最近ネットニュースを眺めてたら、ふと目が止まった記事がありました。
武田家・上杉家・真田家の子孫、戦国武将語る…「信玄公は食料確保のため信濃に入った」 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)
信州ゆかりの戦国武将の子孫たちによるトークショーが10月29日、長野県諏訪市で行われたそうです。参加したのは武田信玄や真田昌幸、上杉謙信ら著名な戦国武将の子孫にあたる方々。
その中でちょうど「塩の道」にも関連するお話が出てきてましてね。
旧・上杉子爵家第9代当主の上杉孝久さん(70)は、今川家との同盟の破綻を機に塩が入手できなくなった信玄に対し、上杉謙信が塩を送った逸話などを語った。
(引用上記)
「敵に塩を送る」。いわゆる「義塩」のお話ですね。
有名な話なんでご存じの方も多いと思いますが、一応概略をご紹介しておきます。
時は永禄11年(1568)12月。
甲斐の武田信玄は三国同盟を破棄し、駿河に侵攻を開始。対する今川氏真は相模の北条家と謀って「塩留め」を行なったから、海のない武田の士民は大変困惑した。
これを知った上杉謙信、「戦は弓矢であって米塩にあらず」と義憤を発し、武田に塩を送ると申し出た。
かくて日本海の塩が千国街道を通り、信濃から甲斐へ到達。さすが義将よ越後の龍よと、その心映えを称えぬ者はなかった…
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新潟県糸魚川市の南に位置する根知谷は、急峻な北アルプスを割って出た姫川が、日本海へ抜けるまでに形成する谷地形。
その根知谷の奥に蓋をするように、今回の舞台である根知城があります。
根知城は「塩の道」千国街道を眼下に見下ろし、信越国境の越後側を守る要衝。
逆に信州側からみれば、仁科口から日本海に出るためには必ず突破しなければならない関門で、ここが信越双方から重要視されたのは当然の地勢と言えましょう。
本丸は標高360mほどのところにある根小屋城。ほかに詰城とされる標高525mの上城山城、麓の栗山城が三位一体となった縄張りで、ご覧の通り姫川と根知川を天然の堀とする要害地形に築かれています。
ということで、さっそく登っていきましょうか。
根小屋集落の奥、この登城口が旧大手にあたるようです。
ちなみにここを訪ねるなら晩秋か早春がベストで、それ以外は藪と雪で難儀する模様です。
本丸までは40分ほど登ります。
途中、「練兵場」と呼ばれる曲輪を過ぎたあたりでふと見上げたら…
おっと、特別天然記念物様のご来臨でした。
ニホンカモシカは好奇心旺盛で、山に人が入るとわざわざ見に来る個体もいるとか。
私も山城跡で何度か彼らに出会っています。でも彼らがいるってことは…そう、クマにも要注意ですね(;'∀')
「殿屋敷」はその名の通り、城主クラスの屋敷があった場所と目されています。
樹々にうもれて写真では雰囲気を伝えきれませんが、周辺の切岸は今も角度を保っていて、しっかり普請された痕跡があります。
「ヒノミ」と呼ばれる曲輪跡にて。
尾根上、本丸までこうした平場が大小段々に続きます。
三角屋根の小屋は「地蔵の館」と書かれていますが…お地蔵さんが安置されてるのでしょうか。
本丸手前の堀切。
尾根上の曲輪群はこうした堀切で遮断されています。
その中でもここは比較的規模が大きいようです。
本丸まで登ってきました。
出入り口に虎口跡。南北に細長い平場、奥にこんもり土塁が見えます。
ふぅ…
けっこう登ってきましたねえ。
眼下に姫川と「塩の道」、その向こうに日本海まで見渡せます。
ここからさらに尾根筋を登れば「上城山」と呼ばれる詰城に至ります。
が、長い道のりですし、この景色を得られたので今回はここまでとしましょう。
さて。
根知城の築城年代は不明ながら、享徳2年(1453)に根知谷で長尾実景と守護の軍勢が戦っていますから、その頃には原型があったでしょう。
弘治3年(1557)。
安曇野を制圧した武田勢により信州小谷の平倉城が落城、上杉謙信配下の城将・飯森盛春は討死しました。
