機械論的生命観
機械論的生命観(「デカルトの罪」)
これまで度々福岡ハカセの本とその理論を自分の勉強のために紹介して
きた。とりわけ『動的平衡』は興味深く面白かった。
その理論の核心は「第8章 生命は分子の『淀み』 ― シェーンハイマーは
何を示唆したか」のトップの節の「デカルトの『罪』」という表題にあるように、
デカルトを始原とし、今現在の私たちが深く犯されている「機械論的生命観」
に異を唱え、これを克服しなければという問題提起にあると思われる。
*
「現在私たちは、遺伝子が特許化され、ES細胞が再生医療の切り札だと
喧伝されるバイオテクノロジーの全盛期の真っ只中にある。」
(つい最近、ES細胞から精子の元を作り出し、これを不妊マウスの精巣
に移植して精子を作り、子どもを産ませることに成功したというニュースが
流されていた。)
現代社会ではあたかも機械部品を修理交換するような感覚で、生命の
「パーツ」が商品化され、操作されるに至っている。生命部品の商品化は
売血という形で始まり、やがて臓器の売買、生殖医療を担う精子、卵子、
受精卵、そして細胞へと波及している。
「私たちが、ここまで生命をパーツの集合体として捉え、パーツが交換可能
な一種のコモディティ(所有可能な物品)であると考えるに至った背景には
明確な出発点がある。それがルネ・デカルトだった。」
*
デカルトは生命現象はすべて機械論的に説明可能だと考えた。
「心臓はポンプ、血管はチューブ、筋肉と関節はベルトと滑車、肺はふいご、
すべてのボディ・パーツの仕組みは機械のアナロジーとして理解できる。
そして、その運動は力学によって数学的に説明できる。自然は創造主を
措定することなく解釈することが出来る―。」
こうした考え方を先鋭化したカルティジアン(デカルト主義者)たちは、動物
には魂も意識もない、あるのは機械論的なメカニズムだけだとして、進んで
動物の生体解剖を行ない、身体の仕組みを記述することに邁進した。
やがて動物と人間との間の一線を乗り越える者たちが現れ、人間を特別
扱いする必然は何もなく、人間もまた機械論的に理解するべきものだとする
18世紀前半のフランスの医師、ラ・メトリーのような人物も現れてくる。
現在の私たちもまた紛れもなく、この延長線上にある。
「この考え方に立つ思考は現在、一種の制度疲労に陥っている」。
遺伝子組み換え技術は期待されたほど農産物の増収につながらず、
効率的な臓器移植を推進するために死の定義が前倒しされたりしている
のだが、臓器移植はいまだに決定的に有効と言えるほどの延命医療とは
なっていない。
ES細胞の分化機構は未知で増殖を制御できないまま、ES細胞確立の
激しい先陣争いが繰り広げられることが、果たして私たちの未来を幸福な
ものにしてくれるのだろうか。
*
そしてこうした機械論的な生命観に対して福岡ハカセが掘り起こしたのが
ルドルフ・シェーンハイマーの業績である。
(「生命現象」「生命現象2」で紹介してきた。)
1940年頃ナチスドイツから逃れて米国に亡命していたユダヤ人科学者
シェーンハイマーは、当時ちょうど手に入れることのできたアイソトープ
(同位体)を使って、アミノ酸に標識をつけ、これをマウスに食べさせて、
マウスの身体を構成していたタンパク質が、食事由来の標識アミノ酸に
置き換えられていく様を見た。
「私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツ
ではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという
画期的な大発見」がなされたのである。
*
「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した
分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身は・・常に
作り変えられ、更新され続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とは
まったく別物になっている。」
(ここ数10年自分はずっと自分であると私たちの意識は思っている。しかし
そう思う脳細胞を構成する細胞のアミノ酸は数ヶ月と同じものはない。
今は昔と全く別のアミノ酸から構成される脳細胞で、つまり違う細胞で
「私は私である」と思っているわけだ。これを植谷式に言うと「自同律の不快」
てなことになるのかしらん?)
「そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れ自体が『生きている』
ということなのである。」
「可変的でサスティナブル(永続的)を特徴とする生命というシステムは、
その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、
その流れがもたらす『効果』であるということだ。生命現象とは構造ではなく
『効果』なのである。」
生命は「動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り変えている。
それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことが出来る。
このように考えるとサスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的
に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。
・・その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって『進化』と呼べることに、私
たちは気づくのだ。」
「生命とは『動的平衡』にあるシステムである」
*
シェーンハイマーの理論を拡張すれば、「環境にあるすべての分子は、私
たち生命体の中を通り抜け、また環境へと戻る大循環の中にあり、どの局面
をとっても、そこには動的平衡を保ったネットワークが存在していると考え
られる」つまり、
「動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ換え
たり、局所的な加速を行うことは、一見効率を高めているかのように見えて、
結局は動的平衡に負荷をあたえ、流れを乱すことに帰結する。」
「実質的に同等に見える部分部分は、それぞれがおかれている動的平衡
の中でのみ、その意味と機能を持ち、機能単位と見える部分にもその実、
境界線はない。」
バイオテクノロジーが未だに決定的な有効性を持たないのは、それが未だ
過渡期にあるからなのではなく、「動的平衡にある生命を機械論的に操作
するという営為の不可能性を証明しているように私には思えてならない。」
最先端の分子生物学者自身からする、現代のバイオテクノロジーや
その有用性を諸手を挙げて歓迎している社会(主にこれでまた一儲け出来
そうだと舌なめずりしている者たち)に対する重要な警告であると私は思う。
これまで度々福岡ハカセの本とその理論を自分の勉強のために紹介して
きた。とりわけ『動的平衡』は興味深く面白かった。
その理論の核心は「第8章 生命は分子の『淀み』 ― シェーンハイマーは
何を示唆したか」のトップの節の「デカルトの『罪』」という表題にあるように、
デカルトを始原とし、今現在の私たちが深く犯されている「機械論的生命観」
に異を唱え、これを克服しなければという問題提起にあると思われる。
*
「現在私たちは、遺伝子が特許化され、ES細胞が再生医療の切り札だと
喧伝されるバイオテクノロジーの全盛期の真っ只中にある。」
(つい最近、ES細胞から精子の元を作り出し、これを不妊マウスの精巣
に移植して精子を作り、子どもを産ませることに成功したというニュースが
流されていた。)
現代社会ではあたかも機械部品を修理交換するような感覚で、生命の
「パーツ」が商品化され、操作されるに至っている。生命部品の商品化は
売血という形で始まり、やがて臓器の売買、生殖医療を担う精子、卵子、
受精卵、そして細胞へと波及している。
「私たちが、ここまで生命をパーツの集合体として捉え、パーツが交換可能
な一種のコモディティ(所有可能な物品)であると考えるに至った背景には
明確な出発点がある。それがルネ・デカルトだった。」
*
デカルトは生命現象はすべて機械論的に説明可能だと考えた。
「心臓はポンプ、血管はチューブ、筋肉と関節はベルトと滑車、肺はふいご、
すべてのボディ・パーツの仕組みは機械のアナロジーとして理解できる。
そして、その運動は力学によって数学的に説明できる。自然は創造主を
措定することなく解釈することが出来る―。」
こうした考え方を先鋭化したカルティジアン(デカルト主義者)たちは、動物
には魂も意識もない、あるのは機械論的なメカニズムだけだとして、進んで
動物の生体解剖を行ない、身体の仕組みを記述することに邁進した。
やがて動物と人間との間の一線を乗り越える者たちが現れ、人間を特別
扱いする必然は何もなく、人間もまた機械論的に理解するべきものだとする
18世紀前半のフランスの医師、ラ・メトリーのような人物も現れてくる。
現在の私たちもまた紛れもなく、この延長線上にある。
「この考え方に立つ思考は現在、一種の制度疲労に陥っている」。
遺伝子組み換え技術は期待されたほど農産物の増収につながらず、
効率的な臓器移植を推進するために死の定義が前倒しされたりしている
のだが、臓器移植はいまだに決定的に有効と言えるほどの延命医療とは
なっていない。
ES細胞の分化機構は未知で増殖を制御できないまま、ES細胞確立の
激しい先陣争いが繰り広げられることが、果たして私たちの未来を幸福な
ものにしてくれるのだろうか。
*
そしてこうした機械論的な生命観に対して福岡ハカセが掘り起こしたのが
ルドルフ・シェーンハイマーの業績である。
(「生命現象」「生命現象2」で紹介してきた。)
1940年頃ナチスドイツから逃れて米国に亡命していたユダヤ人科学者
シェーンハイマーは、当時ちょうど手に入れることのできたアイソトープ
(同位体)を使って、アミノ酸に標識をつけ、これをマウスに食べさせて、
マウスの身体を構成していたタンパク質が、食事由来の標識アミノ酸に
置き換えられていく様を見た。
「私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツ
ではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという
画期的な大発見」がなされたのである。
*
「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した
分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身は・・常に
作り変えられ、更新され続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とは
まったく別物になっている。」
(ここ数10年自分はずっと自分であると私たちの意識は思っている。しかし
そう思う脳細胞を構成する細胞のアミノ酸は数ヶ月と同じものはない。
今は昔と全く別のアミノ酸から構成される脳細胞で、つまり違う細胞で
「私は私である」と思っているわけだ。これを植谷式に言うと「自同律の不快」
てなことになるのかしらん?)
「そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れ自体が『生きている』
ということなのである。」
「可変的でサスティナブル(永続的)を特徴とする生命というシステムは、
その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、
その流れがもたらす『効果』であるということだ。生命現象とは構造ではなく
『効果』なのである。」
生命は「動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り変えている。
それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことが出来る。
このように考えるとサスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的
に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。
・・その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって『進化』と呼べることに、私
たちは気づくのだ。」
「生命とは『動的平衡』にあるシステムである」
*
シェーンハイマーの理論を拡張すれば、「環境にあるすべての分子は、私
たち生命体の中を通り抜け、また環境へと戻る大循環の中にあり、どの局面
をとっても、そこには動的平衡を保ったネットワークが存在していると考え
られる」つまり、
「動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ換え
たり、局所的な加速を行うことは、一見効率を高めているかのように見えて、
結局は動的平衡に負荷をあたえ、流れを乱すことに帰結する。」
「実質的に同等に見える部分部分は、それぞれがおかれている動的平衡
の中でのみ、その意味と機能を持ち、機能単位と見える部分にもその実、
境界線はない。」
バイオテクノロジーが未だに決定的な有効性を持たないのは、それが未だ
過渡期にあるからなのではなく、「動的平衡にある生命を機械論的に操作
するという営為の不可能性を証明しているように私には思えてならない。」
最先端の分子生物学者自身からする、現代のバイオテクノロジーや
その有用性を諸手を挙げて歓迎している社会(主にこれでまた一儲け出来
そうだと舌なめずりしている者たち)に対する重要な警告であると私は思う。