阿古・二本の虹 第2章 -2ページ目

 阿古・二本の虹 第2章

滝の中に洞窟がある。

滝の外側から落ちてくる水に限りなく近づいたとき、砕け散る小さな水玉に二本の虹は見えた。

[ 真 ]


 愛人をアイジンではなくアイビトと読んだらどうだろう。アイジンは密着感の中の寂しさを感じる。

アイビトは大きな愛を感じる。でもそれは大きすぎて届かない寂しさがある。


どの人にも空洞があるのだろうか。

いつからだろう、おれが空洞を持ってしまったのは。5、6歳の頃だろうか。

もしかして普通幼少期や青年期に空虚感や現実感がない世界を持つことがあるかもしれない。

しかしそれは太陽に照らされたり海の夕焼けを見ている間に自然に心の奥から身体を通って外へ抜けて行くのではないだろうか。

人によっては大きさは違うだろうけれども空洞をかなり長い間、いや人によっては一生持ってしまうことがあるのかもしれない。


5歳から祖父母のところで育ったからあまり父母のことを知らない。古い写真が1枚あった。

お正月だろうか、祖父母父母そしておれが写っている。写真館で写したものだった。

沖縄の人なのに父は誰よりも白い肌をしたハンサムな人だった。もてたに違いない。

父母の離婚の理由は父の女関係だろうということは察しがつく。

そんなことはもう許しているというより忘れている。

気になっていたのは父の白い肌はどこから来たものだろうということだ。

ロシアの美少女のような肌と大きな瞳。祖父母のどちらとも似ていなかった。

突然変異のような気がする。どこかで外人の血が入っているのだろうか。


そんな堂々巡りを考えながら東北を旅していた。地図を持たない旅だったから行き止まりもあった。

それはそれで楽しく、知り合った人たちはみんなやさしかったように思う。

仙台を通ったように思う。そして秋田、弘前も思い出す。



[ 真 ]


 融けていた。

二人の少年が丘で青空を見ている。一緒に歌っている。

どちらが悲しかったのだろう。誰かが必要だった。誰かを待っていた。けがれのない風が草に触れる。

次の朝重い頭で居間に行くと笑顔の奥さんがいた。ジャスミン茶を出す。

夢の延長のようで窓の外の花がゆれる、陽炎。

だんなも実さんもいない。二人は仕事に行ったという。

そこのだんなは有名な写真家らしい。実さんはどこかのテレビ局の大道具のバイトをしていた。

実さんとはあまり話をしていない。いや覚えていないということか。長い時間一緒にいたわけだから話さないはずは無い。別に一言も話をしなくてもよい感覚は奇跡だと思う。そういえば小説家になりたいとか言っていた。

江戸時代の書物を読んでいるときに刺青に興味を持ったとのことだった。壁の刺青をした人たちの写真はそこから集めたらしい。実さんは刺青をしているわけではない。

ある名人の話をしてくれた。その名人は女の人に彫るとき交わっているときにやるとのこと。その交わりは弟子がつとめるとのこと。その屈折したひとつの狂気。そんなところに実さんは打たれたらしい。

その3人の思い、せつな。苦しいような悲しいようなひとつの橋を越えた境界、どこまでも深いクレバス。

自分もなんとなく理解できた。実さんは針と墨を持っていた。それを使いたかったらしい。使った。

その針と墨をおれは貰った。


北国を目指していた。東京はその途中だった。

母からの苗字のかわった手紙はそのときに破って捨ててしまったが裏に確か北海道帯広市と書いてあった。

それが手がかりだ。おれは東京を後にした。

[ 真 ]


