先の投稿を本編として「へぇここってこうなってるんだー」みたいな感じで重点的に見たところの話。

かしわ台駅東口 (大塚本町駅跡)

本編」5月2日分、後半の方。
CafeJBからRIDER'S BASE Ribertyへの移動中。
かしわ台駅には、当駅開業と入れ替わりに廃止された大塚本町駅跡の側から出入り出来る東口が存在し、350mほどの通路で結ばれている…と言う知識はありましたが、来訪目的上あまり関係ないかなと思っていた存在。
この日は食べ歩き状態で、次の一食までにはやや多めに運動(歩き)しておきたいという考えから「あっ東口あったな」と遠回りしてみることにしました。かしわ台到着までに、その存在を思い出せたので。
で、横浜方へ歩いていく。
小ぶりな跨線橋が…
 
 
下りホームからでも、下り副本線と交差しないと通路に出られないので、一旦跨線橋に上がります。
降りた感じはこう。
 
 
屋根付き通路から庭園な場所にルートが分岐している。これ改札内なのです。
「庭園」側に足を踏み入れてから振り返り。
 
 
よく手入れされています。
東口方の合流点。
 
 
東口側に進むと一段高くなります。旧東大塚駅のホーム跡に掛かったのでしょうか?
 
 
ホームとしては廃止後なのでしょうけど、そこからの一時期、架線柱が建っていたのか?という感じの切り欠きが複数箇所あります。
東口建屋(旧相模大塚駅駅舎の位置、建て替え済み)まで歩いてきて、ちょっとトイレ借りて出たところ、トイレの対面。
 
 
庭園といい長い通路に気を使ったような作りが多々見られました。途中、休憩していた人は居られませんでしたが、人通りはそれなりに多かったです。
 
東口駅舎外観。
 

かしわ台東口からリバティ往復

柏ケ谷の谷を挟んで向こうの高台上にR246はチラチラ見えてるし、そうそう迷うことはなかろうと、スマホのマップをチラ見してからリバティへ歩く。
古くて傷んでましたが、このような案内板も。
 
R246が通る、向こう側の高台の斜面に亀島自然公園というのがあって入ってみました。
 
 
斜面を登っていく通路も見えましたが、そこまで寄り道できるほどの余裕はないと判断(「手戻り」回避)、公園を東側の出口まで。そこから住宅地内の坂道をバイク用品のナップス座間店に向かって登ります。
 
 
結果的に公園東側の出口少し手前を、園内の坂路と階段?を登っていけば、住宅地内にポンと出てルート的にはショートカットだったようなのですけど。少々袋小路的なところの中に出るので「ここはどこ?」となった可能性も。
 
無事リバティ到着(本編参照)
 
 
 
で、復路。
R246をリバティからナップス側に渡る信号がちょうど赤になったところで、成り行きかしわ台駅本来ルートを辿り始めますが…
柏ヶ谷のそこと思われる目久尻川を渡り、かしわ「台」駅への坂道を下から見上げたところ、お子様連れとかで結構混み合っているし、あーやっぱここ登るの大変だよなぁという気になってしまう。と同時に目久尻川沿いに遊歩道が見えたので、これでかしわ台駅東口の往路のルートに行けそうだと入ってみる。
 
 
あーっと、なんの木だっけね…
 
  東口へのルートから見た、メインのルート。
 
 
12月の1回目(中旬)か2回目か(年末)失念しましたが、この坂の途中から、下の景色をまじまじ見てスゲーってなってたのですよ。それで逆に、どんだけ登らされてるの?と意識してしまった。これを下から見るとまたスゲー。高速ジャンクションのランプウェイの頂点みたいなところを徒歩で登っているのかぁ。
いや食い過ぎなので登りゃいいのですが、カロリー消費の観点については結果的にOKの方向だったのが下記の話で。
 
 
東口の改札を入場して「庭園」まで戻ってきて「あぁ」となったのですけど。結局跨線橋で線路を跨ぐわけで滝汗
かしわ台駅本屋へ登る道は、高台上の線路を跨ぎこして橋上駅舎の高さまで高度を稼ぐので、東口と連絡する跨線橋とほぼ同じ高さになる。それを階段ではなく坂道一本でズンズンと…
結局のところ東口から回っても最高到達点(標高、橋上駅舎と跨線橋の)はほぼ同じわけです。位置エネルギー的には同等。ただ(私の用件先からは)結構迂回するので、急いでいないブラブラなら、足には一気に登るより楽ですし、歩数は多くなるのだから、こっちの方が無理なくダイエットじゃね?とニヤニヤ

