鶴岡八幡宮 「越山」と下馬騒動 | 落人の夜話

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鎌倉の由比ヶ浜から鶴岡八幡宮まで一直線にのびる若宮大路をのぼってゆくと、途中に「下馬」という交差点があります。

格調高い文字を刻んだ石碑には説明文も添えられていますが、鎌倉に幕府があった時代、ここから先は馬に乗ったまま進むことが許されなかったのが地名の由来。
現在は金属製の馬がビュンビュン通り過ぎている界隈ですが、かつてはここを横切る人もいったん馬を下りたそうです。

この場所では戦国時代の永禄年間にも、「下馬」にまつわるエピソードがあります。


永禄3年(1560)8月。
桶狭間の合戦織田信長が武名を轟かせたこの年、越後では守護代・長尾景虎が三国峠を越え、関東平野に攻め込みました。
この後14年間にもわたって繰り返されることになる越後勢の関東侵攻、「越山」の始まりです。

掲げた大義名分は、北条氏康に追われていた関東管領・上杉憲政の復権。
その効果もあって、当初8千ほどだった長尾勢は行く先々の諸豪族を吸収。雪だるま式に膨らんだ軍勢は、翌年閏3月、小田原に至った頃には10万を数えたとも云います。

野戦では勝てないとみた北条氏康は、本拠・小田原城に籠城して対抗。
天下の堅城ぶりをみた景虎は早々に攻略をあきらめ、10日ほど包囲したのみで後退しますが、その帰途、鶴岡八幡宮で「関東管領就任式」ともいうべき盛大なセレモニーを催しています。

ここで景虎は、上杉憲政より山内上杉家の家督と関東管領職を譲られ、上杉政虎と改名。関東管領の継承と秩序回復を号令しました。
のち改名を重ねて上杉謙信となるこの人が、“軍神”の異名にふさわしい権威と名分を得た瞬間だったでしょう。
事件はこのとき発生しました。

景虎(紛らわしいので以降「謙信」)の行列が参道を進むなか、服属していた関東諸将は道の両側に並んで礼をとったそうです。が、その中に一人だけ馬上のまま行列を眺める人がありました。
武蔵七党に数えられる成田家の当主・成田長泰です。

-成田が家には、昔伊豫入道頼義、八幡太郎義家より以後、家例ありて、大将と一度に下馬して、至つて禮法の事なり…(『異本小田原記』より)

むかし源頼義が鎮守府将軍に任じられて奥州下向の折…といいますから、永承6年(1051)頃でしょう。長泰の先祖にあたる助隆は頼義の叔父にあたったことから、挨拶する際、同時に下馬の礼をとったそうです。
以来、成田家のみはこの格式が認められているはずで、そのことを謙信も知っていると思っていた…というのが、『異本小田原記』が伝える成田長泰の言い分。
ただこの言い分は、新たな関東管領には全く通用しませんでした。

-桛者に申付て、成田を散々惡口し、馬より引落し、砂土につくばせけり…(同上)

無礼とみた謙信は激怒し、付き従う「桛者(かせもの)」つまり身分の低い雑兵に命じて長泰を罵らせたうえ、馬から引き落として路上に這いつくばらせたそうです。
さらに、

-烏帽子打落して、土付けなどして、散々面目を失ひけれども、景虎入道大強剛の大将にて、少も立逢ふならば、其場にて討果すべき模様なれば…(同上)

長泰が被っていた烏帽子を打ち落とし、それを足で踏みにじって散々恥をかかせたとあります。

「歯向かえば殺される…」
そう感じた長泰はなすがままで抵抗せず、おそらくは恐怖に体を固くしたまま、彼にとって暴風のようなその人が過ぎ去るのをひたすら待ったのだそうです。

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一の鳥居からニの鳥居までのぼってくると、ここから「段葛」がはじまります。

頼朝の時代、このあたりは雨が降ると泥の海のようになったそうです。
車道から一段上がった「段葛」は 、そんな雨上がりでも参拝できるよう、源頼朝が妻・政子の安産を祈願して築いた参道と伝わります。
八幡宮に向かって少しづつ道幅が狭くなるのも昔からの遠近法トリック。神奈川県の史跡にも指定されています。


