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日曜日のキジバト

生成AI/創発/しごでき(にあこがれる)/うまくいく単純なアルゴリズム/読書/職場のストレス

怒鳴る人はいない。無茶な納期を口にする人も、それほど多くない。表面だけ見れば、穏やかで平和な職場だと思われるかもしれない。

だが、ここ最近、私のいるプロジェクトで4人目の休職者が出た。パワハラや暴言が飛び交うようなわかりやすい問題はない。それでも、人が静かに壊れていく。なぜか。

理由のひとつは、「難易度が適切に見積もれないまま、仕事が進む」という構造にある。納期は現場の判断で決められるが、その根拠となる工数の見積もりが非常に難しい。過去の類似案件を参考にしたいと思っても、そうした情報が十分に共有されていない。

本来であれば、上層の人たちは複数の案件にまたがる情報や統計を持っている立場だ。その知見を現場にフィードバックすることで、見積もりの精度を上げたり、無理なスケジュールを防いだりできるはずだ。だが、そうした情報提供や対話が少ないまま、現場は「このくらいでいけるだろう」と曖昧な見通しで進めざるをえない。

責任感のある人ほど、その不安を言語化せず、自分の中で処理しようとする。

やがて、静かに折れる。


この「壊れ方」は、外から見ると本当にわかりにくい。周囲の誰かが「最近、無言が増えた」と気づいたときには、もう間に合わない。

問題の本質は、暴力的な言葉や明確な過労ではない。構造の中にある無理解と、説明の不在だ。現場の声が上層に届かず、届いても「努力すれば何とかなる」で済まされる。この繰り返しが、静かに心を削っていく。


この環境で私ができることは、少ないかもしれない。それでも、少しでも状況を記録し、構造を言葉にしておくことには意味があると信じている。

「壊れる前に、伝えられる形を作る」。

この記録が、誰かの小さな防波堤になればと思う。

 

仕事のすべてが、言葉になるわけではない。

資料に残る業績、会議で交わされる報告、評価シートに載る成果。
それらは確かに「見える仕事」だが、日々の業務には、その外側に広がる曖昧な領域がある。

気配に気づくこと。
空気を読んで手を引くこと。
誰にも頼まれていないけれど、やっておいた方がいいと判断したこと。
その多くは記録されず、説明もされない。


でも、たしかに存在している

そうした仕事には、名前がない。
手順もマニュアルもなく、誰かの「なんとなく」で始まり、「やっておいてくれて助かった」で終わる。

しかし、それは間違いなく「仕事」だ。
それがなければ、他の仕事が回らなくなる。
表に出る仕事が成立するために、土台を支えている。

名前がないだけで、価値がないわけではない。
ただ、可視化されにくいだけだ。


書き残すことで、見えてくるもの

言葉にならない仕事は、記録することで、少しずつ輪郭を帯びてくる。
たとえば、日報の余白に「なぜ今あの資料を作ったのか」を書いてみる。
メモの片隅に「あの場で発言を控えた理由」を残しておく。

そうした小さな言語化が積み重なると、自分の判断や行動のパターンが見えてくる。
それは、他人に説明するためではなく、自分自身の働き方を理解するための作業だ。


記録は、承認の代わりになる

静かに行った仕事や、目立たない判断は、誰かに評価されることは少ない。
だが、自分が書き残した記録をあとで読み返すと、「あのとき、自分は確かに考えていた」と確認できる。

それは、小さな自己承認でもある。
評価されなかったことへの埋め合わせではなく、「無視されて終わった」という感覚を、少しだけやわらげてくれる行為だ。


仕事には、言葉にならない部分がある

優れた報告書や、数字で語られる成果も大切だ。
だが、それだけでは働き方のすべては語れない。

人との間に生じる「間(ま)」のようなもの。
判断の裏にある「ためらい」や「気づき」。
そういったものこそ、記録の中でしか残らない。

そして、その記録がやがて、次に静かに働く誰かの支えになるかもしれない。


結びにかえて

言葉にならない仕事は、軽視されやすい。
だが、それをしている自分自身が、一番その重さを知っている。

だから、記録する。
誰かに見せるためではなく、自分の働きを、自分で忘れないために。
それが、日々の仕事に対するささやかな敬意になる。

目立つわけでもなく、音を立てるわけでもなく、
ただそこに在り続ける――そんなふうに働けたらと思うことがある。
毎日同じ時間に同じ場所にいて、過剰に語らず、必要があれば動き、必要がなければ静かにしている。

それは存在感を消すことではなく、風景のように自然に溶け込むことだ。


評価されることから少し離れて

仕事の成果は、報告や会議や資料というかたちで表現される。
だが実際の現場では、それよりももっと細かく、控えめで、言葉にならない仕事が積み重なっている。

誰かの作業がうまくいくようにタイミングを合わせる。
空気を乱さないように先に道をつくっておく。
聞かれたときだけ、必要なだけ応答する。

そういった働き方は、表に出ることが少ない。
だが、風景のようにそこにあって、チームの流れを静かに支えている。


存在しながら、邪魔にならない

風景は、その場の一部でありながら、意識されることは少ない。
けれど、そこにないと落ち着かないという種類の存在感がある。

職場にも、そういう働き方がある。
目立たずに、しかし「ここにいる」と思わせるようなふるまい。
過剰に主張せず、必要なときだけ輪郭をあらわす。

そのような仕事のしかたは、派手さこそないが、他の人が安心して動ける下地をつくっている。


継続することのかたち

風景のように働くということは、同じことを繰り返すことではない。
変化に応じて少しずつ姿を変えながらも、本質的な役割を保ちつづけることだ。

季節が移り、光の角度が変わっても、そこにある景色が少しずつ表情を変えるように、
働き方にも静かな更新が必要になる。

それは新しい技術やスキルとは別の、姿勢の変化であり、配慮のかたちでもある。


風景になることで、支えになる

言葉やアピールではなく、存在そのものが周囲に安心を与える。
そういう働き方を目指すのは、主役になれなかったという諦めではなく、
自分のあり方を見つけるひとつの選択だ。

風景は、人の気分を左右する。
落ち着いた空間、視界の抜け、静けさや広がり。
そうしたものが、気づかないところで心に作用しているように、
働き方にも「そこにいるだけで、少し空気が変わる」という役割がある。


結びにかえて

風景のように働くということは、
控えめであっても、必要とされる場に静かに存在し続けるということ。

その姿勢は評価されにくいかもしれない。
だが、確かに職場の空気に影響を与えている。

声を張らずに、前に出ずに、
ただ、いることで支えるというかたちも、働き方のひとつである。