別願寺と報国寺 足利持氏の執着 | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

私は城跡紀行なんて趣味をもっているせいで、歩き回るうちに供養塔や墓碑に出会うこともよくあります。

中には草に埋もれた墓石とか、薄暗い樹海に朽ちる石塔とか、あまり薄気味のよろしくない部類に遭遇することもあるわけですが、幸いにも私には霊感がないようで、 ヤバいものが見えたことはありません。
それよりもそこに手を合わせ、祀られた人々に思いを致す時間は、私にとって旅の充足感を心静かに味わう時でもあります。

が、先月鎌倉で立ち寄った別願寺にある供養塔は、なんと言いますか、ちょっとインパクトがありすぎて肌の粟立つ思いでした。


 
墓地の中でもひときわ目立つ石塔。
中身の詰まった樽のような円筒形の塔身は、小さな子供なら納まってしまいそうなほどの大きさです。

異様なのは四方を囲むように浮き彫りにされた鳥居。祀られた霊が決して外に出ないよう施された結界でしょう。
ここに封印されている…としか言いようがないのは、足利持氏
永享の乱(永享10年:1438)に敗れて自害した、第4代鎌倉公方です。

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戦国時代のはじまりをどこに置くかについては諸説あります。
「ひとよむなしい(1467年)」で有名な応仁の乱、それに明応の政変(1493年)をもって始まりとする説あたりが有力ですが、これらはいずれも畿内に起こった事件。
もっと早い時期から慢性的な戦乱状態が続いていた関東地方においては、永享の乱あたりがすでにエポックメイキングだったかも知れません。

正長2年(1429)9月。
後花園天皇の践祚によって、元号が「永享」と改元。しかし鎌倉公方の座にあった足利持氏は従わず、しばらく「正長」を使い続けます。
理由は京の本家・足利将軍家への反抗でした。

足利家における本家・将軍家と、関東の出先機関である鎌倉公方家との対立は、すでに鎌倉公方第2代・氏満の頃よりみられます。
両家の骨肉の争いは代を重ねるごとに激化し、持氏の鎌倉公方在任期にはピークを迎えました。
京の将軍は第6代・足利義教。のちに「万人恐怖」と記されたほど苛烈な性格で有名ですが、持氏はこの義教がもともと僧籍にあったことから「還俗将軍」と呼んで侮り、就任祝いの使者も送らなかったそうです。

さらに本来は将軍家に任命権のある鎌倉五山の住職を勝手に変更したり、将軍家寄りの武士を迫害したりと反抗を続ける持氏を、将軍・義教は何度も討伐しようとします。鎌倉公方の執事たる関東管領・上杉憲実は、そんな持氏をその都度なだめたり諌めたりして和睦させ、なんとか決定的な事態だけは回避させていました。

が、永享6年(1434)3月18日。
この日、持氏は鶴岡八幡宮に願文を納めています。

 
<足利持氏血書願文(鶴岡八幡宮HPより)>

―大勝金剛尊等身建立之意趣者、爲武運長久子孫繁栄…

大勝金剛尊の等身像建立の意趣は、武運長久、子孫繁栄のため…
にはじまる願文は、目にも鮮烈な朱文字。そして続く文言に、この願文の本当の意趣が記されています。

―殊者爲攘咒詛怨敵於未兆、荷關東重任於億年…

殊には呪詛怨敵を未兆に於いて攘(はら)い、関東の重任を億年に担う…
これは呪詛の願文です。
「怨敵」とはもちろん京の将軍・義教のことでしょう。持氏は朱におのれの血をまぜて文字を書いたそうで、何とも尋常でない禍々しさです。

そして、永享10年(1438)6月。
持氏は嫡男・吉王丸のために盛大な元服式を催し、「義久」と名乗らせました。
鎌倉公方は代々、京の将軍家から一字を拝領する習わしになっており、持氏自身も4代将軍・義持から一字拝領した名乗りでしたが華麗に無視。
しかも「義」の字を頭に冠する名乗りは将軍家以外に許されておらず、血書願文に続くこの暴挙は、もはや将軍家にとって許しがたい一線を越えたことあきらかでした。

「もう庇いきれない…」
ここにおいて上杉憲実もさじを投げ、鎌倉を引き上げて領国の上州平井(群馬県)に帰ってしまいましたが、持氏はそんな憲実をも憎み、軍を率いて討伐を図りました。
ここにみる関東管領・上杉憲実の立場は、例えば後の大坂の陣(慶長19年:1614)にあたって大坂城を追われた豊臣家家老・片桐且元と似ています。

将軍・義教はこの機会を逃さず、配下の諸将に憲実救援を指示。これを開戦のきっかけとし、さらに朝廷に奏請して持氏討伐の綸旨も賜ります。
足利持氏は「朝敵」となりました。