二子玉川〜吉沢界隈

本編4月29日と、最終日5月4日に相当。二子玉川の駅から北西側。実はあまりご縁が無い。子供の頃から通算でも、玉川高島屋から先はほとんど記憶が(丸子橋~二子橋間、たとえば等々力渓谷とかは近年ちょいちょいと)。
二子玉川の駅から、新二子橋のやや上流にあるそうな、渋谷区立二子玉川区民運動施設というグラウンド数面があり、そこへ行きつけの?キッチンカーが初出店と2回目で居たので訪れたと。
4月29日は、この距離でバス乗る必要ある?って感じで徒歩でアプローチ。
二子橋の下のところから兵庫島公園という方に抜けられるつもりで居たのですが、工事壁と誘導の人の様子から閉鎖中と判断(帰宅後Webで確認すると、過去の閉鎖は出て来るのですが…実はどこか開いていたのかな?)
通れないと自己判断して多摩堤通りに戻りましたが、歩道が完全には整備されていないのは少々恐怖でした。
 
旧堤防上の河口からのキロポスト。

 
ここで18kmだとすると…
 
の 13.40k 表示(右岸ですが)、Google Mapの距離測定をやったら直線で4.6kmという偶然(地点はザックリだし、流路の曲がりは考慮してないのに偶然ぴったり)だったので「河口からだった」ことになりますね。
この堤防、前述のように旧堤防と呼ばれているようですけど、工事中のようなので通るのをやめた兵庫島とか、料亭が出来たりレジャー開発が進んで堤防内の建造物が増え、多摩川の流路も暴れ川(地名が川の両岸に分かれていたりの)で大きく振れているので、現在は最終防衛ラインとしてもあまり依存していないようなのですが(二子橋上流では?)
 
以前、水害で堤防の作りが問題になった際、論点が発散するからだろうか、報道番組でコレの存在と運用について触れずにただ行政が批判されてるなーという感じで、Web検索をしてみても良く分からなかったのだが。
その2年後に書かれていた記事を発見。
  • 二子玉川駅の下流側連続2か所については陸閘の機能が活きている(他は言及なし)。
  • 2019の水害時にその内の下流側、二子玉川駅バスターミナル出口の対面は実際に本番で閉鎖した。
  • 支柱を立てる穴が普段アスファルトで埋めてあり剥がす時間が掛かる、いうて訓練で10分(思ったより早い)。
だそうで。
それはそれとして現堤防の方の強化を行っているのが現状のようで。
 
で、多摩堤通りの歩道が両面にはないところ、どちらを歩くかの判断を求められる感(単純に、歩行者右側を貫くには無理がある)を持ちつつ新二子橋を潜り自動車学校が見えたとことで仮設通路を見つけました。
 
 
現堤防を共有し合流直前の野川を渡る。
 
渡って突き当たり、左(下流側)へ降りるのは工事エリアで警備の人が…向こうに行きたいんじゃーという爺さまに迂回してくれと説得中滝汗
それとちょっと距離を置いて(歩行者の正当な順路方向に)お目当てのキッチンかーを探す。あれちゃうか?
 
 
二子玉のビル群、新二子橋との距離感。
 
の背後がお目当て(本編参照)。
 
 
 
 
上は、東京到着翌日、実質初日の最初の行動でしたが、次は最終日東京駅へ向かう途中。
本編で書いた通り、東京駅に荷物背負って行くところで、まず往路は砧本村行きバスの三角公園バス停で河川敷近くへアクセスして、上流側から向かう。
久地陸閘という堤防の切れ目から。車の出入りが多く、誘導の方が複数忙しそうにしていたので、撮影どころか立ち止まってマジマジ見るのも遠慮し(性格)たのですが、Google Mapで久地陸閘で出てきますし、ストリートビューもあります。
 
 
駐車場の車のナンバープレート処理が面倒で、「消しゴムマジック」で雑に処理してるので、変なノイズがかかった画像になってます。
位置:
 
久地陸閘から見ると真南川沿いが渋谷区のグラウンドですね(場所はもちろん世田谷区です)。ジグザグに行く感じでしたが。
三角公園バス停というのは、バスで野川を吉沢橋で渡った先というのがちょっとポイントになります。この陸閘が開けられた堤防は、まだ野川が(広大な河川敷に)合流していない地点。
 
