補完 | ELECTRIC BANANA BLOG

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しまさんの独り言、なんてね。ハニー。
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風機だよ、ハニー。昨日からずっとなんとなく、いのね。昼間は寝てるから、一番陽の照っている時は電化製品はすべてオフで、日が陰ると起き出すからそこから扇風機のお話になるのね。考えると普通、だよね。気温が上がるのは日中で、夜はもっとしくなっているはず。こういう(?)が昼夜逆転生活では起こります。でも、思えば製造業にずっと携わっていた今までも、あんまりわらないような状況だったような気もする。

 

さて、時々そうにこんな本を読んでます、なんてこのブログで言ったりしているけど、私は本を読むのがい。先日どなたかのブログに訪問させてもらった時、面白い本は2時間で読み切ってしまう、なんておっしゃってていたのね。私にはとうてい理。というか2時間本を読み続ける、なんていう中力がありませんのよ、ホホホ。

まぁ、それでも本を読むのは嫌いではないので、これまたそうに今こんな本を読んでます。

歌行燈・高野聖 (新潮文庫)/泉 鏡花
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先日言った「日本の怪談」をようやく読みわりまして、次に手に取ったのがこれだった、と。もちろん読は続けてますんで、ラブホテルの本を一緒に読んでます。

最初の30ページをサラリラっと読んだだけなんだけど、なんとなく味深いのね。というのも、一年ぐらい前に、文章読むのは文章のズムっていうのがキモで、なんて話をした通り、この文体はとてもリズミカル。といってもまだ私には拍子系なんですけどね。だからそれほどスイスイ、ってワケにはいきませんけど、興味をそられる文章なのね。れる文章、といっても好いのね。

 

で、そんな本でも、目では文字を追っているんですけど、には入らない、ということがママありまして。それでまた一ページぐらいを読みし、なんて事をしているからなかなか前に進まないのね。記憶力がだいぶえているから、この漢字なんて読むんだっけ?とかって前のページを探してみたり。そういうわけで、私は本を読むのがいのね。

なぜ本を読むことに集中出来ないのか?なんて考えてみると、これがまた良くあるのが、例えば言葉、例えばシチュエーション、いろんなその内容に発されて、他のことを考えてしまうのね。関連あることばかりじゃなく、ふと他のことに気が行って、なんて事もあるけど、とにかく本を読む間にのことを考えてしまう、っていうのが大きな要因なのね。

 

読もうと思う本を選択する時には、何か自分の中に衝動というか、機があって、それは他ならぬ自分のことなのね。他のかの為に何かを読もう、というのはこれがあくまで趣味である限り、ほとんどないわけで、自分の智となり肉となり、のために本を読むと思うのね。

だから、当然、本を読むという行為が、自分の中にイブしていくきっかけになるのは当たり前のことで。だけど、どうせなら、読みわってからすればいいのにね()。読みながら物思いにっちゃうから質が悪いのね。

 

まぁ、たいていは下らないことが多いので、そのまままた本を読むことに帰っていくんだけど、時々は、気になって物思いの方にフトしてしまうこともあるのね。それが例えば、このブログのタになったりすることもあったり、なかったり。

本日も一眠りする前に、先ほどの本を読んでいたんですけどね、やっぱり物思いのが顔を出したりして。ちょっと気になることだったからサラピロンとメモをらしたりして。まぁ、書き殴っただけで、話はまとまっていないので、ここではまだお話し出来ませんけどね、日には話すかも()。でも、ちょっとになることに、こんなコトを書いたりしてるのね。

 

お釈迦様せだったのか?

 

意味()。キャッチコピーとして紹介したとして、こういう話を知りたいのかどうかは問の残る所。誰かどうしても聞きたい、という方は是非ご絡を。

 

まぁ、それとは関係ないのだけど、本を読む時の姿勢ね、向きというのは、やっぱり何処かで何か考えている、というか頭を働かせているのは事実だと思うのね。小説とかだと、その場面や主人公の姿なんかを像しているし、実用書なんかだと、例えば本日「ホビージャパン」の最新号が届いたのだけど、ガンプラを作っている様子なんか想像していると思うのね。

 

つまり、表現というのは何処かでそれに触れるものが、完をしているのだな、と。その補完行為が、人の心をかにしたり、新たな創造にがったりするのだな、と。

 

と、考えると、例えばテレビとか、例えば絵画とか、同じ本でも漫画とか、一般的には目に見えるものがすべてで補完のはいる間もねぇ、なんて思われているものでも、そこに補完が行われることで、気を博す、っていうひとつの形があるんじゃないか、なんて思ったのね。

昨日ご紹介した水曜どうでしょうにしても、材としては番組しかないわけ。でも、人気が出てくるひとつの要因に、どうでしょう班が旅した所を自分で行ってみる、とか、このバカ話の裏でどういう事情があったのか?とかを知りたくなったり、素材だけでは語られない部分を補完しようという用が、ひとつの大きなうねりになっていると思うのね。そうしたくなる力、新たな価値観の付帯、っていう大前提はあるんだけど。

エヴァンゲリオンが流行った時にも、なんだかたくさん謎本が出たし、未だえぬガンダム・ブームそうだし、絵画が音を呼んだり、文章が映像を呼び起こしたり。そうやって表現に触れた人が、新たにその作品のけた所を付け加えていく。うやっていくものなんだな、と。

 

そう考えると、表現というのはっかけに過ぎないんだな、なんて思うのね。何かをしたくなる衝動を、与えるパワーをっているものなんだとね。きっかけが表現をび、その表現がまた誰かのきっかけになる。それが想的なのかもしれないな。

みまするに、エレクラは果たしてどうか?補完したくなる要素は載のハズ()。あぁ、私ならもっと手く歌えるのに、とか、私ならここはこの楽器で、とか。でも、たぶん、そうしたくなるだけののパワー、が欠けているのだろうね。このメロディーイイのに、とか、この楽器のせいで他の楽器がせっかくイイフレーズ奏でているのに、という。もっと進しないとね。

 

なんてね、思ってもないのに勝なことをデロリンと言ってみました。しかしサ、本当にお釈迦様はせだったのかな?って事で。

 

それでは今日はこの辺で、ご機嫌よう。