永享10年9月。
足柄山を越えた幕府勢は、箱根を守る鎌倉公方勢を撃破。
このとき上杉憲実討伐のため鎌倉を出陣していた持氏は、先鋒の一色直兼が憲実の返り討ちに遭って敗れたのをみると、鎌倉に引き返そうとします。が、鎌倉の留守を任せていた三浦時高が寝返って幕府方を引き入れ、あっさり本拠地も失う…とまあ、全くいいところなく敗北。
持氏は上杉憲実の家臣に伴われて鎌倉に入ると、一色直兼らに罪をかぶせ、自らは出家することで助命を望みました。

主に見捨てられた直兼らが一門ことごとく討死した後、上杉憲実は持氏の助命を幕府に嘆願します。が、京の将軍家は、

―年来の無道重畳せり。奢侈梟惡誡めざるに於ては、後日の禍となり…(『永享記』より)

今まで横暴な行いが多すぎる…と、これを却下。

翌永享11年(1439)2月10日。
居所の永安寺を討手に囲まれた持氏は、弟の持貞とともに自害。
28日には報国寺に軟禁されていた嫡男・義久も追討され、自害しています。

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竹の寺」で有名な鎌倉・報国寺の山号は、「功臣山」。
境内には鎌倉幕府滅亡の際に戦死した武士たちの墓石があつめられているほか、裏山には足利義久らが自害した「やぐら」と呼ばれる横穴が点在しています。

討手を受けた時、義久はわずか10歳だったそうですが、

―佛前に焼香なされ、念佛十返唱へさせ給ひ、御守刀を引抜き、左の脇に突立て引廻し、俯に伏し給ふ…(同上)

仏前に焼香し、念仏を唱えたあと見事に自害した、とあります。

『永享記』は乱の顛末を書いた比較的良質な史料とされていて、他にも持氏方だった武士たちが立派に戦って最期を遂げた模様を詳細に記した箇所がいくつもあります。
が、肝心の持氏の最期については、近臣たちが散々戦って立派に討死する様子を名前入りで詳述したあと「其間に公方持氏御舎弟満貞御自害」、つまり兄弟ともその間に自害した、としか書いていません。
武士として最後の見せ場、しかも乱の責任者たる鎌倉公方の最期であるにも関わらず、もはやピンで扱ってさえいません。
何でしょう、この消化不良な違和感は。

これは私の想像ですが、思うに持氏は、最後まで生への執着を捨てきれなかったのではないでしょうか。
討手に火矢を射ち込まれ、近臣たちが自害の時間を稼ぐため死んでゆく中でも死にたくないと騒ぎ、武士らしからぬ見苦しさをみせて、最後はまるで押し殺されるように…

それはかつて将軍を「還俗将軍」と侮り、あろうことか血書の呪詛まで行い、あらゆるシーンで反抗し続けた彼の傲岸ぶりとはまったく対照的なものではありますが、手駒として働いた家臣たちに責任を負わせ、生きのびるために出家もした彼の終末期を思うとき、なかなか生々しい映像として私の脳裏には浮かんできます。

自分が死んだことを気づかない、あるいは認めない者が、この世に魂魄となって形をあらわす。世にはそんな種類の怪談があります。
つまり、そういうことではなかったか…という想像は、別願寺の供養塔を囲むあの結界を思い出すたび、さらに説得力をもって迫ってくるのです。


 
鎌倉公方邸跡は今はただの住宅地になっていて、この石碑だけがその名残を示しています。

鶴岡の八幡神は持氏の呪詛を受け入れず、かえってその身に禍を担わしめました。
そう思うと、将軍・義教があえて朝廷に奏請し、持氏を「朝敵」としたのには、もしかすると“呪詛返し”の意味合いもあったかも知れません。

鎌倉公方の断絶と、関東に戦国を呼び込んだ永享の乱。
首魁同士の“見えない精神戦”を感じるとき、なお戦慄する思いです。

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さて。
今回は少々おどろおどろしい話になってしまいましたので、ここで気分を変えまして。


 
報国寺の門を出てバス停のすぐ近くに、何だかおいしそうなパン屋さんを見つけました。
よねこベーカリー」さんです。


 
こちらは名物「ちくわパン」。
変わってるでしょう?^^
縦半分に切ったちくわが入ってるんです。
いい匂いともちっとした食感。シンプルだけどおいしいです。

こちらのパンには米粉をふんだんに使っているそうです。
あ、だから「よねこ」なのかな。

鎌倉を歩いていると、時々こんな感じの小さなカフェやパン屋なんかを見かけます。
そぞろ歩きも楽しい鎌倉。
せまいようですが、たくさんの見所があって飽きない場所です^^



 訪れたところ
【別願寺】神奈川県鎌倉市大町1-11-4
【足利公方邸跡】鎌倉市浄明寺4-3
【報国寺】鎌倉市浄明寺2-7-4
【よねこベーカリー】鎌倉市浄明寺2-5-3

※参考HP
【鶴岡八幡宮(宝物)】https://www.hachimangu.or.jp/about/precious/c02_08.html