奥羽本線全駅間歩き1(福島-米沢) その6・板谷峠の歴史と大沢駅 | 駅から駅まで・旅のあしあと

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今は東海~北海道エリアを歩いていますが、目指すは全国全路線全区間踏破!
そんな壮大な目標、たぶん一生レベルでかかるので、長い目で見守っていただけるとうれしいです。
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その5からの続き

 

板谷峠(10:40)-大沢(12:24着・13:05発)-

 

 

青看板が立つ分岐点まで戻ってきました。

大沢駅方面へ向かう道には頑丈なゲートが設置されていました。

 

ここから先、大沢方面は冬期通行止めとなります。

例年12月頃から5月中旬頃にかけて通行止めとなるため、

じつに約半年もの間、通行することができません。

 

8年前に冬の板谷峠を歩きましたが、

ここから先は分厚い雪の壁に阻まれ、道の形すらも分かりませんでした。

今年も5月20日(全駅間歩きの前日!)まで冬期通行止めの予定でしたが、

今年は雪が少なかったためか、通行止めは早々に解除されました。

 

 

 

ゲートをくぐると、急な登り坂が始まりました。

 

しばらく歩くと、周囲の木々の背が低くなっていることに気がつきました。

植物はあまり詳しくないのですが、灌木類に変わり、周囲の視界も良くなりました。

珍しい植物が生えているのか、道を外れて散策する人の姿をあちこちで見かけました。

大規模な伐採が行われた後で植生遷移が進んでいる真っ最中なのか、

それとも、実は局地的な森林限界が近いのか…

 

もし後者だとしたら、

板谷峠の厳しさは、単に道の厳しさだけじゃないことになりそうですが。

 

 

 

ゲートから20分ほど歩いて、峠道のピークに着きました。

標高は約830メートル。本家の板谷峠よりも高い場所にあります。

そこまで見晴らしが良いわけではありませんが、板谷峠よりも視界は開けています。

 

地図にも現地にも案内のひとつもない無名の峠ですが、

ここをもって「板谷峠」と記すガイドもあるそうです。

 

 

 

 

ピークを越えると、下り坂が始まりました。

所々舗装が無くなり、砂利道になるところもありました。

 

 

 

さらに下ると、再び林の中に入りました。

 

急な下り坂をしばらく進むと、やがて道は沢に寄り添うようになりました。

民家はおろか、建物すらない山の中ですが、人や車の姿をよく見かけました。

地元の方に話しかけられ、出会いの多い山の中でした。

 

 

 

さらに下ったところで振り返って撮った1枚。

塞がれていない左側の道を下ってきたのですが、

その脇には「新旧分れ道」と記された立て札が立っていました。

そして、右側の道の入口には「峠ニ至ル(新道)」という立て札が立っていました。

 

これこそが、前回の後半に触れた

「なぜ行き止まりの道に板谷峠があるのか」という答えにつながります。

 

 

板谷街道が成立した当初、

板谷峠(笹峠)は現在地ではなく、北に位置する鉢森山の直下にあったそうです。

ところが、あまりにも険阻であるがゆえに、交通に支障をきたすようになったそうです。

1833年に米沢の藤倉富蔵が新道開削を米沢藩に建議したそうですが、

このとき工事が着手されることはありませんでした。

 

時は進んで1846年。暴風雨によって、板谷街道は大きな被害を受けました。

藤倉は再び新道開削を建言し、米沢藩も工事開始を受け入れました。

こうして新道工事は開始され、2年後の1848年に竣工しました。

板谷街道は新道経由となったため、板谷峠も現在地に「移転」したそうです。

 

この新道は福島-米沢間のメインルートを担うことになりましたが、

竣工から30年あまりが経過した1881年に栗子峠回りの万世大路が竣工すると、

メインルートは万世大路に移り、板谷街道は次第に廃れていったそうです。

 

 

 

(国土地理院発行5万分の1地形図「福島」(昭和48年資料修正)および同「吾妻山」(昭和43年資料修正)を一部使用・縮小・加工

 

地形図の痕跡から新道と旧道の位置関係を地図にしてみました。

青い道が「旧道」、赤い道が「新道」です。

破線部は確証に乏しい場所ですが、実線部にも間違いがあるかもしれません。

位置関係の把握程度に考えていただければと思います。

 

上の図からも分かるように、

今は行き止まりの板谷峠も、当時はちゃんと街道が繋がっていたのです。

もっとも、峠駅方面へのアプローチ路は、今と当時でずいぶん異なっていたようですが。

ちなみに、新道の開通によって、街道のピークは150メートルほど低くなったようです。

 

