根室本線全駅間歩き6(滝川-落合) その6・ダム湖の底に沈んだ滝里地区 | 駅から駅まで・旅のあしあと

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鉄道路線全ての駅間を歩く全駅間歩きを10年以上続けています。
今は東海~北海道エリアを歩いていますが、目指すは全国全路線全区間踏破!
そんな壮大な目標、たぶん一生レベルでかかるので、長い目で見守っていただけるとうれしいです。
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その5からの続き

 

-野花南(10:55発)-滝里ダム防災施設(12:25着・13:35発)

 

 

野花南(のかなん)駅に着きました。

駅舎は平岸駅で見たものと同じタイプです。

 

上りの1本を除けば全列車が止まりますが、

1日の平均利用者数はわずか1.6人。

駅前の寂しさを差し引いても利用者が少なすぎます。

 

 

 

ホームは千鳥配置型2面2線の変則相対式です。

 

 

 

雨脚が強くなる中、列車が到着しました。

ちょうど野花南駅で行き違いが行われましたが、

どちらの列車にも野花南駅を利用する人はいませんでした。

 

 

待合室に戻って、再び雨雲レーダーをチェック。

やや強い雨雲がこのあたりまで押し寄せていました。

落雷レーダーも調べてみると、少し離れた場所に2~3発落ちていました。

 

次の休憩ポイントまでは6km強。

途中にトンネルもあるので、万一の時の逃げ込む場所を確認して

先へ進むことにしました。

 

 

 

雨が降り続く中、野花南駅を出発しました。

コンクリ造の建物も点在しており、かつての繁栄ぶりがうかがえます。

 

 

 

国道に合流して、東へ進みました。

 

市街地を抜けると歩道はなくなり、

まもなく根室本線のアンダークロスが見えてきました。

交互通行が行われていたので、少し離れた場所から撮っています。

 

 

今回の事故現場はここですね。

写真や映像見る限り、反対側の下側面に当ててしまったようですね。

 

 

 

アンダークロスしてまもなく、空知川を渡りました。

 

 

 

空知川の対岸は無住地帯ですが、

しばらく進むと歩道が復活しました。

 

道は緩やかな登り坂に変わりました。

滝里ダムの付け替え道路が始まったようです。

 

 

 

トンネルが見えてきました。

付け替えによって新たに掘られたトンネルです。

 

 

 

トンネルを抜けても歩道は続いていました。

トンネル歩いている間に雨は止み、青空が覗きました。

 

 

 

右に目を向けると、

そこは滝里ダムのダム湖・滝里湖です。

 

 

 

歩く人などまずいないだろう道にしっかり歩道がついています。

 

こんな「二車線歩道付き」の道路が

「無駄な公共事業」の代名詞のように言われた時代もありますが、

そんな道を歩くようになってからは感謝していたりもします。

まぁ、こんな需要に応えるだけではどう考えても割に合わないですけどね。

 

 

 

遠くに滝里ダムの天端が見えました。

 

ダム本体の工事は1990年に着工し、1999年に竣工しました。

重力式コンクリートダムで、高さは50メートルあるそうです。

ダムの竣工に伴い、滝里地区が水没しました。

 

 

 

2つめのトンネルが見えてきました。

 

このトンネルは奔茂尻(ぽんもしり)トンネルと呼ばれています。

滝里地区はもともと奔茂尻(アイヌ語で「川の中の小島」)と呼ばれていました。

 

 

 

トンネルを抜けると、久しぶりに建物が現れました。

滝里ダム防災施設の建物です。

 

 

 

防災施設へのアプローチ路の途中に、こんな場所がありました。

 

ここは滝里地区の思い出を残す場所。

左の小屋は滝里バス停の待合室として使われていた建物なんだそうです。

 

 

奥に見える石柱には…

 

 

「公立滝里小中学校」と書かれていました。

 

