“思考停止”が必要な夜もある | 日曜日のキジバト

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何かを考えつづけることが、もはや限界に近い──そんな夜がある。
ニュースを見ても頭に入ってこない。メールの返信が思いつかない。本を開いてもページが進まない。
それでも、「何かを考えなきゃ」と焦ってしまう自分がいる。

けれど、そんなときこそ“思考停止”という選択肢が、必要なのかもしれない。

「考える力」は、消耗する

日中、仕事で判断を繰り返し、周囲に気を配り、空気を読み、自分の言動を選んでいると、それだけで頭は疲弊していく。
情報処理を続けた脳は、休息なしには回復しない。
にもかかわらず、「家に帰ってからが本番」とばかりに、自己研鑽や副業、SNSでの発信にまで意識を向けると、心のどこかで“詰まり”が生じる。

それは、怠けているからではない。単に、脳が限界まで使われているだけだ。

あえて止めることで、動き出すことがある

「考えることを止める」というと、ネガティブに聞こえるかもしれない。
でも実際には、“何もしないこと”が創造の入口になることがある。
ぼんやりと天井を見つめる。無音の部屋で、呼吸だけに集中する。あるいは散歩に出て、ただ風の音を感じる。

それは、現代においては贅沢で、同時にとても実践的な行為だ。
脳の“デフラグ”のように、整理されていない断片が静かに統合されていく。

すべての夜に「意味」はいらない

何もしない夜に、意味を求めすぎないこと。
「今日は何の成果もなかった」「自分は何かを逃しているかもしれない」──そう思ってしまうのは、評価を求める癖が抜けないからだ。

でも、本当に必要な思考は、評価の外側から生まれる。
焦りや義務感からではなく、自然と湧き上がってくるものの中にこそ、“本当の考える力”が潜んでいる。

だから、何も生まれない夜も、きちんと味わっていい。

終わりに

「今日はもう何も考えない」と静かに決める夜があると、翌朝の自分が、少し軽くなっていることがある。
それは、思考を捨てたのではなく、温存した結果だ。

“思考停止”は、敗北ではなく、ひとつの回復戦略。
それを自分に許せるかどうかが、これからの人生のしなやかさを左右していく。