仕事のすべてが、言葉になるわけではない。
資料に残る業績、会議で交わされる報告、評価シートに載る成果。
それらは確かに「見える仕事」だが、日々の業務には、その外側に広がる曖昧な領域がある。
気配に気づくこと。
空気を読んで手を引くこと。
誰にも頼まれていないけれど、やっておいた方がいいと判断したこと。
その多くは記録されず、説明もされない。
でも、たしかに存在している
そうした仕事には、名前がない。
手順もマニュアルもなく、誰かの「なんとなく」で始まり、「やっておいてくれて助かった」で終わる。
しかし、それは間違いなく「仕事」だ。
それがなければ、他の仕事が回らなくなる。
表に出る仕事が成立するために、土台を支えている。
名前がないだけで、価値がないわけではない。
ただ、可視化されにくいだけだ。
書き残すことで、見えてくるもの
言葉にならない仕事は、記録することで、少しずつ輪郭を帯びてくる。
たとえば、日報の余白に「なぜ今あの資料を作ったのか」を書いてみる。
メモの片隅に「あの場で発言を控えた理由」を残しておく。
そうした小さな言語化が積み重なると、自分の判断や行動のパターンが見えてくる。
それは、他人に説明するためではなく、自分自身の働き方を理解するための作業だ。
記録は、承認の代わりになる
静かに行った仕事や、目立たない判断は、誰かに評価されることは少ない。
だが、自分が書き残した記録をあとで読み返すと、「あのとき、自分は確かに考えていた」と確認できる。
それは、小さな自己承認でもある。
評価されなかったことへの埋め合わせではなく、「無視されて終わった」という感覚を、少しだけやわらげてくれる行為だ。
仕事には、言葉にならない部分がある
優れた報告書や、数字で語られる成果も大切だ。
だが、それだけでは働き方のすべては語れない。
人との間に生じる「間(ま)」のようなもの。
判断の裏にある「ためらい」や「気づき」。
そういったものこそ、記録の中でしか残らない。
そして、その記録がやがて、次に静かに働く誰かの支えになるかもしれない。
結びにかえて
言葉にならない仕事は、軽視されやすい。
だが、それをしている自分自身が、一番その重さを知っている。
だから、記録する。
誰かに見せるためではなく、自分の働きを、自分で忘れないために。
それが、日々の仕事に対するささやかな敬意になる。