死の臨床 2 | 鬼川の日誌

死の臨床 2

  死の臨床、ホスピスケア 2

 

 

 

 * 「諏訪中央病院」の場合、鎌田實医師

 

  ほぼこれと同じような問題意識のもと、現場で率先して患者の治療を、

 そして死にゆく人とその家族と向き合い、現代医療の持つ欠陥を実践的に

 克服すべく奮闘してきたのが諏訪中央病院の鎌田實院長である。

  (『がんばらない』鎌田實 集英社 初版2000年9月)

 

  「人間の疾病を部品の故障と考えたデカルトという哲学者がいたが、ど

 うもその哲学者が活躍しだした頃から、医学や科学は人間の体を分解して

 いろいろなものを部品と見る考え方をしてきたようだ。ぼくはデカルト的

 な考え方に対抗して、諏訪中央病院の医療づくりをおこなってきた。臓器

 だけにこだわらず、疾病をかかえる人間、家族、地域に思いを注ぐ医療を

 おこなってきた。」

 

  「医者側に打つ手がないからといって投げ出してしまうのでは、患者さ

 んは浮かばれない。このときが支えがいちばん必要なときかもしれない。

 しかし、日本の平均的な医療は、このときの支え方を知らない。二十世紀

 日本の医療は想像を超える進歩をとげた。、、得たものも大きかったが、

 何か大切なものを二十世紀の医学は置き忘れてきてしまったように思えて

 ならない。

 

  、、、しかし医学がどんなに進歩しても、死は永遠に回避できない。

 必ず訪れる死。病気と戦うときも、死を受け入れるときも、魂に寄りそっ

 てくれるような、医療があったらいいなあと思う。

  、、、その人がその人らしく生きれるように、そっと寄りそうような

 医療がしたいと思っている。」

 

 

  * 機械論的生命観

 

  現代社会ではあたかも機械部品を修理交換するような感覚で、生命の
 「パーツ」が商品化され、操作されるに至っている。生命部品の商品化は
 売血という形で始まり、やがて臓器の売買、生殖医療を担う精子、卵子、
 受精卵、そして細胞へと波及している。
 
  「私たちが、ここまで生命をパーツの集合体として捉え、パーツが交換

 可能な一種のコモディティ(所有可能な物品)であると考えるに至った

 背景には明確な出発点がある。それがルネ・デカルトだった。」

 

  このように「デカルトの罪」を告発し、これを克服する新たな生命観

 (「生命は『動的平衡』にあるシステムである」)を提唱しているのが

 分子生物学者、福岡ハカセである。

 

 

 
 
  * 我が友
 
  私たちの大切な山友N・Tさんは22年の5月連休明けに、悪性リンパ腫、
 (ステージ4 余命半年)と診断されて、がん治療を開始した。
  この直前まで一緒にクライミングなどやっていたものにとっては、がん
 診断そのものが(後から訃報で知るしかなかったが)突然のことだったし、
 多分本人も愕然としたことだろう。
  抗がん剤治療だろうが、これが余りにも苦痛に満ちたもので本人が治療
 を断念、緩和ケア施設に入ったという。その後驚くほど直ぐの7月17日
 未明にあの世に旅立ってしまった。がん診断からわずか2ヶ月と少し。
  訃報が届いた時は本当に突然のことで心底驚いた。
  抗がん剤治療を断念して、緩和ケア施設に転居し、その後死を受け入れ
 るまでの思いはどのようなものであったのか、また緩和ケアがどのような
 ものであったかは知り得ないし、知りようもないが、「魂に寄り添って
 くれるようなケア」で苦痛のない最後であったことを願うばかりだ。