川寄りのグラウンドの方だよなと目星をつけてアプローチ。
 
 
 
 
戻り。
来た時の三角公園バス停は砧本村方面専用バス停。路面電車支線(単線だったかと)を代替した系統で、元の廃線跡の道(全線新設軌道で、路上は走ってなかったはずで、軌道敷の跡の道)のせいか狭隘なところがあり、循環系統というか、往復でほぼルートが異なっている。
で乗り換え検索(Yahooのアプリ、Googleマップでもほぼ同じ答えだった)から複数系統が二子玉川駅へ向かう吉沢バス停に出るべしという解で。その場合、二子玉川から徒歩と、三角公園バス停からの2ルートの中間で河川敷から出るのが妥当な模様。
29日の自動車学校下流側から仮設ルートの河川敷へ降りる坂路と向かい合うように、これは元々からっぽいルートがあった。
それを登ったところ。
 
下から撮らにゃ、河川敷から戻るのがこのエリアで3ルートあるって説明にならないのでは…
少年サッカーC面とある横で野川沿いと多摩川流路寄りの渋谷区グラウンドの方が行き来出来て、この野川沿いに出たところで4/29に使った自動車学校下流側の一部仮設通路から駅徒歩で向かおうとするなら右折。もう一つ野川沿いに上流へ向かえば吉沢のバス停へ向かえる。
で、先ほど三角公園バス停到着直前に渡っていた吉沢橋を徒歩で渡るのですが、おや…
 
 
もとは軌道線のルートだったよと。
 
玉電の支線の一つ砧線は全線新設軌道(俗で言うと専用軌道、路上を走っていない)だったそうで廃線後、大幅に拡幅して道路橋に架け替えているので面影もへったくれもないですね。もとは上の碑にある軌道専用橋だったもようで。
 
 
ここは広いのですが、来た時、三角公園バス停で降りた先の方、狭隘に見えました。

単線の軌道跡の道路はちょいちょい狭いままだからでしょうけど、二子玉川から砧本村行きのバスは往復でルートが異なっており、駅に戻るのは他系統も通る吉沢まで戻るのが妥当という次第で。

さらに余談で、子供の頃は目黒からの二子玉川園行きや、渋谷発着でも有ったかな、何本に一本は砧本村に直通するような運行をしていました

おまけ:5月1日(水)病院付き添い後の家探し

帰省の主目的は1日の病院付き添いで。
昼過ぎにはタクシーで施設に送り届けましたけど、雨が強くなってくる一方で食品だけ買い込み実家引き返し。庭樹木の作業なども中断。ふと、ここ何年かいつも時間切れになってる、昔の資料的な写真の発掘をやっておけば?と。
なお私自身が小学~23で関東北部へ着任する間に溜め込んだネガポジプリントは、1990年代の実家建て替え時に取りに来いという連絡を忙しいと突っぱねてたら処分されましたチーン
20年ほど前に、母がウチの子らに見せていた父アルバムの中に、入間基地の公開(航空祭?)のが有ったなぁと、ずいぶん以前に思い出す事が有ったのだが、帰ってる間には思い出さなくて。
 
 
これが20年前に見た記憶に近い60年前の写真だけど、向こう正面の人だかり側、飛行機が正面から見えてる写真が有ったよなぁ…とアルバム類が入っていた棚を更に漁るが、そこまでのは出てこなかった。まあ20年前の記憶が怪しいんですが。
 
東武野田線(アーバンパークライン)の塚田駅1965頃か。
目黒→入間→船橋→白井と、亡父、転勤2年毎、転居(船橋が千葉転勤当初の仮っぽくて)3回毎年のようにやってる。
当時この駅に降りた理由が確定できないのだけど、地図で見ると広い公園が有って昔から有りそうなので、馬込沢から電車で来たのかはてなマーク
 
