波瀾万丈だよ、ハニー。ここは宇宙の何でも屋タケオゼネラルカンパニーで御座る。多少固有名詞はアヤフヤで御座るが、明けましておめでとう御座りまする。コレを更新している時はまだ年末で御座るが、どうせまた例のアレが出来上がるまでは放置で御座ろうから先に、そして新年対応にこう言っておくので御座ねう。
さて。
先日の四国新聞の一日一言に、冒頭「創」という文字が出てきたのね。そうするとやっぱり読むじゃない?だって私の下の名前だもの。いつだったか、私はこの文字を背負わされて、やはりもの作りに終始する運命なんだよね、なんてエラそうにいっていたけれど、まったく寝首を掻かれたよ。
確かに「創」は創造の創だけど、一方で「銃創」「満身創痍」というように、「キズ」という意味があるらしい。ああそうさ、そうだよ、私の人生キズだらけだよ!(笑)。
前の前の更新は、あまり善い話ではなかったのでひっそりと更新したのだけど、そこで一つ、言い忘れたことがある。隠していたわけではないけれど、昨日のように、話している内にアッチコッチいってしまって本来の目的を見失うのがこのブログ、創だらけのしま♪さんの特徴だから仕方がない。あと、前置きが長いのもね。
それで、例の「春らしぶり」の巻を要約すると、人生をやり直すために、根底から自分を作り直す是有、ということをこの十年自分に課したワケね。結局同じところに戻っても、とにかく自分を見つめ直すことから始め、より深く考えることにしよう、と。そうでないと、同じところに戻るにしても、今度は寸止めで我慢しなさい、とね。
自分を受け入れる、ということの中に、というかその真ん中に、淫蕩な自分を受け入れる、ということがあったのね。男の私が言うのは変だし、別に淫蕩だった自分を肯定していなかったわけではないのよ。といって明確に自分に何かがあったわけではないのね。だから言葉にするのも難しい、というより、淫蕩な自分を受け入れる、というキーワードだけが先行している部分もあって、でもコレってかなり大きなハードルだったのね。
簡単に言えば、女の子とセックスするために生きるのだ、とちゃんとハッキリ言おう、ということなのね。今までも女の子がパンツ下ろすためだったら何でもする、とか云っていたけれど、でもそこには特有の照れがあったのよ。多少自分は、目立ちたがり屋で、だからギターとか弾いているんだけど、だからこそ、口ばっかりでその実、どこかで自分の中に言い訳を着けて、かっこつけようというようなところがあったと想うのね。
それは間違ってはいないと思うのだけど、何というか、なりきってないというか、中途半端というか。逆に、こうやって宣言することでもないし、云って何かをするのだからそこにはどうしても、自分を偽るような作為が感じられるのよ。それは人生を左右されることに、恋愛感情やら、性的欲求とか絡ませると、必ず反発を受けるでしょ?常識とか、倫理とかそういうことを楯に。
で、自分としてもやはり、それを楯に自分の中の何かをその裏に隠していた、という気がしたのよ。だから、淫蕩な自分を受け入れるっていうのは、それが現実になるときっと世間との間に軋轢を生むのは確実なんだけど、だからといって自分を偽るのも考え物だなぁ、と。その辺の頃合いを見つけるためにも、やはり、ありのままの自分、その自分の奥底に何が隠れているのだろうか、それをちゃんと見つけて受け入れる所から始めないとな、と考えたわけ。
やはり、私はセックスが好きだし、セックスは女の子としかヤれないし、だから、そういう自分を受け入れようとする。だからといって、その辺歩いているお嬢さんにセックスさせてくれよ、なんて声を掛けるとすぐ捕まるし、だからといって、過剰なまでに淫猥な視線で、ただお嬢さんを見ているのもこれもまた考え物だし。以上は実に上手く表現された例であるけれど、そのいろんな意味を含んだ難しさはわかって頂けるかしら?
