日々の徒然

日々の徒然

比較的自由人です。

Amebaでブログを始めよう!
6時にタンカーが来るらしいガソリンスタンドに着いた。
何台くらい待ってたんだろう。
恐らく0時を超える前だったにも関わらず、多分1キロ以上に渡って車が並んでいた。
 

あの時。不安か安堵か。

どんな気持ちだったかはあんまり覚えてない。

けど、車を停車させて外に出た時の夜の色と空気。

倒したシートに包まれた感覚だけなんか凄く覚えてる。

あと、ポリタンクでもガソリンは入れて貰えるのか、深夜1時の電話にも関わらず、早起きしなきゃいけないのに嫌な声1つさせず電話に出てくれたスタンド勤務の友人の事。笑
(本当にありがとう)


白白と夜が明ける頃、タンカーが来た。
私が給油を終えれたのは丁度6時頃だった。

教えて貰ったホームセンターでは給油缶は売り切れていた。


ガソリンを手に入れれなかった場合の事も考えて、日光で探す事に決めて日光に向かった。


途中、双葉町に実家の有るナナちゃんが、私が日光に向かってる事を聞いて電話をくれて、日光のどこら辺にお店が有るかなんかを教えてくれた。

当時旅館で働いていたその子は、旅館から使ってない布団などを貰い、お母さんの居る避難所に向かうと言っていた。

「無理しないでね。気をつけてね」と言う私に、

「無理でも、頑張る。今無理しないでいつするの」

と笑いながら言った。


当時付き合ってた大ちゃんから電話が来た。
「50人くらいなら受け入れてくれる所見つけたから!」



ここに来るまで、ずーっとずーーっと不安に押しつぶされそうだった。

原発はどうなるんだろう。
もしガソリンが手に入らなかったら?
日光ならまだ福島に戻れる。


でも、不思議と
日光に杉並木が有るのですが、ソコを通った時。

「多分大丈夫」
「ガソリンが手に入らなかったら長野に戻ろう」

フっと心が軽くなった。

2人との会話もきっと大きかったんだろうと今は思う。


日光で携行缶を探したけど見つからなかった私は、すんなり長野に帰る事にした。



長野に入れば給油出来るだろうけど、確証が無かった私は上田に住む友達に、「給油出来なかったら泊めて」
と数年ぶりに電話した。

軽い雑談や、ここまでの出来事なんかを話すと、

「あまりに惨い現実に、凄く落ち込んじゃって。
凄く不安だったんだけど、気丈に頑張ってる人達の話を聞いて、俺も落ち込んでる場合じゃないってやる気でた」
って言ってくれた。


この一連の旅の中で、原発で不安になって沢山泣いたけれど、
それ以外に感じた感情は、家族や友達。
関わった人達。
そして、日本中、世界中から届けられる愛でした。

家までの帰り道、不安も消し去った私は、ただひたすら感謝と言う気持ちだけが残り、
コンビニや料金所やスタンド、果ては停まってるトラックの運転手さんにまでw

「遅くまでありがとうございます」とか
「寒い中お疲れ様です。無理せず頑張って下さい」とか
想いが溢れすぎて、声掛けまくって帰りました。笑

みんなびっくりしてたけど、
「ありがとう」とか
「頑張るよ」とか、笑顔で優しく答えてくれました。


心や身体が疲れてくると、どうしても心って荒んでくるけれど、そういう時ほど、
「ありがとう」って良い薬だな。と思いました。

大変な中、清潔を保ち開店してくれてるお店。
感染リスクに晒されながら働いてくれてる人達。

勿論、根底に生活が掛かってるから ってのは有るかもしれないけど(笑)

それでも、そういう人達のお陰で少なくとも私の生活は成り立ってる。


お店空いてて助かるよ!
とか、毎度お馴染みの店員さんに、いつもありがとうとか。
何より、傍に居ると煩わしいけど、
居ないと自分が死んだ方がマシと思えるほど大切な家族に、沢山ありがとうって。

