福島正則屋敷と岩松院 「酔った勢いで人生はこわれる」 | 落人の夜話

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福島正則の酒乱と狂態は当時から有名で、エピソードも枚挙にいとまがありません。

 

黒田家臣・母里太兵衛に名槍「日本号」を呑み取られた、などというのは可愛い話。

ある時は帰国途中の船中で泥酔し、命じてもないことを「命じた」と言い張って担当の家臣を切腹させたあと高いびきに爆睡。酔いがさめるとその家臣の名を呼び、自分が切腹させたと聞かされて仰天した、ということがありました。

 

またある時は狩りから帰って口をすすがないまま食事をし、「食事に砂が入っていた」と言って料理人を殺し、その首を短刀に刺してくるくる回して弄ぶようなことは度々。

ある酒宴の最中には、ささいな失態を犯した小姓の髪をつかんで股を刺し、下肢からおびただしく血を流したまま給仕を続けさせたこともありました。

 

そんな正則の狂態に徳川家康が接したのは、関ヶ原の戦い(慶長5年:1600)の直後。

このとき正則は、派遣した使者が通行証を持たず関所を押し通ろうとし、徳川家臣・伊那図書(昭綱)配下の足軽らに阻まれたことに激怒。使者を切腹させてその首を家康方に送り付け、「伊那の首と交換を」と迫りました。

 

正則にはまったく理屈が通じず、まだ不安定な時勢をかんがみた家康は、しぶしぶ伊那を切腹させて事態を収拾しました。

このとき家康が吐いた正則評は以下の通り。

 

―扨々聞及たるより氣違ひにて候…(『福島太夫殿御事』)

 

「聞いてはいたが、噂以上のキチ〇イだ…」

 

その家康は元和2年(1616)6月1日、駿府において死去。

遺言のひとつに福島正則の処分があったと云われます。

 

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歴史遺産を活かした町づくりで有名な信州小布施から、車でだらだら坂道を登り続けて約15分。高山村内、福島正則屋敷に到着しました。

 

場所を示す木の標識が1本。当時のままかどうかわかりませんが、周囲の石垣が屋敷跡の雰囲気を感じさせてはいます。

 

 

 

道路沿いの屋敷跡から裏にまわってみると、そこが高井寺。

ここがかつて福島屋敷であった旨の案内板もみることができます。

 

高井寺(こうせいじ) (kouseiji.com)

 

赤い屋根が印象的な本堂をお参りしていましたら、住職のご母堂でしょうか、年配の女性が堂内に入れて下さり、寺に伝わる絵像を見学させてくれました。

 

 

右手に笏をもち、衣冠束帯姿の福島正則像。

制作年代など不明ながら、見事な保存状態で残っています。

 

 

元和5年(1619)3月、正則は参勤交代のため江戸へ出府。

直後の同年6月、江戸屋敷において改易を申し渡されました。

理由は広島城の無断改修で、安芸広島52万石は信州川中島2万石に減知転封。

当初の転封先は津軽だったようですから、これでも“減刑”されたほうなのでしょう。

 

同年10月、正則は30人ほどの家臣らを引き連れて江戸を出立。

雪深いこの地に入って余生を過ごすこととなりますが、土地の伝えによると領民からもあまり慕われていなかったようです。

 

寛永元年(1624)7月13日。

この場所で死去。享年64歳でした。

 

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高井寺から車で10分ほど、岩松院にやってきました。

ここは福島正則ゆかりの寺で、遺骨が納められた霊廟があります。

 

拝観案内 | 【公式】信州おぶせ梅洞山岩松院 (gansho-in.or.jp)

 

 

墓地の中でひときわ目立つ、堅牢な石段の上に立てられた霊廟。

寺では「おたまや」と呼ばれています。

 

 

正則はなぜ改易されたのか。

そのことを他でもない、2代将軍・徳川秀忠が疑問に思って老中に確認したという逸話が残っています。

 

