多くの人が日常的に情報を読み続けている。ニュース、ブログ、書籍、SNSの投稿──特に中年以降、知的好奇心を支えにしながらも、どこかで「読んでも残っていない」という感覚に戸惑うことがある。
ふと振り返ると、1週間前に読んだ記事の内容が思い出せない。3日前に流し読みしたニュースの要点も、思い出そうとするとぼんやりしている。「こんなに時間をかけて情報に触れているのに、何も残っていないのでは?」という疑念は、誰しもが一度は抱く。
情報の“残らなさ”と脳の仕組み
まず前提として、人間の脳はすべての情報を保持するようにはできていない。読んだ内容の大半は、即時記憶から短期記憶に流れ、数時間~数日で消えていく。これは正常な認知機能であり、「忘れる」という行為は、脳の情報整理機能そのものだ。
よって、「残っていない」と感じることは、記憶力の衰えというより、記憶に残すべき情報が取捨選択された結果である場合が多い。
残らない読書は“下地”をつくる
では、記憶に残らない読書にはまったく意味がないのか。むしろ逆である。読んだことの大半は、言語化できずとも「知識の地層」として蓄積され、別の知識や経験と結びついたときに発火する。
たとえば、数年前に読んだ専門書の断片が、仕事の場面で突然思い出される。あるいは、似たテーマの記事を後日読んだとき、過去の記憶と共鳴するような理解が得られる。これは、明示的な記憶ではなく、非言語的な“下地”としての記憶が機能している状態だ。
読書が支える“思考の筋肉”
記憶に残らない読書は、筋トレに似ている。目に見える成果がなくても、続けているうちに思考の回路が太くなり、情報処理の速度や精度がじわじわと変わっていく。
特に現代のように、情報の洪水の中で自分の判断基準を持つことが求められる社会では、読書の量よりも、情報に触れ続けていること自体が“判断力のベース”になる。読むたびに「今回は残らなかったな」と感じても、それ自体が意味のある運動になっている。
“残す”ことに固執しすぎない
すべてを覚える必要はない。むしろ、読みっぱなしで構わないという姿勢が、情報との関係性を軽やかにしてくれる。記憶されなかった内容にも、かすかな影響や感情の揺れがあったかもしれない。その小さな揺れが、後に別の知識を受け入れる“器”になる。
重要なのは、意味を求めすぎて読むこと自体をやめてしまうことではなく、「残らないときもあるが、それでいい」と受け入れた上で読み続けることだ。