根白坂砦 殿下の側近②【尾藤編】 | 落人の夜話

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耳川の合戦(天正6年:1578)で大友家の軍勢を叩き潰して以来、破竹の快進撃を続けていた薩摩の島津家は、天正14年(1586)には関白・豊臣秀吉が遣わした仙石秀久らを戸次川の戦いに撃破して九州を席巻しました。

 

しかし天正15年(1587)4月。

豊臣方の主力が到着すると攻守は逆転し、戦線は日向国(宮崎県)まで後退して、島津方は要衝・高城(高鍋町)を囲まれていました。

 

寄手は豊臣秀吉の実弟・秀長を筆頭に小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤ら西国の大小名およそ10万。

高城がいかに堅城とはいえ、わずか300ほどの兵が籠もるこの城を大軍勢で取り巻いて腰を据えたのは、この城が島津の主力を釣り出す餌だったからでありました。

 

案の定、4月17日。

島津家の当主・島津義久自ら率いる約3万が来援。豊臣方の付城のひとつ、根白坂砦に総攻撃を仕掛けました。

根白坂の戦いです。

 

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東九州自動車道、高鍋ICから車で10分ほど。

宮崎県木城町から西都市に至る県道312号沿いに、「陣の内」というバス停があります。

 

このいかにも古戦場跡感のある地名が示すごとく、この周辺がかつて根白坂砦跡。

遺構はほぼ消滅していますが、バス停の隣に案内板が設置されています。

 

 

案内板こちら。

字数も多くしっかりした内容ですねえ。

 

ふむふむ、「宮部継潤は、あらかじめ部下に命じ、多数の人夫を使い、深さ二間(約3.6m)、幅三間(約5.4m)ほどに堀を広げ、その堀の際に土塁を盛って、二間ほどの木や竹の柱を立て柵を作り、なおその中に鉄砲隊を組織し…」

「歴史が地域に与える活力を今こそ皆で見直す時期に来ているといっても良いでしょう…」

 

例によって小声に出して読んでみますが、文章はわりとクセ強めですわ(;´Д`)

 

 

 

一部拡大。

 

ともかく宮部継潤は島津勢の来襲をあらかじめ予想していて、しっかりした陣地構築をおこなっていたと。で、柵の内に鉄炮隊を置いて厳重に備えていたと、そういうことです。

 

 

根白坂砦跡南側の地形。

自然地形かも知れませんが、大きな堀跡のようにも見えます。

待ち受ける豊臣方は当然、大土木工事をおこなって大規模な堀や土塁など防御施設を築いていたでしょう。

 

 

天正15年4月。

豊臣方10万の大軍に囲まれた高城を守るのは、家中から信望も篤い島津累代の忠臣・山田有信

決して降参しないであろう彼を見捨てれば、島津家の威信は低下し、軍の瓦解にもつながりかねない。

そんな状況でした。

 

かくして4月17日の寅刻(午前3〜5時ごろ)。

島津義久は乾坤一擲の大攻勢をかけるべく、根白坂砦に夜襲を仕掛けました。

 

―敵方ヨリ來十七日寅刻此表罷出可遂一戦候、嶋津中書ト書タル大札ヲ宮部カ陣ノ近邊ニ卓タリケル…(『陰徳太平記』)

 

島津勢は陣頭に「島津中書」と大書した大札を掲げて攻め寄せたそうです。

「中書」とは「中務大輔」の唐名。すなわち先鋒は島津四兄弟の末弟、武名隠れなき島津家久麾下の精鋭ということです。

 

その名乗りを出したからには、島津勢は軽々しい戦はできません。本気だぞということを、敵だけでなく城内の友軍にまで伝えようとしたのでしょう。

しかし来襲を予想していた宮部勢はかねて用意の松明を明々と燃やし、次々と柵の外へ放り出して辺りを照らすと、鉄炮でつるべ撃ちにした。そのため島津勢は鉄炮に当たって戦死する者が数知れず…という状況でした。

 

 

グーグル地図を加工した概念図はこんな感じ。

私が調べる範囲のものですので必ずしも正確は保障しませんが、ただ風前の灯となった高城と、囲みを破ろうとした島津勢の動きをおわかりいただけたら幸いです。

 

 