―福島左衛門太夫事、身上取つぶし候へと家康公上意なりしが、今つらつら考ふるに當家に對し更に不忠なし。然るに身上滅亡仰付らるゝこと、如何ぞや…(『朝野雑載』)

 

秀忠公が老中に「福島正則を改易せよと家康公の上意だが、特に当家に不忠でもない正則の身代を取り潰すのはいかなる理由か」とお尋ねになった。

 

これに本多佐渡守(正信)が答えて曰く、

「仰せの通り、彼は過去に武功もあり、徳川家に二心もないでしょう。しかし武勇伝ばかりで仁心がなく、悪逆無道の多い人物です。たとえば…」

と、彼の悪逆を物語るエピソードを数え上げた。

 

正則は甥にあたる八助(福島正之)をいったん嫡子に定めながら、実子が生まれるとこれを疎んじ、ささいな罪で幽閉して無残にも餓死させてしまった。

また船で安芸広島に初入国のとき、船頭に「この風はなんという風だ」と聞き、船頭が「地あらし、と申す風にございます」と答えると、「初入国の折に地あらしとは何事だ!」と怒ってその場で斬殺した。

将軍家に備後名物の畳を献上したときなど、他の大名が献上した畳より出来が悪いと憤り、畳屋を殿中に呼びつけて平伏させ、衆人環視のなか大槍で突き殺したこともあった。

 

「…このようなことは数知れず、気に入らなければたちまち殺したり殴りつけるのが当たり前で、福島家の家士や領民は地獄の苦しみを味わっているやに聞きます。ですから正則を滅ぼし民を救うことは、天命に叶っていると言えましょう」

 

佐渡守の説明に秀忠公も納得し、正則の運命は極まった。

しかしながら…と『朝野雑載』の筆者は言います。

 

―世の人此趣を知らず、左衛門太夫武勇勝れたるを忌給ひて、無理に亡ぼし給ひしといふは、其實を知らざる故なり…(同上)

 

世の人はこうした事情を知らず、「幕府は正則の武勇を恐れて取り潰したのだ」などと訳知り顔に言い合っている。

 

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「酔った勢いで人生はこわれる」(2019/暴力防止ポスター)

 

日本は酔っ払いに寛容な社会と言われます。

最近は駅係員への暴力などが社会的に注目されるようになり、ずいぶん風向きも変わってきているようですが、しかしほんの一昔前まで確かにこの国は酔っ払いに甘い社会でありました。

 

私と同じく、団塊世代を親に持つ世代にはご記憶の方も多いでしょう。我々が幼い頃は飲酒運転や酔っ払いの暴力沙汰、迷惑行為は今よりもっと身近にありました。

現に私の愚父なども若い時分は同類たちとつるんで反権力ごっこに精を出し、TVが垂れ流すままの社会正義を叫ぶ、ある種典型的な団塊親父でしたが、一方たびたび酔って帰ってねちっこいカラミ酒をかまし、ときに吐瀉物をまき散らし、母の対応が気に入らないと食卓をひっくり返して吠え狂うような醜態も見せておりました。

 

むろん福島正則などとは比ぶべくもありません。

ただあの頃の社会にはまだ、酒の上での乱行は「まあまあ、酔った勢いのことだから…」と大目に見てやるのが大人の度量、みたいな風潮がありましたし、その傾向は時代を遡るほど顕著になるかも知れません。

しかしマトモな思考に立ち戻ってみれば、そんなものは迷惑な酒飲みを増殖させるお花畑でしかなく、結局は当人のためにもなりません。

 

酒乱は当人ばかりでなく、何の罪もない他者の人生をもこわしてしまう。

そのことを、今回は戦国時代に実在した酒乱を例に見てみました。

 

 

 

クローバー訪れたところ

【高井寺】長野県高山村大字高井堀之内196

【岩松院】長野県小布施町雁田615