本当の生きる意味ってなんだろう??
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<納棺夫日記> 定本版 50P
人は誰もが、死ぬときは美しく
死にたいと思っている。
しかし美しく死ぬとはどのようなことか、
はっきりしない。
苦しまないで死ぬことなのか、
他人に迷惑をかけないで死ぬことなのか、
死後の遺体が美しいことなのか、
格好よく死ぬことなのか、どのような状態をさすのか
明確でない。
死に方なのか、死後の死体の状態なのか、
その区別さえあいまいなのである。
まして死体の処理方法まで死のイメージに
連なってくると、わけがわからなくなってくる。
<ここからおかもん>
安らかに死にたい・・これが 多くの
人の願いでしょう。
ぽっくりしねたらそれでいい
そんなことをいっている人もあります。
こんな実話があります。
奈良県に有名なポックリ寺がある。
大阪のある婦人会の人たちが、観光でそこを訪れた際、
長患いで家族に迷惑をかけたり、苦しんだりせず、
ポックリ死ねますようにと祈願した▼
ところが“霊験あらたか”というか、3日後、
その中の一人が本当にポックリ死んでしまった。
こうなるとあのポックリ寺は、ただの言い伝えでない、
本当なんだという話になり、
それからというもの「今度はあんたの番だ」
「いやあんたこそ、
あんなに真剣に頼んでおったじゃないか」
と、
ゴリヤクのなすり合いまで始まった▼
頭痛がしたり、
原因不明の腹痛にでもなろうものならさあ大変で
「いよいよ自分の番が来たか」と
皆、戦々恐々とし
始めたという。
そこでまた、婦人会で集まってポックリ寺へ行き、
この前の祈願はどうか取り下げ願いますと、
前より真剣に頼み始めたのだそうな▼
ポックリ死ねたらええなあ、
と考えている「死」は怖くはないが、
実地の死ではそうはいかない。
肉体的な苦痛はなくても、死自体の重圧に、
心は七転八倒させられるのである。