江戸時代の初めごろ。
おそらくは徳川将軍家3代・家光の治世まだ間もない頃のこと。
ある時、年老いた武士がふと人に語りはじめたそうです。
―吾一生為主計頭清正公所瞞過矣…(『皇朝言行録』より)
「思えば私の一生は、加藤清正公に騙されっぱなしだった…」
老武士の名は飯田覚兵衛(直景)。
若い頃から加藤清正に仕え、賤ヶ岳合戦(天正11年:1583)や朝鮮出兵(天正20年:1592~慶長3年:1598)など数々の戦役に従軍。武功ばかりでなく築城術にも才覚をあらわし、森本儀太夫、庄林隼人と並ぶ「加藤家の三傑」と称された名高い侍大将でした。
その覚兵衛の晩年。
述懐は続きます。
―吾之従軍、冒矢砲、踰屍而進者数矣、及軍既罷、顧見同儕死亡相枕…(同上)
戦場では矢玉をかいくぐり、死体を踏み越えて進むような苦しい場面が何度もあった。
それで、やっと戦が終わってあたりを見回すと、同じ釜の飯を食ってきた戦友たちが枕を並べて死んでいるのだ。そんな時はもう何もかも嫌になって、今日こそ武士をやめさせてもらおうと、何度も思ったものだ。
―賞賜随及焉、曰今日之捷、因汝之功…(同上)
しかし論功行賞のとき御前に出ると、清正公はこう言ってほめてくださる。
「今日はお前のおかげで勝つことができた」と。
そのようにされると、私はつい「武士をやめたい」という言葉を言い出すことができず、いつしか侍大将の身分にまで取り立てられていた。
そうなると部下への責任もあり、むざむざと逃げ出すこともできなくなってしまった。
―是非為其所瞞過耶…(同上)
そうして今に至った。
まことに私は一生、清正公に騙されてきたと言うほかありませぬ…
そう言って覚兵衛は…さて、どのような表情をみせたのか。
それはわかりません。
この逸話はここで終わりだからです。
ただ私の想像では、このあと覚兵衛は滲み出る涙を人に悟られまいと、顔を背けて押し黙ってしまったような気がします。
彼が長年仕えた主・加藤清正は慶長16年(1611)、彼に先だって50歳で死去。
2代・忠廣に引き継がれた肥後加藤家は寛永9年(1632)5月に改易となり、覚兵衛も禄を失います。
すでに隠居していたであろう覚兵衛は京へ上り、自らが創建した正運寺に入って出家の身となりました。
おそらく冒頭の逸話もその頃のものでありましょうか。
もちろん彼は、清正という旧主に対するあふれんばかりの尊敬や追慕の念を込めて、こんな風に人に語ったのでしょう。
**********
コロナ禍のせいもあってか、最近はよく本や資料を読みます。
今回ご紹介した逸話もその中で印象的だったものなんですが、先日、ちょっと思い立って京都・正運寺を訪ねてみました。
なにぶんのご時世ですから、人との接触はできるだけ抑えて車移動です。
正運寺の正門。
ここは慶長5年(1600)、飯田覚兵衛が戦場であやめた人々や敵味方の供養のため創建し、浄土宗の僧(深誉上人)を招じて開山した寺といいます。
晩年の覚兵衛はここに住み、妻とならんで葬られた墓があるとのこと。
ちなみに、ここに祀られる十一面観音像は運慶作だそうですが、今まで一度も公開されたことがない秘仏として知られています。
小雨の降る休日。
私は寺のすぐ隣にある駐車場に車を停めさせてもらいましたが、阪急四条大宮駅から歩いても5分ほどの距離です。
正門は柵があって入れませんが、勝手口に設けられたインターホンを押して寺の方に用向きを話すと、中にいれて下さいました。
誰もいない境内はよく清掃されていて、きれいな円形に剪定されたつつじが見事に咲いています。
本堂の脇から奥に入ると墓地になっていて、そこに覚兵衛の墓があるようです。
ありました。
上の写真で3基ならんだ古い墓塔のうち、一番奥(左側)が覚兵衛、その隣(真ん中)が彼の妻。
一番手前は…誰のものなんでしょう。聞き損ねてしまいました。
加藤家改易からおよそ4ヶ月後の寛永9年9月。
京に上ってきたその年のうちに、彼はここで没しました。享年70歳。
騙され覚兵衛の一生には、年老いた彼が思い出したくもない惨禍とともに、喜びも苦しみも共にした戦友たちとの日々、そして今は亡き主・加藤清正に対する言葉にできないほどの憧憬がありました。
それは彼にとって織りなす感情や記憶を抑えがたい、不滅の物語ともなっていたはずです。
彼は自身が嫌になるほど戦乱の時代に生まれましたが、彼は生き残り、波乱の中にも穏やかな死に場所を得ました。
そして何より、よき上司との出会いに恵まれました。
これは今も昔も変わりなく、まことに得難い幸運でありましょう。
彼をどこかうらやましく感じてしまうのは、かく言う私ばかりではないように思うのですが…どうでしょうか(^^;
なお、彼の息子・直国は加藤家のあと熊本に入った細川家に仕え、直系の子孫には維新後の国家設計に携わった大政治家・井上毅を輩出しています。
**********
蛇足ながら、正運寺にはもう一人、歴史上の人物の墓があります。
幕末の東町奉行所与力格同心・森孫六です。
文久2年(1862)9月23日の夜。
近江国(滋賀県)石部宿で4人の役人が殺されました。
そのうちの一人がこの森孫六。
安政の大獄(安政5~6年:1858~59)で攘夷派の志士らの捕縛に力を注いだ森らは、それゆえ志士たちに強く恨まれてもいました。
情勢の変化をみた江戸幕府は4人を江戸へ召喚しますが、その道すがら宿泊した石部宿で、追ってきた志士らに討たれたわけです。
下手人は長州の久坂玄瑞、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵ら。
切り離された首は他の3人とともに京の粟田口に晒されています。
森ら4人は奉行所の役人として当然の業務を遂行し、それによって命を落としたことになります。
だけでなく彼ら4人のはたらきは、あらたに赴任してきた東町奉行・永井尚志に疎まれたばかりか、「奸邪之者」とさえ指弾されていました。
彼らになにか不正の行いがあったという訳でもなさそうで、おそらくは派閥的に異なる(4人は井伊直弼派と目されていた)彼らに対する警戒感・嫌悪感でありましょうか。
上司に恵まれなかった森孫六の墓碑には、その無念を思いやってのことでしょう、「散忠義之居士」と刻まれています。
訪れたところ
【正運寺】京都府京都市中京区因幡町112