 

ちなみに、緑色で示した道がここまで歩いてきた道路(県道)です。

 

米沢市史によると、

この道は1957年に既存林道を拡幅する形で工事が始まり、1961年に竣工したそうです。

名目通り既存の林道を拡幅した箇所も存在しますが、

工事区間(板谷-笠松鉱泉間)の約半分は新規に開削されたようです。

この道路の開通により、板谷と市街地との間が自動車で行き来できるようになりましたが、

1966年に「栗子ハイウェー(現在の国道13号)」が開通すると、

早くもその役割を同道にゆずることになったそうです。

 

現在、板谷から米沢市街に繋がる道はこの県道であり、

この県道こそが現代の「板谷街道」になっているわけですから、

県道のピークを「板谷峠(3代目)」と呼んでもおかしくないような気もします。

 

…にしても、道路に関して言えば、

明治以降、「板谷峠」は「栗子峠」の後塵を拝し続けているんだなぁ。

 

 

 

ようやく下り坂も緩やかになってきました。

この先でゲートをくぐり、冬期通行止め区間を抜けました。

 

 

 

笠松鉱泉にさしかかりました。

ここでは日帰り入浴もできるそうですが、

今日は時間が押し気味ということでパスしました。

 

鉱泉の外れに、ちょっと歴史ありげな水路トンネルが口を開けていました。

おそらく奥羽本線建設の際に作られた疎水のトンネルだと思われます。

 

 

 

林の中をさらに進みました。

 

やがて、スノーシェッドが見え隠れするようになりました。

大沢駅まであと少しです。

 

 

 

大沢集落が見えてきました。

 

 

 

大沢集落に入りました。

板谷集落よりも小ぶりな集落です。

 

集落の中央に、駅への道しるべがぽつんと立っていました。

道しるべに従って街道を左に折れ、駅へと向かいました。

 

 

 

道なりに進むと、高台に行き着きました。

最初に目に飛び込んできたのは、駅の跡でした。

ここはスイッチバック時代の大沢駅です。

 

4連続スイッチバック最後の大沢駅も、引上線上にホームがありました。

写真正面に見える建物が旧大沢駅の駅舎兼待合室だったようです。

 

 

 

ホームを経由して、スノーシェッドへ向かいました。

草に覆われながらも、往時の姿をよく残しているようでした。

 

 

 

ここの駅名標も赤さびていますが、

これまでの駅名標と違って、読む気になれば、何が書いてあるかは一応分かります。

 

 

 

現在の大沢駅へと向かいます。

例によって、現在の大沢駅はこのスノーシェッドの中にあります。

集落からは、旧大沢駅のホームを経由して、このスノーシェッドをくぐることになるため、

駅に向かうだけでも地味に大変です。

 

 

 

大沢駅に着きました。

スノーシェッドの中に相対式ホームが設けられ、

米沢方面ホームには待合室が設けられていました。

 

 

この駅間、意外と時間かかったなぁ。

集落から駅までが予想以上に長かったからかなぁ。

途中で休憩しなかったってのもあるけど、なんだか疲れた…。

 

 

 

休憩中に新幹線が通過しました。

 

 

外は厳しい日差しが照りつけ、歩けば汗がにじみ出ますが、

駅のホームはスノーシェッドで覆われ、待合室の窓を開ければ涼しい風が吹き抜けました。

 

ゆっくり休憩したかったのですが、これから先の行程を考えると、

昼食休憩とはいえ、あんまりゆっくりしていられません。

疲れがまだ残っていますが、次の駅へ向かうことにしました。

 

 

 

大沢集落には茅葺き屋根の民家が点在し、

宿場時代の面影がよく残っています。

 

集落の外れには大沢小学校があったそうですが、

1979年には休校となり、2004年に廃校になってしまいました。

校舎はすでに取り壊され、跡地には校庭と思しき広場と公民館がありました。

 

 

 

集落を抜けたところで、水田を見つけました。

まともな水田を久しぶりに見たような気がします。

 

ここまで街道とともに生まれたような集落が続きましたが、

水田が現れたということは、板谷峠越えも終盤にさしかかってきたようです。

 

 

その7へ続く

 

 

大沢駅手前(笠松鉱泉)から関根駅手前までのGPSログです(1/60,000)。

板谷峠から関根駅手前まではほぼ1本道です。

途中、水窪ダム方面とのT字路に突き当たりますが、

山を下る方向に進めば、迷うことはないはずです。