父とはどういうものなのだろう。父親になるということはどういうことだろう。

突然告白された木精の父ということ。どう感じていいのかわからない。

驚きでどきどきしている。

テレビドラマのように父親は本当にそわそわして喜ぶのだろうか。

妻に対してまたは親に対してのいい子ちゃんを演じているのではないだろうか。

こんな風にしか考えられないおれは情けない。

阿古にも木精にも申し訳ない。震えている。

体調が悪かったのは二日酔いのせいではないみたいだ。


 おれは浪人しているときにバイクで沖縄を出た。母親探しだった。

5才のときおれの親は離婚した。理由は母の不倫というか本気の浮気か恋なのかはわからない。

祖父母のところで育った。何もかも恵まれていた。祖父母の大きな愛で包まれながら育った。

子供というのはあきらめるということを知らない。

いつかは両親が帰ってきて普通のように親子3人で暮らせると信じていた。

小学生高学年の頃だったと思う。

母親から手紙が来た。苗字が変わっていた。

夢は粉みじんにちぎれていった。

孤独ということがおれの目標になったのそのときだ。

しかし祖父母には感謝しているし二人に喜んでほしいと思っていたから仮面はそのままだった。

そのときから仮面は二重になったのかもしれない。

周りにはやさしく礼儀正しく成績は常にトップだった。

勉強やっているときが無になれるときで何もかも忘れて問題に入り込めた。

数学の図形問題をやると、気がつくと円の周りを歩いていた。

単純に祖父母を喜ばせるために東大の医学部を受験した。

やはりどこか上の空で受験したようだ。思ったように不合格。

家で浪人をはじめた。

夏頃だったと思う。勉強に飽きてきてどこかに行きたくなった。

もやもやとしたものは母に会いたいということだった。

東京の感情7号線で前の車と接触しそうになりころんだ。世田谷代田の陸橋のところだった。

怪我はしなかったがバイクが少し壊れた。バイクを起こしているとき横に車が止まった。

実さんだった。電話で修理屋を呼んでくれた。

バイクはその修理屋が運んで行きおれは実さんの車に乗った。

運命とはこんなものかもしれない。突然の出会い。

その日渋谷でバーボンをしこたま飲んだ。

気がつくと実さんが居候している調布の部屋だった。

部屋は身体中に刺青をした写真で埋められていた。

その日おれは実さんに刺青を入れられた。

左の腕に黒い蝶々。羽の部分の中央は青があり緑があった。

興奮するとその部分はオーロラのように揺れた。

おれは実さんの恋人になった。

重さ的には愛人といったほうがいいのかもしれない。


[ 真 ]


どうしたのだろう、なんとなくだるい。昨日の飲みすぎだろうか。おれは外に出た。

空気がきれいだ。さわやかな風というには大げさすぎるくらいゆるやかに風が触れる。

どこまでも青い空のはじのほうに小さな白い雲がある。さっき窓から見たときはもう少し左側だった気がする。

雲が動いたのか地球が動いたのかわからない。

芝生に座ると京介が近づいてくる。

あいつは、いやあいつも雲か。

漂っている。どこに行けばいいのか悩むことも忘れて風に吹かれている。

あいつはアメリカの大学に行っているとき父親がやっている会社が倒産した。

思えば奨学金だってあるし債権者だって子供の教育までは踏み込んでこないだろうしバイトもできるから

続けることができたはずだ。でも大学を辞めて帰ってきた。

倒産ということがショックだったのだろうか。生まれ育った家がなくなるということが寂しかったのだろうか。

いやそんなことではないだろう。

もって生まれた心の闇にガラスが突き刺さったまま生きるという運命からいえば山や谷があったほうが、

らしいわけだからあまり悩まずに戻れたのではないだろうか。京介の持っている悩みからいえばどうでもいいことだったのかもしれない。


「どうしたんですか?」

「飲みすぎかな」

「阿古流にいうと飲めば治りますよ」 と缶ビールを差し出す。

「今日外でセッションでもやりますか」

[ 真 ]


実さんは書き始める。ルート2、裏面に1.4142、ルート3、裏面に1.732と書き始める。

「木精には早すぎるんじゃないですか、まだ木精は目が見えていないんじゃないですか?」

「いんだ、早めがいいよ。おまえだって礼儀の言葉を書いているじゃないか」

「じゃいいですね、木精に狂いましょうか」

そんな事を言いながらなんか深い洞窟に入って入ってしまっている。

木精はおれの子だ。実さんの子ではない。実さんは阿古の旦那だ。実さんはそのことを知っているのだろうか。

知っていても知らなくてもいいと実さん考えているだろう。そのくらいすごい、おれは実さんのようになれるだろうか。かなわない、阿古の夫になれるだろうか。そんなことではない、おれは木精の父親になれるんだろうか。

おれは木精の父親なんだろうか、本当に、でもそれを疑っていることはないけど。どうしよう。どうしようもできないか。

「木精の父親誰か知ってますか?」

「知らないよ、そんなこと関係ないよ、木精はおれの子だよ。それでいいと思う」

[ 塔子 ]