そんな風に気軽にありがとうと言えたら。思えたら。
世の中少しはストレスが少なくなりそうな気がします 笑
言われた方は元気になります(๑•̀ㅂ•́)و✧


そして、今、必死で何かを頑張ってる方。

頑張ってる姿と言うのは、本当に周りの人達に力を与えてくれます。

頑張ってる本人は苦しくて仕方ないかもしれないけれど、そんな時は、溜め込まずちゃんと吐き出して下さい。

我慢せず、泣くだけ泣いたら
「泣いたってしょうがない。やるしかない。」
って、また奮い立つ気持ちが私は湧いてきました。


自分1人ではどうにも出来ない何かを抱えてる方。

どうか、周りにSOSを出して下さい。
行政機関でもいい。近所の人でもいい。見知らぬ人でもいい。片っ端から助けを求めてみてください。
吐き出して下さい。
なりふりなんて構わなくていい。

私はソコまでの辛さをを抱えた事の無い甘ちゃんだからそう思えるのかもしれないけど、
絶対に力になりたいって思ってくれるや寄り添ってくれる人は居ると思います。
人って結構優しいものです。



。。。まぁ、なんか、何が言いたかったのかよく分かんなくなっちゃったけど笑

こんな感じの私の311 あの時でした。
あの時、私は、日本はこれから変わると思って、でも何にも変わらなかったけど。

大きく時代が変わりつつある今。
みんなが幸せになればいいな~。と思います。(壮大)

人間だけじゃなくて、動物も花も山も水も、地球に存在する全てが。


丁度新月なので、神社の変わりに月にお祈りして今夜は寝よう。



なんか、色んな感情が溢れて、ブログ書くのめっちゃ疲れた。

疲れた割に大して纏まりの無い、ただの起きた出来事記録しただけになったけど。

なんか、書き始めた頃思い描いてた感じと違くなって、読んで下さった方には本当に申し訳無い。

なんか、いらないんじゃない?ここ数日の記事。
って思うんだけど笑 
一所懸命書いたので消さずにおきます。
文才が欲しいです。

最後にもう1記事だけ、1番知って欲しい、原発事故後、どういう事態になったかを書けたらいいなと思いますので、
もし良かったら、アップしたらお読み頂けたら幸いです。

15日 火曜日。

お休みは追加でもう一日だけ貰った。

この日の朝、4号機は爆発した。

私が出した答えは「長野に帰る」だった。

冷静に考えて、ここで仕事を辞めて残っても、経済的に負担になるだけだし、食料の備蓄だって余計に減っていく。
もちろん、会社にだって迷惑。

最悪の事態の時の為に、家族が。出来れば友人達家族も。
避難できるくらいの体制を帰って整えよう。

※今考えると、どう考えても仕事辞めて残るなんてバカの極みだと思います笑
大変な時ほど冷静さって本当に大事だと思いました。
でも、放射能の知識が増えた今でも、多分ソコに残りたいって思ってしまうと思う。


動けるのは今日まで。

万が一の為に出来ればガソリンを手に入れて親に渡したい。
比較的被害の少ないであろう、隣の栃木まで行けば手に入るだろう。
と私は栃木に向かう事にした。

会社に行く前、母がおむすびを握ってくれました。
お母さんのおむすびなんて何年ぶりだろう。

母はしきりに、無理をするな。帰る事を第一に考えろと言っていた。
父はと言うと、「頼むな」って。笑
でも直ぐに、母と同じように気をつけて帰れ。って。

多分、父は出来ればガソリン手に入れたかったんじゃ無いかなって。
不安だったんだろうって思う。
不安なのは恐らく母も一緒だけど、何となく、「女の強さ」ってのを見た気がした。


先に仕事に行く母にハグをした。
ぎゅーーって力いっぱい抱きしめた。
笑いながら「気をつけて帰るんだよ」って頭をポンポンしてくれた。

家を出る時、父にハグをした。
「もういいから」って速攻で振りほどかれた。 笑
照れたような、泣きそうな顔をしてた。


決意をして、家を出発した。


4号線に出て、市内を抜けた当たりから車が混み始めた。
動かないくらい進めなくなったのはどの辺くらいだっただろう。

福島県を抜ける頃には、逃げる人達で車は大渋滞。
4号線は長い車の行列で全く進まなくなっていた。


道中私は、おしっこが漏れそうだった。笑

両面田んぼしかない中、やっとコンビニに到着した。
トイレに行ったら、まさかの  

「断水中 使用不可」

死ぬかと思った。

暗かったら、闇に紛れてその辺で出来る。
私は野ション出来る女だ。

でも、今は昼間。曇り空。

駐車場のあちこちで立ちションするオジサン達を見て、生まれて初めて女に生まれた事を後悔した。


途中幾つものガソリンスタンドを見つけたが、何処もやっていないかガソリンが売ってない状態だった。


ラジオから流れる原発の情報は内容は詳しくは覚えて居ないけど、
苦しいくらいに押しつぶされそうになって、
少しだけ安心して、心を奮い立たせて。
そしてまたどん底に落とされた。