滝里小学校は1905年に開校しました。

その後市街の盛衰を最も近い場所で見続けていましたが、

滝里ダム建設に伴う住民退去により1987年をもって閉校しました。

最終年度の児童数は7人だったそうです。

 

 

他に神社の社殿なども移されていましたが、

よくありがちな駅舎や駅名標はありませんでした。

…個人的にはちょっと残念。

 

 

 

国道をくぐり、滝里湖畔へ向かいました。

 

 

 

青空の下、滝里湖が水をたたえていました。

 

周囲は静寂に包まれていますが、

かつて、この底には滝里地区の農地と集落が広がっていました。

当時の様子はどんな感じだったのでしょうか。

 

 

 

(1977年撮影空中写真CHO7728-C14-28。国土交通省国土地理院HP内「空中写真閲覧サービス」より)

 

1977年当時の空中写真に現在の国道を赤線で重ねてみました。

少し違うかもしれませんが大目に見てください。

 

 

滝里地区は1904年に開拓が始まり、

最盛期には1000人ほどが暮らしていたそうです。

稲作中心の農業が行われていましたが、スイカやメロンなども栽培されていたそうです。

1971年と1972年に発生した石狩川大洪水をきっかけにダム建設の話が持ち上がり、

当初は全域をあげて反対したものの1985年に移転交渉が妥結し、

1986年に閉町式が行われました。

 

1960年代以降人口は減少の一途をたどり、

1975年には410人、退去直前の1986年には334人まで減少しました。

退去後、住民の3分の1は市外に転居し、農家の半分は廃業したそうです。

 

 

 

(1977年撮影空中写真CHO7728-C14-28。国土交通省国土地理院HP内「空中写真閲覧サービス」より)

 

前の写真の中央付近を拡大してみました。

こちらがかつての滝里市街です。

 

駅へ続く通りに家屋が集まっています。

この通りを「銀座通り」と呼んでいたそうです。

 

 

 

住民の立ち退きは1986年から本格的に始まり、

翌1987年にはほぼ全世帯が退去したそうです。

 

 

 

(1989年撮影空中写真HO893X-C6B-9。国土交通省国土地理院HP内「空中写真閲覧サービス」より)

 

写真は立ち退きがほぼ完了した1989年のものです。

民家が集まっていた銀座通りも、駅舎以外全ての建物が取り壊されています。

 

住民が滝里の地を去った後も駅だけはしばらく存続していました。

1987年までは上下7本ずつ列車が停車していましたが、

1988年より年を重ねる度に停車する列車は減少。

線路付け替え直前の1991年に滝里駅に停車した列車は

わずかに上り1本、下り2本のみでした。

 

 

1991年10月、根室本線は現在線に切り替えられました。

経路から完全に外れた滝里駅は廃止となりました。

 

 

 

その後国道の付替も完了し、

1999年に湛水が始まり、滝里湖が生まれました。

 

広場からはかつての滝里市街を望むことができます。

写真ではちょうど星印の場所にあたります。

 

 

 

こちらが滝里ダム防災施設です。

内部は資料室となっていて、自由に見学できます。

名物のバーチャルシアターとデジタル資料は故障していましたが、

同時に特別展が行われていて、たくさんの写真から往時の滝里を知ることができました。

 

特別展会場の休憩室で昼食をとりました。

写真では天気良さそうにみえますが、

非常に不安定な空模様で休憩中にも結構な勢いで雨が降りました。

次の雨雲が来そうな雰囲気でしたが、カミナリ雲までは連れてきてないようでした。

 

 

 

やり過ごそうとすると富良野到着までに日が暮れるので

雨を覚悟で出発することにしました。

 

 

 

西側から防災施設周辺を眺めました。

 

 

この湖底にひとつの市街があったことは忘れません。

 

 

その7へ続く

 

 

野花南駅から滝里湖までのGPSログ(1/88,000)です。

 

この区間は事実上の一本道です。

付替前の国道を経由して、空知大滝や滝里ダムの天端へ向かうことができます。