 私は木精を抱き窓の外を見る。一面に長方形の芝生が広がっている。右側には松と白樺、左は桜並木になっており正面にはかえでが見える。春の桜アーチや秋の紅葉を想像させる。芝生の真ん中に大きな楡の木が立っている。その下で実さん、真、京介が座っている。バーベキューの準備は済んだのだろう。3人は少年に見えたりする。揺らぎたつ陽炎の中に男のにおいをかいだような気にもなる。夏の陽が楡の葉に反射した瞬間。


 鞠子は白の画用紙を名刺判くらいの大きさに切り始める。

「それなに?」

「アルファベットを書くの」

「何のために?」

「木精におしえるためよ」

「ちょっと早いと思うけど」

「そんなこと無いわ。ベビーベッドの上に下げるの。寝ながら勉強できるようにね」

「なら、はじめはひらがなじゃない?」

「日本語はほおっておいても自然に覚えるわ。だから英語からなの」

ベビーベッドの上の天井を見るとレールが取り付けられている。そこからカードをぶら下げるのか。

「鞠子あのレールどうしたの?」

「実さんにつけてもらったの。実さんはいいアイデアだって言っていたわ」

「そりゃそうでしょう、誰も文句をつけることはできないわ」

「じゃ塔子、木精をベッドに寝かせてあなたもアルファベットを書いて。一面に大文字ひとつ裏面に小文字、読みは書かなくていいわ。読みは私が教えるから木精はすぐ覚えるわ」

「ねえ、木精は生まれたばかりなのよ、なんか早いと思うけど」

「大丈夫、準備は早いほうがいいのよ。もし紙が余ったら三平方の定理でも書いておいて」


阿古はソファーに座りジンライムを飲んでいる。私たちの会話を聞いている。自分から入ってこようとはしていない。木漏れ日のようにカーテンを通して阿古の白い肌に光がさす。


「できたらカードに紐をつけて、塔子」

鞠子は本気だ。不思議だと思う。その作業をやっていると、そのことが正しいのではないかと思われてくる。

木精は天才だと思えてくる。

「ねえ、阿古どう思う?」

「いんじゃない」


外から男3人が帰ってくる。京介は何事も無いかのように天井のレールにカードをしばった紐をくくりつけていく。カーテンレールのようだ。自由に動くからいい。真は画用紙を少し大きくきり始めた。

「何書くの?」

「どんなに頭が良くても礼儀を知らないと困るから、挨拶さ。おはよう、こんにちわ、さようなら、おやすみなさい、ありがとう、すみませんというところか」


京介はアルファベットをつるし終わると木精のベッドにいき話しかける。

Aの札を持って「あ」と話しかける。

すかさず鞠子は

「京介違うわ、エイよ。それアルファベットだから」

「それ早いんじゃない」

「早くないわ」


私もジンライムを飲み始める。阿古のタバコの吸い方は個性的だ。マイルドセブン、ショートピース、ショートホープを前において順に1センチ吸っては消しを時間をあけて楽しむ。

「どうしてそんな吸い方するの?」

「一度に一本は吸えないのよ」

「ならやめたほうがいいよ、身体だって悪いんだから」

「身体を強くするために吸い始めているのよ、あら塔子はチエリーを吸っているのね。私に一本ちょうだい。

今ね、ちょうど桜の詩を考えていたの。桜のアーチ並木を少女が歩いていくんだけど、涙が溢れてきているの。

なぜ泣きそうなのかわからないの。塔子どう思う?」

「失恋でもしたんじゃないの」

「そうね、きっとそうだわ。その少女を一人にしておいていいだろうか?横に『僕』がいたらどうだろうか」

「僕がいたら少女はもっと泣いちゃうよ」

「そうね泣かせてしまっちゃだめだよね。落ちそうで落ちない涙が溢れて落ちないということにしないと泣けないよね」


[ 鞠子 ]


 真が2階から下りてきて氷を入れたグラスに焼酎とトマトジュースを入れ始める。

「何それ?」

「阿古が飲むんだ」

「そう、それ私が持っていくわ。外に京介がいるわ。バーベキューを始めるみたいよ。手伝ってあげて」

真はグラスを渡し外に出て行く。


「阿古、持ってきたわ。調子どうお?」

「めまいがあるわ」

薄い赤のパジャマを着て真っ赤な酒を飲み始める。

「大丈夫なの?」

「めまいにはめまいで治すのよ」

「下で京介と真がバーベキューの準備を始めたわ。阿古も行こうよ」


私が先に立って階段を下りていく。

「阿古、私木精育てるから」

聞こえたのか聞こえないのか阿古は返事をしない。

なぜなんだろう、こんな気持ち。病弱の阿古には任せておけないということだろうか。

母性本能なんだろうか。


[ 真 ]


