明智長山城 岐路に立つ城跡 | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

先週、10/22に可児市で開催された城めぐりイベント「山城に行こう!2017」へ参加してきました。

 
このイベントは私も参加しているGPS位置ゲーム「発見ニッポン城めぐり」もコラボしてましてね、前夜のオフ会は遠く九州から馳せ参じた方もおられ、大変盛り上がっていました。
面白い余興までご用意くださった幹事の方々には感謝しかなく、このブログをご覧下さるかはわかりませんけども、この場で改めてお礼申し上げる次第です。

 

 

翌日のイベント当日は、予想通りの雨。しかも予報ではこの夜、超大型台風が接近…ということで、さてどれだけ人が来るだろうと思っていたら、めちゃめちゃ来てましてね。
我々は開場早々の10:00ごろには会場(可児市文化創造センター)に到着したんですが、わが「発見ニッポン城めぐり」のブースがまた長蛇の列。みんなゲーム内で使える異名がもらえるガラポン大会や、オリジナルグッズ販売などを目当てに…ええ、まあ私もその一人だった訳ですが (^^;

 

 

 

面白い屋台もたくさん出てました。

明智の裏切りご麺」を買うつもりが、つい「セクシーおむそばめ」に手を付けてしまったのはたぶん、悲しい男のサガでありましょう。

 

玉子の裾をめくるとハムのハート❤️ 、なんて演出も。

ちょっとギザギザハートなところがまた男心をそそる…か?(--;)

 

とまあ、いろいろ楽しいイベントでした(^^)

 

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さて。この日の早朝、私はここへ来る前に、同じホテルに泊まった同士の方々と城跡をひとつ巡っています。
 
とは言え台風の予報でしたから、実際行くかどうかは当日の様子を見て相談…ということだったんですが、雨は降っていても風がないのを幸いとして決行に。
城友のねんさいさんが用意してくれた資料に目を通しながら、結果的に同士の方々と楽しい城トークと城跡歩きができました。
ねんさいさん、三河のルークさん、それに武蔵の謙さんも、その節はお世話になりました(^^)
 
行き先はホテルから車で10分ほど、明智長山城跡です。
 
 
かつての明智荘長山に在ったという明智(長山)城は、康永元年(1342)、土岐氏の流れをくむ明智頼兼が築いたとされています。
その後、明智氏代々の居城となっていたものが弘治2年(1556)、斎藤道三の子・義龍に攻められて落城。この時、当主ながら叔父の後見を受けていた若き明智光秀は城を脱出し、各地を流浪のはてに織田信長の重臣となる…
 
といった話が『明智軍記』や『美濃国諸旧記』などに書かれていて、ときどき時代小説のネタにも採用されているようです。
が、これらはいずれも史料的価値に乏しい江戸期の軍記物。謎多き明智光秀の前半世を語る根拠としては、かなり苦しいものがあります。
 
ちなみに落城時の光秀の年齢は、享年55歳とした場合は29歳。近年有力な享年67歳説に従うと41歳(!)
父に死なれた後ずっと叔父さんの厄介で、アラサーだかアラフォーになってもニート継続中だったオッサン光秀って…(*_*;
私的には小説よりギャグ漫画のネタにしかならない気がするんですが、どうでしょうか。
 
 
 
明智長山城が本当に城跡といえるかどうか。
実はそんな基本的な疑問が、この場所には投げかけられています。
 
可児市が市史を編纂するにあたって著名な城郭研究者(中井均氏)に調査を依頼したところ、城跡と認めがたいという調査結果が出たらしい…
泥を避けながら歩いた明智長山城跡で、前を行くねんさいさんからそんな話を聞いて興味を持った私は、帰宅後にさっそく調べてみました。
 
人文地理学者・大平晃久氏の論文(2005年『創出されたヘリティジ』)によると、明智長山城跡が地元の郷土史家グループによって「発見」されたのは1972年のこと。
翌年には早くも町史跡に指定されていますが、本格的な整備が行われるようになったのは1983年以降。その後、石碑や「大手門」とされる冠木門、曲輪の外縁に「馬防柵」、それに落城時の戦死者を葬ったという「七つ塚」などが次々と整備されています。
 
ただ、平成8年(1996)に実施された「岐阜県中世城館跡総合調査」では「城郭遺構を見出すことは困難」と評価され 、明智光秀との関わりも「近時多分に創造された点の多い」とされています。
さらに平成17年(2005)刊行の可児市史では、遺構と云われるもののほとんどが「自然地形」で「城郭遺構は認められない」、「曲輪の名称も創作であり、何ら根拠のないもの」という調査報告が紹介される一方、宅地開発などによる地形改変等をあげて「不明な点が多い」と苦しい弁護も見せています。
 
 
 
左上は「本丸」跡。右上は「西出丸」跡。
 
実際に歩いてみると、確かにここはちょっと不思議な城跡ではあります。
「本丸」も「二ノ丸」も「西出丸」も削平の跡は見えにくく、上記の調査報告の通り斜面や起伏、露出した岩盤などを残した自然地形とも思え、他の多くの城跡で見ることができる「敵を防ぐ」ための執念や工夫を感じとることが困難です。
 
 
 
こちら左上は「馬防柵」、右上は「七つ塚」。
崖上の曲輪外縁にめぐらせた柵を、長篠の合戦(天正3年:1575)で有名な「馬防柵」と説明するのは不正確でしょう。また、「七つ塚」は古墳群ではないかとする所見がまったく無視されているなど、史跡としては考証的な難点があることも否めません。
 
 
 
「本丸」のある台地上に設置された展望台からは、眼下に瀬田集落を、向こうに金山城跡をも望むことができました。
ここからの風景が、この場所で最も城跡らしく感じられる部分かも知れません。
 
上の写真で左手にあたる西側、「西大手」とされる尾根からは「六親眷属幽魂塔」と刻まれた石碑が見つかっているようですが、この日は雨と泥のなか強行軍だったこともあり、残念ながら訪れることはできませんでした。
 
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ヘリティジ(heritage)は遺産、もしくは伝承すべきもの、と訳されます。
大平晃久氏は上記の論文で、明智長山城の「発見」とそれに続く整備事業について、「ヘリティジの新たな創出という側面を強く有する」と看破しています。
 
1972年は昭和47年。翌年のNHK大河ドラマに司馬遼太郎原作の『国盗り物語』を控えたこの年、明智長山城は「発見」され、それはドラマでメインキャラの一人となる明智光秀との関連を強く意識させるものになったでしょう。
「明智氏歴代之墓所」や「日本最大の光秀の位牌」を擁する瀬田地区の天龍寺が、明智氏との所縁を伝えはじめるのがこの後である点も見逃せません。
 
「発見」から45年。明智長山城跡は今後どのような指針をもって処遇されるべきか、岐路に立っている城跡と言えそうです。

 

 

 

クローバー訪れたところ

【可児市文化創造センター】岐阜県可児市下恵土3433-139(http://www.kpac.or.jp/

【明智長山城跡】岐阜県可児市羽生ヶ丘5丁目

 

※参考HP

【可児市HP(観光交流課 戦国城跡巡り事業)】http://www.city.kani.lg.jp/13779.htm