神話の墓場(ヨーロッパ) | 鬼川の日誌

神話の墓場(ヨーロッパ)

​​​​​​   神話の墓場ーヨーロッパ (古田武彦)

 

 

 

  これも「日本中世史」の勉強と同じ頃(2010年)に書いたもので、この間

 追求してきたテーマ(日本人の歴史、日本人とは何か)は同じですので、再録

 します。細かな字句の修正、さらに補筆があります。

  **
  歴史特に古代史を解き明かしていく上で神話をどのように位置づけるかと

 いうことはかなり重要です。

  とりわけ日本の場合『古事記』『日本書紀』の神話が「皇国・神国日本」

 「現人神・天皇」の戦争に国民を動員するための精神的な支柱として扱われて

 きたがために、(いわゆる「皇国史観」)

  戦後は一転して津田史学により、「日本神話は8世紀天皇家の史官による

 造作」として切り捨てられ、歴史とは無縁のものとされ教科書などにも神話は

 一切登場することはなく、省みられることもなくなった。
  「産湯と一緒に赤子まで捨ててしまった」ということらしい。

  しかしメルヘンは創作であっても、神話はその核に歴史的な事実や真実を

 背景として持っている。

  例え古事記、日本書紀が8世紀に記されたもので、それまでの「倭国」から

 権力を簒奪した(7世紀)近畿大和王権が、「倭国」を歴史から抹殺し、永劫の

 昔から「日本」が唯一の権力であると主張することを正当化するために、

 「削偽定実」(天武天皇)されたものであるとしても、そのことを踏まえて、

 その中から真実を読み解くことは可能だと古田武彦は主張する。

  もちろんそのためにはこれまでとは全く違う視点が必要で、これまでの歴史

 家はすべてそれに失敗してきた。

  そこで、いわゆる「邪馬台国」論争に「『邪馬台国』はなかった」
 ( 『魏志倭人伝』には邪馬台国ではなく邪馬壱国と書かれていることから論議

  を始めるべきだという、、、)

 という衝撃的な本を皮切りに、日本古代史の解明に画期的な地平を切り開いた

 のが、古田武彦である。

  今でも日本史学会には受け入れられていないらしいのだが素直な目でその

 著作を読めば、推理小説以上に面白いばかりでなく、古代史の闇は解明され

 つつあると納得するはずである。

  今や古田とともに古代史の解明に力を尽くす大勢の人がいるらしい。それ

 でも史学会は受け入れない。それは古田の日本史学者たちへの批判の核心が

 戦前はもちろん戦後の日本史学者たちも「近畿天皇家一元主義」から抜け出

 せていない」という点にあるからのようだ。

  何のかのといっても学者は学者でその「世間」から後ろ指さされるのが怖い

 しおまんまの食い上げになることを恐れているからのようなのだ。学者の

 「世間」も狭い。

  今や古田の学説を知らないでは済まされないはずなのに。

  (この点は網野善彦も同じだから情けない。)

 

   CF   

 

 

 

  ** 歴史と神話


  その古田が歴史と神話という問題でヨーロッパ社会について触れていること

 がある。(『古代通史』 原書房)

  それは「ヨーロッパというのは神話の墓場」だということです。

 キリスト教によって「神話が追い出され殺しつくされた」世界だということ

 です。 (このように捉えた西欧史学者はこれまでいないと思う。)

  「中世から近世にかけて人類史上でもっとも残虐なシーンの連続の一つで

 ある魔女裁判」によって「何万人にも及ぶと思われる魔女が焼き殺されて

 いった」という事実。

  魔女とは多神教の世界でその宗教を支えた巫女たちで、彼女らがその世界の

 リーダーだった。
  「魔女裁判」というのは「多神教粛清裁判」に他ならない。


  巫女たちが焼き殺されていったということは、巫女たちが語る「神話」

 放逐されたということを意味するわけで、だからヨーロッパには古代神話

 がない。

  そのなかでかろうじて生き延びた古代神話が『アイスランドサガ』である

 が、ヨーロッパ大陸から追い出され亡命してきた人たちが伝え、12、3世紀

 になって記録された。

  日本で言うと平安、鎌倉の時代になる。「これは本来の神話の生き残り」と

 いっていいが、日本の7、8世紀に記録された『古事記』・『日本書紀』に比較

 すれば格段に新しい。

  魔女裁判をどう評価するかはいろいろだが、「古代神話を研究するものに

 とっては地団太を踏みたいような残念なこと」と古田は言う。

 

  ** ヨーロッパ近代社会の成立

  中世ヨーロッパ社会の隅々にキリスト教が浸透していくこと(つまり魔女を、

 多神教の神々を、迷信として放逐していくこと)によってしヨーロッパ近代

 社会が成立ていくと評価する見方がほぼ多数な中で、古田の視点も前提として

 考慮しておかなくてはならないことだと思う。

  (神々を放逐してしまった西欧社会と神々が死んでない日本社会。)

  このキリスト教の浸透によってヨーロッパ的な個人がそしてその個人が作

 る社会が成立していくという分析をしているのが、阿部謹也です。

  だからキリスト教という背骨を持ってなく、神々が死んでいない日本には

 ヨーロッパ的な個人は存在しない。
  また「近代的自我の確立」をつまりヨーロッパ的な個人を建前として追い求

 める(明治以降の近代的知識人)のではなく、日本は日本の特徴を(日本人の

 歴史を)掴むべきだというのが阿部の主張のようです。

  「わが国における個人のあり方は、ヨーロッパにおける個人のあり方とは

 根本的に異なっているのです。ヨーロッパの個人は欧米にのみ根を下ろし、

 それ以外の地域において普遍性をもっているとは考えられません。

 

  それなのにわが国では主として知識人の間で欧米型の個人のあり方が理想

 とされ、わが国の個人のあり方は遅れているという暗黙の了解があるように

 思われます。」(『西洋中世の男と女』 筑摩書房)

  その日本的な特徴として日本人は個人である前に「世間」生きている

 だというのがそれです。

 

  これから「世間」について考えてみたい。

  (了)