 「どうしておれにきついんですか?今日の阿古」

「あなたが好きだからよ。きっと今日が最後だと思うわ、きつい私の」

「だから、なぜ今日なんですか?」

「あなたが木精の父親だという告白だからよ。あなたにはかっこよくなってもらいたいの。

今のそして過去のあなたもそしてこれからのあなたもどんな姿であっても私にはかっこよく映るわ。

ただ、そう、私のわがままなんだけど、木精があなたをかっこいいと思ってくれたらいいなという願望。

別に押し付けじゃないわ。どうでもいいわけでただ何というのかしら、なんとなく今母になってしまったみたい」


「ブラデイマリー飲みますか?あの日のように」

「あなたが持ってきた焼酎にトマトジュースを入れて、はじめは1:1でね」

「下に行ったらみんな来ますよ」

「いいじゃない。なんとなく乾杯するわ。真が音頭をとって。いうこと考えておくのよ。そのとき私を見てはだめよ」

[ 真 ]


 「阿古、結婚してくれませんか?」

「だめよ」

「なぜ?」

「理由は難しいわ。あなたは今医学を勉強している。そして立派なお医者さんになるのよ」

「ならなくてもいい」

「それはわがままよ。沖縄のおじいさんおばあさんを喜ばせなきゃだめよ。それがあなたの最後のお勤めじゃないの?」

「そうだけど」

「それをわかっているならまっとうしなきゃだめよ。それほど永く二人は生きられないわ」

「わかるけど、わからない」

「そういうことよ、生きるって。そういう渦の中で理性の方向を見れば立派になれるし、逆方向に行けば芸術家になれるわ」

「おれ、ジャズもやりたい」

「やればいいじゃない、勉学もね。あなたの才能は小さくないの。大きいからいろいろなことができるの。目の前にあるいろいろな事柄に無心でぶつかっていけばいいのよ」

「今、おれは無心で阿古にぶつかっている」

「私は別格よ」


「あの雲夏の終わりみたいだな」

「違うわ、秋の始まりをおしえてくれているのよ」


[ 真 ]


 こんなとき何と言ったらいいのだろう。新婚の手を取り合って喜ぶ演技はできない。

ただ、乱。

「阿古、どうしたらいい?」

「別に、今までどおり普通にあなたの夢に向かえばいいわ。あなたがすることはこのことを秘密にするということよ」

「じゃなぜ言ったんですか?」

「15年後木精は自分の父親は誰か悩み始めるわ。実際木精は今父無し子なの。思春期や受験のとき戸籍謄本が必要になったとき悩むと思うの。そのとき、もしかしてあなたに尋ねるかもしれないわ。私の父なの?と。

そのとき違うよと答えてくれればいいわ。あなたにお願いすることはそのことだけよ」

「なんかきついな」

「そんなことないわ。ただ木精を愛してくれていればいいわ、今のスタンスでね」


乱。空に浮いているような、地の底にいるような心と頭がつながっていかない。


「順調に生まれたんですか?」

「そんなことあるわけないわ。心臓手術をした先生は絶対だめだといったわ。弁を金属に代えているから血液をさらさらにする薬を飲んでいるのよ。あなたは医学部だからわかると思うけどその薬を飲んでいると傷かつくと血が止まらなくなるの。子供を生めてもあなたは死ぬといわれたわ。そこで勝負に入ったの。その話の後私は薬を飲まないことにしたの。全部投げたわ。産科の先生には心臓手術のことは隠していたの。でもばれちゃって完全にだめということになったんだけど、そのときは臨月に近づいていたの。私は、死んでもいいからいいから生みたいとお願いしたの。心臓の先生も産科の先生も認めてくれたわ。自然分娩はきついということで手術で木精は誕生したのだけど未熟児でずっと保育器に入っていたわ。目が見えなくなるとか耳が聞こえなくなるとか脳に障害が起こるかもしれないと随分脅されたわ。でも大丈夫という自信が私にはあるの」