざかる

格好悪くてもズボラでも臆病者でも

そんな自分でも全然かまわない

心配より信頼する

 

一人一人が金色のお米粒

 

しなきゃいけないことなんて
本当は何ひとつない

 

 

坂爪さんの言葉には優しさと温もりと愛があって

距離とか時間とか関係なく
目で追った瞬間
わたしに直接伝わる。

わたし、というか
「魂」 の部分に直接すっと入ってくる感覚に近い。



 

どんどんわたしの心は
純粋で透明なものにもどっていく。

時々嵐がきたり濁流が流れたり
流木がつまったりもするけど

それでいいや。

 


まだ今は、そういう破天荒な人生を望んでるし
濁った川がだんだん澄んでいくのを
眺めるのは、自分の体で体感するのは
悪くないなと思う。


根っこの部分で世界に満ちてる
善意や愛を信じられるから
もう怖くない。
怖い、けど怖くない(笑)


坂爪さんのブログは愛そのものドキドキ

オススメです。


結局それが言いたかった(笑)

 

 

 

今日うけとったものは、思い込みや固定観念で
動かず流れや直観に従って動けばいいことあるよ~
という「気付き」。

 


今日は午前中はヨガ、お昼ごはん会をはさんで午後から
お香作りのワークショップに参加予定だった。
ところが朝になって突然お香作りワークショップが
中止になり、お昼ごはん会もなしに。
きのうの夜、すでに一品持ち寄りのスイーツを
作ってたのでどうしようかな~
と思っていると友達から電話がかかってきた。


 

 


「今日お昼いっぱい作ったのに来るはずの友達が
大雨で来れなくなったから一緒に食べよう~
○○ちゃんも来るよ~」

電話をかけてきてくれた友達は正直少し苦手な人。
一対一でお付き合いするのはちょっと気が重たい相手。
けど○○ちゃんにはずっと会いたかったので
ヨガのクラスが終わったあとにお邪魔することにした。


会いたかった友達のほかにも、心が安らぐ友達2人も
来ていて、みんな子連れだったので子ども達は
子ども達で小さな社会を作って適当に遊び、
私たち大人は女子会。


それぞれが持ち寄ったおかずの品々がどれも美味しくて
おいしくて、あれこれ箸をのばしながら
子どもに会話を遮られることなく色々おしゃべり。


「人に作ってもらったごはんが一番おいしいー!
最高ー!」 

 

を何回も叫びながら腹9、5分目まで食べた。

 

けど罪悪感は全くなし!

 

むしろ清々しいくらい。



その後にはおまちかねのデザート。

栗の渋皮煮寒天

カボチャプリン

ドライフルーツのパウンドケーキ


はぁ~ ため息が何度もでるほどおいしくて満たされた!

それぞれ一つ一つに作る人の気持ちがこもってて
お野菜もそれぞれの家で採れた有機のもので
スイーツも自然素材を使ってて

っていうのももちろんあるけど


なによりも

みんなで食べる

これに尽きるな~




「あの人が苦手」
その思い込みを捨てて場に飛び込めば
こんなにも素敵な一日を過ごせた。


 


 

気付くだけ

ほんの少し物事を見る角度を変えるだけ

思い込みを横におくだけで

自分の住む世界は温かで楽しい場所になる。