納棺夫日記 と 親鸞聖人・・ 他人の死と自分の死 | 岡本一志 幸せのタネまき日記

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<納棺夫日記から引用>



他人の死に出遭っても、

一時的に愛惜の念が起きるだけで、日ごろ自らの中で

死を認知していないため、他者の死であって、

他人の死は仏教でいう機縁とはなりえなくなっている。


「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり・・・」

 と蓮如の 「白骨の章」を読み上げても、

ほとんどの人は心に響かなくなっている。


<ここからは おかもん>


 
確かに「現代」は

 というものから隔離されているのかも
      しれません。



  たしかに


毎日、死亡事故、紛争による死者、殺人、自殺と


いろんな死がテレビで報道されます。




  ところが、



 それは、
リアルな死でしょうか??

 どこか自分と関係のないところで、

  起きた出来事 となっていないでしょうか。


 核家族化が進み、

 目の前で老い や、 その苦しみを目にすることはすくなくなりました。


  重い病になると入院するので、

目前で、病苦にあえぐ人を見ることもないでしょう。



  目の前で人が死んでいく、

  
  もう二度と会えなくなる。

  多くの場合、それを経験するのは

    
50歳 60歳となったとき

  
70歳、80歳の年老いた

    
    親の死ではないでしょうか??


  
茂木健一郎さんは 

   クオリア日記の中で

  こんなことをいっています。


  2008年5月2日 ブラックホール(クオリア日記)
 
  http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/05/post_49e1.htm
l  


   ただ、現代の文明が、いわゆる
  
  生老病死を隠蔽していることだけは
  
  以前から問題とは感じている。

  誰だって死ぬのはイヤだし、
  
  老い、衰えるのはさびしい。
  
  しかし、そのような一人称の
  
  悩み、苦しみを、現代の最高の知的成果
  
  と整合性のある形ですくい上げてくれる
  
  そんな体系はない。

  そのような巨大なブラックホールが
  
 あるからこそ、現代人の多くは
 
  大いなる虚妄とともにある。



★「ブタがいた教室」という映画があります。

 原作は「豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日」

 時は1990年7月。

 大阪の小学校で、いのちの教育の一環として、

 みんなで豚を飼い、その豚をみんなで食べることで

 食生活を見直そうという授業がありました。

 担任の先生は、

今は、みんな、パックの中に入っている豚肉しかしらない。

豚という生きているものと、豚肉というものが

全然つながらない。

だから、最後は殺してみんなでその豚全部、丸ごと食べる。

それぐらい責任もって一つのことができたらいいな。

というような思いで、その授業をはじめました。

その豚にPちゃんと名前をつけます。

そして、みんなで一生懸命育てます。

そしてその日はやってきます。

最初の約束だった

「みんなで育てた豚をみんなで食べる」日。

クラスのみんなでPちゃんのことを話し合います。

食べるか、食べないか、真っ二つに意見が分かれます。

みんなで泣きながら真剣に討論します。

そして、Pちゃんは最後・・

という内容です。




しかし、この映画が話題になるということ事態、

あまりに、死というものが私たちの生活からかけ離れて

いるかを物語っていると思います。

豚や鶏を育てて、殺して、食べる

一昔前なら、当たり前の日常だったのです。


 
リアルな死が 遠くに 行ってしまったと同時に

 
リアルな生もまた、薄らいでいます。


なんで働かなければならないかわからない

まいにちがつまんない。

人を殺して自分も死にたい・・・

自分なんかいてもいなくてもいい・・


 生きることがあまりに希薄な
 
   むなしさへの叫びでは
  
       ないでしょうか?


私の先生の監修された
「なぜ生きる」という本には次の一説があります。




  ◎「末期ガンです。長くて一ヵ月」
   その人は、「死後どうなるか」だけが大問題となった


 死は万人の確実な未来なのだが、

誰もまじめに考えようとはしない。

  考えたくないことだからであろう。

知人、友人、肉身などの突然の死によって、


否応なしに考えさせられるときは、

身の震えるような不安と恐怖を覚えるが、


それはあくまでも一過性で、

あとはケロッとして、「どう生きるか」で心は埋めつくされる。


たとえ、自分の死を百パーセント確実な未来と容認しても、

まだまだ後と先送りする。



「今までは 他人のことぞと 思うたに 

       オレが死ぬとは こいつぁたまらぬ」




と死んだ医者があったそうだが、


   ながめている
他人の死と、


     眼前に迫った
自己の死は、


動物園で見ている虎と、

山中で出くわした虎

     ほどの違いがあるといわれる。


"体がふるえるような、不安と恐怖"といっても、

 所詮は、想像している死であり、

 襲われる恐れのないオリの中の虎を見ているにすぎない。


山中で突然出会った

         猛虎ではない。

 ところが、

 「末期ガンです。長くて一ヵ月」と宣告されたらどうだろう。
 大問題になるのは「死後どうなるか」だけだと、


ガンと十年 闘って世を去った

 岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は言っている。

死と真正面から向き合った記録は壮絶だ。

            


監修 高森顕徹 なぜ生きる
http://www.takamori.info/book/byakudo/09urasima.html
高森顕徹先生 HP)  「なぜ生きる」  クリックするとセブンアンドワイに飛びますd(*⌒▽⌒*)b オカもん自分探しのたび日記:生きるって何だろう?自分って何だろう?


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