あ、正確には上杉謙信は当時「長尾景虎」ですが、よく名乗りが変わるんで以下「謙信」で統一しますね。
ともかく武田はあと根知城さえ抜けば日本海に手が届く位置にまで北上してきたわけで、このとき謙信の危機感は相当なものだったはずです。
永禄8年(1565)。
謙信が根知城主に任じたのは、過去2度にわたり武田晴信(信玄)を破った村上義清。
現在見られる縄張は彼によって築かれたものと云われます。
その後も謙信はたびたび根知の守りを固めるよう指示していますが、たとえば永禄12年(1569)8月。
―従祢知口、信州へ通用之由候、か様之儀をも堅可申付候…(『上杉輝虎書状』)
「根知口から信州へ通行できていると聞くが、どうなっているのか。そんなことのないよう固く申し付けているはずだ…」
謙信さん、わりと激おこです(;・∀・)
どうやら謙信は信州との通行遮断を命じていたのに、根知口では地下人(庶民)がひそかに信州と交易していたようで、ついには「地下人から人質を取って、通行禁止を徹底させよ」とまで厳命しています。
と、ここで冒頭を思い出して頂きたいのですが、この前年末、武田信玄は今川領の駿河に攻め込み、今川は対抗措置として北条と謀り「塩留め」を実施しています。
これをきっかけに北条氏康は謙信に呼びかけ同盟(越相同盟)を結んでいて、つまり上杉謙信は、「義塩」どころか「塩留め」に加担していたのではありますまいか。
やはり謙信の「義塩」伝説は史実とは異なり、むしろ謙信さえも断ち切れなかった「塩の道」のつながりが生んだ物語だったのでしょう。
根小屋集落に降りてきました。
集落内ある安福寺には、村上義清の墓と伝わる小さな墓塔があります。
元亀4年(1573)1月、義清はこの地で没しました。
彼が守り続けた根知城は、しかし天正6年(1578)に始まった御館の乱の後、上杉景勝によって武田家へ割譲されました。
ときに武田家の当主も勝頼に代わっていますが、勝頼は実弟の仁科盛信を根知に派遣して城番を置かせています。
このとき武田家は「塩の道」のみならず日本海から太平洋にまたがる大版図を得たわけですが、その時点で武田家の懸念はもはや海でも塩でもなく、中央に出現していたより巨大な天下人との対峙だったでしょう。
しかし根知城を得たことで、武田家はすでに越中にまで進出し始めていた織田勢の圧力を全面的に受ける形となって、さらに疲弊を重ねることとなります。
根知城はその後、桜井氏、堀氏の持ち城を経て、上杉遺民一揆(慶長5年:1600)の際に廃城となっています。
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根知城を訪ねる途中、県境の長野県側にぜひおすすめしたい温泉があります。
岩壁にどうどうと流れ出ているこの温泉。
姫川温泉です。
なかでも瘡(くさ)の湯は“武田信玄の隠し湯”と云われてましてね。
ここは数ある“信玄の隠し湯”中、たぶん最北じゃないでしょうか。
「瘡」とはできものや腫物など皮膚病のほか、切り傷や刀疵を指す言葉。
その言葉通り切り傷や皮膚病に良いと伝わり、戦国の昔、武田方の兵らが合戦の傷を癒した伝承が由来でしょう。
引用:瘡の湯 - 白馬|ニフティ温泉 (nifty.com)
お湯は透明ですがとても特徴的ないい湯です。
泉質はナトリウム⁻カルシウム⁻塩化物・炭酸水素塩泉。温度も42℃くらいでちょうどよく、キシキシ感が強いカルシウム分を感じさせます。
湯は内湯のみ。でもベランダに出て火照った身体を休めることはできます。
あー、いい湯だった…
地元衆の常連もちらほら入られてたんですが、店番の方は観光客の私も分け隔てなく気さくに対応してくれました。
家庭的な雰囲気の休憩室でゴロゴロしながら窓の外を眺めてたら、JR大糸線の車両が1度だけ、ガタンゴトンと鉄橋を渡っていきました。
「塩の道」かあ…
今日までの旅の物思いが脳内にゆったり去来します。
これが旅情なんでしょうね。
ということで。
4回にわたってお送りしました「塩の道」の戦国。
これにていったんお開きとさせていただきますm(__)m
訪れたところ
【根知城跡】新潟県糸魚川市根小屋
【瘡の湯】長野県小谷村北小谷9922‐2