細川館 「闘士」と「反日」と藤原惺窩 | 落人の夜話

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もう20年以上前の映画になりますが、『バトルロワイヤル』(2000/東映)に登場する「三村」という男子中学生が、「俺の叔父さんは闘士だった…」などと語るシーンがあるんですよ。

 

初めて観たときまだ若かった私は、

(…闘士?)

と思って調べてみたんです。そしたらこの映画で「三村」の叔父は左翼の反日活動家という設定でした。

 

「三村」は叔父からもらった「腹腹時計」なるテキストをみて爆弾をつくるんですが、これは実在した反日テロ組織「東アジア反日武装戦線」が地下出版した爆弾作成の教本。

つまり左翼はこういう反日テロリストを「闘士」と称する…と知った時は失笑しました。

 

そもそも「闘士」なんて言葉は、現代なら例えば共産党独裁の中国で民主化運動を展開したり、ロシアみたいな侵略国家で反戦活動をおこなうような、命がけの勇気と覚悟のある人にこそ与えられる賛辞でありましょう。

平和ボケした日本で、薄っぺらい学生運動あがりの左翼ごときが「闘士」なわけがありません。

より正確な表現を探るとすれば、例えば「中二病」です。

 

【中二病】(デジタル大辞泉)

思春期に特徴的な、過剰な自意識やそれに基づくふるまいを揶揄する俗語。具体的には、不自然に大人びた言動や、自分が特別であるという根拠のない思い込み、またはコンプレックスなどを指す。

 

中学生同士が殺し合う映画『バトルロワイヤル』で、テロリストと「闘士」の違いがわかってない中学生はやっぱり「中二病」だったと。いや、この場合は脚本や監督がそうなのか…

と、そういう解釈もありそうです。知らんけど。

 

そんなことを思い出したのは先月、「東アジア反日武装戦線」のメンバーで半世紀近く指名手配されていた、桐島聡容疑者(70)の身柄が確保されたというニュースがあったからです。

 

爆破事件で指名手配され逃亡49年、桐島聡容疑者とみられる男が神奈川県で入院 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

桐島は1970年代、「連続企業爆破事件」などで多くの人々を殺傷した犯罪者。

このたび末期のガンで入院し、「最期は本名で迎えたい」などと話して名乗り出たといいます。

それが1/29に死んだとか。

 

桐島聡容疑者と名乗る人物死亡 連続企業爆破事件の遺族「無念でならない」 | NHK | 事件

 

日本を憎悪し、多くの日本人を爆弾テロで殺し、しかし最後まで日本の世話になって死んだ桐島。

反日左翼のあさましい人生は、やはり「闘士」とは程遠いものでした。

 

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さて。

「反日」と言えば連想される人物が戦国時代にもいました。

ちょっと過去の旅から思い返してみましょう。

 

 

はい、というわけで訪れたのは兵庫県三木市。かつて細川庄と呼ばれた場所です。

 

室町時代、歌道の名流でもあった京の冷泉家は上下二つに分かれ、ここ大雄寺は細川庄に所領のあった下冷泉家の菩提寺とされています。

 

 

 

大雄寺のすぐ近くに、細川館があったとされる場所があります。

築城年代など詳細不明ですが、一応は応仁年間(1467~69)、荒廃した京をのがれて下向した下冷泉家の冷泉政為が拠ったと云われます。

 

下冷泉家はこの地に代々居住して天正6年(1578)、時の当主は為純でしたが、三木の別所長治に攻められて落城。為純と長男・為勝ともに戦死しました。

この下冷泉家に生まれたのがのちの藤原惺窩で、庶子だったため幼少時に京都・相国寺に入れられていたことから生き残っています。

 

 

細川館の遺構は消滅し、跡地には残念ながら説明も一切ありません。

寂れた公園ぽい平地にはただ「藤原惺窩生誕地」として像と石碑が佇んで、脇に惺窩の生い立ちなどを記した案内はありました。地元の奉賛会が建てたもののようです。

 

 

藤原惺窩(せいか)。

戦国時代から江戸初期にかけての儒学者。

上記の通り下冷泉家に生まれた彼は相国寺で禅と朱子学を学び、儒学を通して明や朝鮮への憧れを募らせた結果、冷泉を名乗らず本姓である「藤原」、または中国風に「籐(とう)」を称しています。

 

慶長元年(1596)には明への渡航を試みて失敗。その後、慶長の役(慶長2年:1597~慶長3年:1598)で捕虜として連行された朝鮮の儒者・姜沆(きょうこう:カンハン)と面会した際には、

 

―秀吉奴隷ヨリ崛起シ、諸大臣ヲ攻メ殺シ、自ラ關白ト稱シ…(『看羊録』原文は漢文)

 

豊臣秀吉は奴隷の身から出世して諸大名を攻め殺し、関白などと自称している…

と、秀吉を罵倒したことが、姜沆の著である『看羊録』に記されています。

さらには日本が明・朝鮮に占領されることを望み、

 

―朝鮮若シ能ク唐兵ト共ニ、弔民伐罪セントスレバ、先ズ降倭及ヒ舌人ヲシテ、倭諺ヲ以テ榜ヲ揭ゲ委ヲ知ラシメ…(同上)

 

朝鮮がもし中国の兵とともに日本を攻めるなら、まず「人民を憐れみ支配者を討つ」とプロパガンダを掲げ、日本人捕虜や通訳を使ってその意味を宣伝しつつ進軍すればよい。そうすれば、たちまち白河関(福島県)までも攻め取ることができるだろう…

などと述べています。

 

むろん歴史は惺窩の理想通りにはならず、それは日本にとって幸いでした。

が、彼の自国に対する嫌悪と中国朝鮮に対する憧れは強く、プロパガンダを活用した日本侵略案まで示唆するあたり、生まれ落ちた国と世が異なれば無事では済まなかったかも知れません。

 

ただ、秀吉没後に権力者となった徳川家康が朝鮮との国交回復に意欲的だったこと、惺窩が家康と謁見した際には大言を吐かずおとなしくしていたこと、惺窩の弟子たちが江戸幕府の御用儒学者になったこと、何より惺窩自身が別に大事を成したわけでもない口先の学者であったことが幸いし、元和5年(1619年)、59歳で死去するまで身を保っています。

 

 

 

クローバー訪れたところ

【細川館跡(藤原惺窩生誕地)】兵庫県三木市細川町823