あの日の事。13日 14日 | 日々の徒然

日々の徒然

比較的自由人です。

13日。日曜日。

細かい事は覚えて居ないけど、
とりあえず、この原発も分からない状況で家族を残して長野に帰りたくなくて
当時の会社のリーダーの携帯に月曜日お休みを貰えないか相談して2日の休みを貰えた。

確か双葉町に実家の有る子が親と連絡が取れないと言っていて、双葉町民が避難してる避難所とかを調べたり、郡山の給油情報を探してた気がする。


各地で自主避難要請が出されたり避難命令が出てる中、
郡山でも、放射能がどれくらい飛散してるかも分からないから
お願いだから仕事を休んで欲しいといくら母に頼んでも、もっと大変な人もいる中自分だけ休めないと言う母。

休んで欲しくて仕方なかった。



月曜日。

母は普通に仕事に行った。
イザと言う時のガソリンを温存する為自転車で。

心配で堪らなかった。


望まない事も、恐らく嫌がるであろう事も知っていながら母の会社に電話した。

安全が確認に出来るまででも、皆さんをお休みにしたりはできないのでしょうか?
言いながら泣いてしまった。

帰ってきた答えは、

「避難の指示が出るまでは本当に申し訳無いけれどお休みには出来ない。
指示が出たら必ず直ぐに、休むように皆に伝えるから」

だった。

寄り添う様な優しい声だった。

けど、多分、福島市や郡山市という、人口の多い市を抱える中通りは避難指示は出ないだろうなって思った。
だから風向きも放送してくれないんだろう。
測ってない訳が無いんだから。


日中、家に居る友達に物資を届けに行った。

2件目のお家で、確か記者会見か何かが始まるじかんだったのかな?
お家に上がらせてもらって見た気がする。
でも記憶に残ってるのは3号機の爆発映像だった。

3号機は確か、プルサーマル計画で知ったモック燃料とやらが使われてる建物だった。

その後夕方になり、別の友達の家を2件ほど回った。
お家に入れてくれた子もついてきてくれた。

大事な大事な学生時代からの友人達。

私は何にもしてあげれない。
みんなを残して帰らなきゃ行けない。

私は、放射能を浴びて、みんな死んじゃうんじゃないかって思ってた。
(よっぽど近くで食らわない限り「直ちに影響は無い」のに)

何より、家族を残して帰るくらいだったら、このまま仕事もやめて福島に残って、
一緒に死にたかった。
一緒に苦しさを共有したかった。


夜、長野に帰りたく無いと泣きじゃくる私に、母は帰れと言った。
お父さんとお母さんは大丈夫だから。
危なくなったらちゃんと避難するから。

子供みたいに泣きじゃくる私に
おねがいだから長野に帰ってくれと言った。