同年代、中山競馬場のハズ(入間基地同様、行動範囲的に他が有りえないから)のパドック。
子守名目で父に連れ出されてた記憶はパラパラっと残っている。妹が生まれるの生まれたのの時期かな(その前後は葛飾の母実家に私は預けられていたが)。
当時特に強い印象が残ってるのは、東中山~木下間の木下街道上を走っていた京成バス(Wikipediaにもかつてから路線の変遷まで記述されるような由緒ある路線だった模様)。で木下に出て、キハ17系で成田、モハ72で千葉、千葉の京成電車のターミナル(現千葉中央、当時の京成千葉(今の京成千葉は当時「国鉄千葉駅前駅」)に出て、国道14号線経由東京方面の幹線バスを船橋まで乗って新京成バスで戻って来た散歩(車両が何だったかは小学生ぐらいの頃に本の知識と記憶が完全一致)。
後年もしやと思ったのですけど、常磐線~我孫子~成田線経由成田行きの直通列車が、SL牽引からDD51に置き換わる時期だったんですよね(佐倉機関区のSL全廃はもうちょっと先)。ひょっとして、TVでSLが無くなりそう的なニュースを見て、時間も調べずぶらりと行ったが外したとかではないのかと。木下街道の京成バスは千葉を離れる1969夏前時点では中扉のみのツーマンで(周辺の新京成バスは記憶の限りワンマン、但し前乗り自己申告払いだったかもしれない←当時幼児なのでニヒヒ ただまあ整理券ってものは一切記憶に無いです)。成田線の踏切で車掌さんが下りて安全確認で通したり(戦後期にバスによる悲惨な踏切事故があっちこっちで有ったそうで、当時は厳しかった)、競馬開催時には東中山から臨時便多数が出てたはずですが、こちらも超満員になって圧死するかと思ったりな記憶があります。
 
年代下がって、記憶に有る年代のGWの写真。1972年。滋賀の会社に出向中の祖父が倒れたの報せから家族でお見舞いが計画され(GWにはぴんぴんしてたけど)お見舞い名目のGW関西旅行。GWにGWの写真を見つけるニヒヒ
これはもちろん旧駅当時となる浜大津駅前と、下は対面2車線時代の琵琶湖大橋。
スマホで撮って消しゴムマジックで人物を消去しているのだけど、電車と鉄柱が被っているでは無いか父よ…って、乗り物とか建造物などほとんど完全体で入らず、人物だけきっちり入るよう撮られている。なんてまともな方だ(自分だったら…電車とバイクと建造物がメインの写真になりそうな滝汗
 
このいわゆるおとぎ列車、自分のアルバムでどこの遊園地じゃ?と思ったのだけど、亡妹の方を見たら玉電200形が写り込んでいて「多摩川園」と丸わかり。
 
この手の写真は谷津遊園(千葉時代)、二子玉川園、向ヶ丘遊園、ドリームランドなどなんだろうなーと思いつつ眺めてましたが(ほとんどメモ書きも無し)。これも亡妹の方で場所確定したもの。
 
向ケ丘遊園のED1011。OERって入ってるじゃんポーンからの特定はすぐでしたウインク
有ったんだねぇ、全然記憶にない。向ケ丘遊園はアクセスのモノレール(その前身の軽便鉄道はもちろん知らない)とバラの印象しか。向ヶ丘と言い谷津遊園といいバラ好きすぎやろ。
一時期、向ヶ丘遊園の裏手高台上の宅地に両親の仲人様宅が有って定期的にあいさつに行っていました。宅地側に裏ゲートが確か有って、ご近所配布のチケットでも有るのか時々頂いて、園内を正面まで降りてモノレールで小田急の駅まで出るというパターンが何度か有ったと(一度わがまま聞いてもらって、遊園停車の「さがみ」SSEで新宿まで帰った事が…家遠ざかる勢いの遠回りニヤニヤ)。遊園駅~梶ヶ谷駅のバスが開設された以降、切通し上バス停が便利すぎて遊園を通り抜けで利用は激減し、ほどなく仲人様方は湘南に引っ越してしまいましたが。後年1980年前後、高校で南武線・小田急線沿線の友人が一気に増えるのですけど「遊園」「切通し」「ランド」と言えばどこか一意に定まるというニヤニヤ
仲人様たちも当たり前のように単に「遊園」と称してましたし、近年天体戦士サンレッドで「遊園のシャノアールで武器商人と打ち合わせ」というセリフが出たのには思いっきり吹いてしまいました笑い泣き
2023の正月に、こっち方面に越していた長男との待ち合わせに遊園のシャノアールを利用したけど、翌月末に閉店、ブランド変わったようですね。
さすがに「ランド」は遠く東京湾岸のそれに沿線民の意識も侵食されている可能性も有りますな。
 
閑話休題。
実家の古い写真の光景、部分的にも記憶を保っているのがもう私だけなんだよね。実家共々どうしたらよいのか考えさせられる(ツマと子らは興味無さそうで)。