だからね、表現の中にそれを取り込もう、というようなことを考えていて、そういう意味では前からそういうことは考えていたし、エレクラの曲なんかにそれは表れているけれど、もっとね、もっと自分らしい何か。そういうこと突き詰めたい、と思っているのよ。
自分で云っておいて本当はすぐに良く分からなくなるのだけど、それはもちろん、さっきも言ったように淫蕩な自分を受け入れる、と云ったは善いけれど、それがなかなか上手くいかない、という証左であるのね。
ただそれも最近になってあることに気づいた。淫蕩な自分を受け入れた先には何があるか、ということを考えると、やはり桜庭ななみさんと毎日セックス、というようなバラ色の未来があるのか?はたまたそれを望んでいるのか?というと、そうでもないのね(笑)。
そこでハタ、と気づいた。
望んでいる向こうに何かがある。そうだ、それは、桜庭ななみさんとセックスしたいなぁ、と一日中考えることだ(笑)、とね。一日考えるって云っても、これもまたけっこう難しい話です。でもね、求める先はきっと、そこにあるのだろう、と。何か一日、モヤモヤと淫蕩なことを考え続けている毎日がずっと続けば善いなぁ、と。それが私の究極の夢なのかもな、なんて。
もし実際目の前に桜庭ななみさんが現れて、善いわよセックスしてあげる、といってもきっと、アレしてコレして、気を遣って優しくして自分勝手に事は進められないわけです。最後は口でとかそんな恥ずかしいことも言わないといけないし、それは、面倒くさいな(笑)、と。だから、その寸前、ぼんやりと妄想しているのが一番善いんじゃないか、ってね。
逆から考えると、私のようなヤツは、一日妄想に耽っている程度がちょうど良いんじゃないの?何かしようとすると、きっと軋轢を生む。此れはもう間違いなく、社会の迷惑になるに違いない。だったら、現実になることを求めずに、でも希望だけは強く持ち続ける。現実になるはずはないことをわかっていて、夢だけを抱えて生きていく。
気がつくとずいぶんとネガティブ志向のように思えますけれど、まぁ、否定はしません。でもね、希望も、夢も持っているんですよ。現実にはならないからといって、夢や希望を捨てることはないんです。夢や希望は究極的に謂うと、私の中には淫蕩というキーワードの中に集約されて、それ以外は夢でも何でもない、ということになるのね。誠に逆説的な言い方ですけれど、夢や希望の類いでなければ、現実になるものなのですよ。
だから、新しい年はどんどん、いろんなものを出していこうと思います。犯罪スレスレのわいせつ行為や、訴えられる寸前のセクハラまがいのことも、積極的にやっていこうと想います。もちろん、妄想の中でです。
現実には、静かに待ちます。じっと、待ちます。何かはわかりませんけど、とりあえず、待ってます(笑)。善いよっていわれるのを待つ間、妄想に耽ります。それが新しい年の目標です。狐につままれたような話ですけれど、まぁ、それは創だらけの人生を送っているしま♪さんの云うことですから勘弁してください。
最後に多少真面目な話をしておきますと、来年はきっと、大きな議論の中心に憲法改正が持ち上がり、それが現実的になってくると想います。奈乃で今のうちに云っておきますけれど、憲法改正には断固反対していきます。今年、安保法案で議論になったのは、違憲か合憲か?というようなこともあったんですけど、だから反対、賛成というなら、基準になる憲法を弄っちゃダメでしょ?解釈論は大いに議論すれば善いことだけど、その大元を変えちゃダメ。その理由は、天皇制です。現実にこの日本に天皇制を覆そうという勢力がごく少数でもいる限り、憲法を改正するという手段を行使することは、危険な前例を作ってしまうことになる。私は日本国民として、その象徴であるものが在る、或る自分が日本人であるという事を代弁してくれる存在がある、ということにシンパシーを強く感じるのね。だから、日本人であることに誇りを持ち続けることが出来るのよ。多少この十年で、日本の神話や成り立ちの伝承を聞きかじってきた者としては、それが全くのファンタジーであっても伝統として受け継がれてきた以上、それを慈しんでいくことは間違いでは無いと思うのね。なくてもいい制度かも知れないけれど、天皇制はとても便利な心の制度だと想うのよ。それを捨てるのは忍びない。それもあって、憲法改正には大反対です。
それ以外はどうでも良いです(笑)。
オッとまたこんなトロッとした話で終わってしまったよ、どうしよう、此れがしばらく人目に触れたまま、エレクラブログとして残るんだぜ、またなんか言い掛かり的なコメントが入ると面倒だな。早く次の更新をして、危機は回避しなくちゃね。
ということは、早くアレをアレしないといけない、というワケか。
そんなわけで、新しい年が、皆さんのご期待に添えるものであることお祈りしています。
なんてね、初詣は子宝祈願の寺に行くよ、って云ってみました。セックス=子種を仕込む、ですから、面倒くさい恋愛を祈願するよりは、そちらの方がずっと早道なのではないか、と思った次第です。ええ、もちろん妄想ですよ。境内でね、ニヤニヤ笑っているだけですよ、ってコトで。
それでは今日はこの辺で、ごきげんよう。