  
大石段までやってきました。
61段あるこの石段を登り、楼門をくぐると本宮です。

石段脇にあった大銀杏は樹齢約千年といわれた老木で、建保7年(1219)1月、ここで鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺された折、暗殺者の公暁が隠れていた「隠れ銀杏」とも呼ばれていました。
当時の樹齢を考慮すると人が隠れるほど大きくなかったのでは…という疑問もありますが、少なくとも暗殺の現場を見た生き証人ではあったでしょう。

しかし、平成22年3月10日の台風で倒伏。
再生を願う人々の声によって元の場所に根を残し、幹のみ少し西側に移植されています。
残された根からは早くも若木が伸びだしていました。


 
石段を登りきった所から、鎌倉の町を振り返ってみました。


永禄4年(1561)閏3月。
この場所で華々しい関東管領デビューを果たした謙信も、参拝ののち、晴れ晴れとこの風景をみたことでしょう。
その頃にはもう、参道で散々に打ち据えた成田長泰のことなど忘れていたでしょうか。

謙信はこの日、京の将軍家から特に許可された「塗輿」に乗っていたそうですから、だとすれば、『異本小田原記』で長泰の云う「大将と同時に下馬」の理屈は苦しいでしょう。
さらに、もし長泰が鶴岡八幡宮の「下馬」の境を越えていたなら、謙信の目にはマナーの悪い尊大な輩と見えたに違いなく、謙信にすればよくある“正義のワンシーン”だったかも知れません。

が、同じころ長泰は、恐怖と屈辱にまみれたまま、打ち落とされた烏帽子を前に体を震わせていたかも知れません。
たとえ己に非があったとしても、謙信のやり方はあまりに無神経で、味方に参じた自分の人格を踏みにじるものと映ったでしょう。

また、長泰は謙信に領土上の脅威を感じていたとする説もあります。
実際この4か月前の永禄3年12月、謙信は服属してきていた厩橋城主・長野彦太郎を陣中で殺害しています。理由は「馬が暴れて謀叛と間違えた」という何とも胡散臭いもので、その結果、厩橋城は謙信に取り上げられています。
そうした視点もふまえて見ると、長泰の目に映る謙信の“正義”は偽善と独善に満ち、思わぬ反抗心が頭をもたげてしまったのかも知れません。

いずれにせよ。
長泰はその夜のうちに陣を引き払い、自領の武蔵・忍(おし)に帰ってしまいました。
これを見た関東諸将は、「成田のような大身の領主さえあの様子なら、わが身などどう扱われるか…」とドン引き。
もともと烏合の衆だった大軍は脱落者が続出し、謙信は溶けてゆく雪だるまを転がすように撤収しました。

謙信の第一次越山は、鶴岡八幡宮での華やかなセレモニーをピークに終息しました。

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さて。
鶴岡八幡宮に参詣したら、段葛の脇に否が応でも目にはいるのがここ、豊島屋本店

八幡宮の使いである鳩をかたどった看板商品「鳩サブレー」は、鎌倉土産のド定番ですから、もはや私の下手な説明は不要でしょう。


 
なので今回は、あえてちょっとずらしまして…
鳩サブレーマグネットです。

家で使おうと思って買ってきたのに、今だにバラしてませんね。
そうです。もったいないからです( ̄- ̄)

最近は老舗もいろいろ考えますね。
私も最近こんなのがかわいく思えて仕方ないんですが、歳を重ねて何かとユルくなってきたんでしょうか。。

そういえば、関東管領就任式のとき謙信は…31歳。
うわ、こりゃまたギラギラした年頃ですねえ。

謙信の「越山」はその後10数回におよび、関東平野をめぐって北条家と激しいシーソーゲームを展開することになります。
彼は死の直前まで関東出兵を意図した陣触れを出していますが、その死によって“最後の越山”は未遂に終わります。
関東に向けた彼の情熱は、晩年に至るまでユルまなかったようです。



クローバー訪れたところ
【鶴岡八幡宮】神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1-31
【下馬の石碑】鎌倉市由比ガ浜2丁目1-20
【豊島屋本店】鎌倉市小町2-11-19
 http://www.hato.co.jp/