島津の攻勢はすさまじいものだったようです。

ちょっと史料から引用してみましょう。

 

―嶋津勢ハ青竹ノ先ニ鹿ノ角ヲ付、手々ニ持テ寄セタリケルカ、先陣ノ大将ト覚シキ者、塀ヨリ五六間前ニ床几ニ腰ヲ掛テ下知ヲナセハ…(『陰徳太平記』)

 

弾丸飛び交う中、島津の兵は青竹の先に鹿の角を付けたものを持ち、それを熊手のように引っかけて柵を引き倒そうとした。

また柵からかわずか10mほどのところに置かれた床几に物頭が腰掛け、采をふるって下知していた。当然ながら狙撃の的になって次々と倒れるが、倒れた者は後方へ下げられ、すぐ別の者が出てきてまた同じ床几に座った…

 

もはや「勇敢」を通り越して「蛮勇」ですが、これが島津の恐ろしいところ。

味方の死体を乗り越えてくる波状攻撃に、さすがの宮部も危うしとみて総大将・秀長に救援を求めます。

それを押し止めたのが秀吉から付けられた軍監・尾藤知宣でした。

 

尾藤は豊臣秀吉が小身の頃から仕えていた最古参の家臣。このとき彼の脳裏をよぎったのは、前任者・仙石秀久を失脚に追い込んだ戸次川の“衝撃”だったかも知れません。

 

(思えばあの時も夜戦だった。そして島津には「釣り野伏」がある。下手に手を出してしくじれば、今度は俺のクビが危ない…)

 

尾藤に制止された秀長は救援をためらいました。見かねた藤堂高虎や小早川隆景らが手勢を率いて救援したため、激闘数刻、ついに島津勢は砦を抜くことができず、大量の兵と指揮官を失って潮が引くように後退。

しかし敗れて退却する島津勢への追撃も、尾藤の進言によって行われませんでした。

 

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戦後の論功行賞で、尾藤の言動は問題となりました。

宮部と尾藤、それぞれの言い分を聞いてみましょう。

 

―宮部善祥坊陳取ニ、島津中務夜戦ヲ懸シトキ身方ノ大軍ノ内ヨリ救ハザルコトハ何ゾヤ…(『南海治乱記』)

 

宮部が尾藤に曰く、「島津家久が夜戦を仕掛けてきたとき、味方は大軍なのになぜ救援をよこしてくれなかったのか」と。

あの夜、わが陣に寄せてきた敵は手に手に持った熊手を柵にかけて傾け、今にも乗り込もうとするのを、我らは柵内から槍や長刀で必死に突き落として防戦した。敵は堀が死体で埋まっても退かず、我らは危ういところであった…

 

―命ヲ助カリテ今我モノ言ス事ハ幽霊ガ申スト思召トテ涙ヲ流ス…(同上

 

命を助かった私がこう言うのは、幽霊が言うことと思われよ…

と、宮部は涙を流して抗議した。

 

対して尾藤曰く、

 

―甚右衛門申上ルハ、善祥坊由ナキ申コト也、島津大軍ヲ分テ重手ヲ作リ、一陳ヲ攻テ脇ヨリ助出ルトキハ夫ヲ破リテ勝ヲ取ベキト謀ル…(同上

 

善祥坊(宮部)は異なことを申される。島津は自軍をいくつもの部隊に分け、一隊で敵陣を攻め、それを助けに来た軍を襲って勝ちを取ろうと企んでいたのだ。そんなこともわからないのか…

 

やはり尾藤は、島津の「釣り野伏」を恐れていた訳です。

ただ、リアルな実体験を語って苦難と不満を訴えた宮部に対し、尾藤の言葉は反射的に保身に走った感があり、上から目線が鼻につくのも否めません。

 

このやり取りを聞いた豊臣秀吉は、尾藤を「臆病也」と叱責。

尾藤は引き継いだばかりの讃岐10万石を没収され、仙石と同様、身ひとつで追放されました。

 

はからずも同じ道をたどった仙石と尾藤。

次回は二人の「その後」を追って最終回といたします。

 

 

 

※「聖通寺城 殿下の側近③【仙石と尾藤編】」につづく

 

 

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【根白坂砦跡】鹿児島県木城町椎木