家族を案じながら、泣きながら食べたお母さんのおにぎりは、全く味を感じれなかった。
喉が詰まって飲み込みにくかった。


那須塩原市に着いた頃にはもう日が暮れ初めていた。

途中見かけたホームセンターで、ガソリン携行缶もと充電器を探したけど、ポリタンクすら売り切れ状態だった。

車載用充電器を万が一の避難の為に、親の車に取り付けて来た私は充電する術が無かった。

電池の温存に電源は切っていた。
携帯で給油情報やホームセンターの所在地は調べられない。(カーナビ持ってない)


闇雲に探しても、ガソリンを消費するだけで拉致が開かないと思った私は、民家に聞き込みをする事にした。

4号線を進みながら、家族で住んでそうな小さなマンションを見つけ、(情報量と効率的に)
ドキドキしながらピンポンした。

突然インターホンを鳴らす見知らぬ女に、みんなキョトン顔で。
事情を話し情報は無いか聞いた。

ある人は、福島と言ったら泣いてくれた。

ある人は、これ何処かで食べなって、恐らく夕飯に準備したオカズをタッパーに入れて渡してくれた。

ある人は、とても疲れた顔をしていた。
警察官だった。
自宅なのに制服のズボンとシャツを着ていた。
多分、いつでも出れるように?
この時の警察は交通整備やアレコレに多分とても忙しかったと思う。
見えない所で頑張ってくれてる人達の存在に凄く力を貰った。

お礼を伝えて家を後にした。


回った件数は多分10件に満たなかったと思う。
市内で朝の6時にタンカーが来るスタンド情報を得れた。

恐らく給油制限がかかるだろうから、もう1件くらい情報を得たかった私は、少し進んで隣の矢板に向かった。

矢板に入った当たりのコンビニで、店員さんに聞いてみた。
近くのスタンド情報は無いけれど、日光の辺りは比較的ガソリン入れれる所が有るらしいって教えてくれた。
ホームセンターの場所も教えてくれた。
土地勘があまりない事を話すと、丁寧に地図を書いてくれた。
そして、ちょっと使ってるけど寒いからって、封の空いた20個入りのホッカイロをくれた。


那須塩原に戻り、国道から少し入った所でプウ(長野で一緒に暮らしてた犬)の散歩をさせた。
22時に近かったのに、明かりのついている事務所みたいなのを見つけた。

ガス屋さんだった。

ダメ元で携帯の充電をさせて貰えないか聞いてみたらOKしてくれた。
1時間程充電して貰い、教えて貰ったガソリンスタンドに向かった。


。。。。。

栃木県もあちこちで大きな被害が有りました。
原発の影響だって、安心出来る距離では無い。
大きな不安を抱えた中、それでも、接した栃木の人は本当にみんな温かくてとても優しかったです。



13日。日曜日。

細かい事は覚えて居ないけど、
とりあえず、この原発も分からない状況で家族を残して長野に帰りたくなくて
当時の会社のリーダーの携帯に月曜日お休みを貰えないか相談して2日の休みを貰えた。

確か双葉町に実家の有る子が親と連絡が取れないと言っていて、双葉町民が避難してる避難所とかを調べたり、郡山の給油情報を探してた気がする。


各地で自主避難要請が出されたり避難命令が出てる中、
郡山でも、放射能がどれくらい飛散してるかも分からないから
お願いだから仕事を休んで欲しいといくら母に頼んでも、もっと大変な人もいる中自分だけ休めないと言う母。

休んで欲しくて仕方なかった。



月曜日。

母は普通に仕事に行った。
イザと言う時のガソリンを温存する為自転車で。

心配で堪らなかった。


望まない事も、恐らく嫌がるであろう事も知っていながら母の会社に電話した。

安全が確認に出来るまででも、皆さんをお休みにしたりはできないのでしょうか?
言いながら泣いてしまった。

帰ってきた答えは、

「避難の指示が出るまでは本当に申し訳無いけれどお休みには出来ない。
指示が出たら必ず直ぐに、休むように皆に伝えるから」

だった。

寄り添う様な優しい声だった。

けど、多分、福島市や郡山市という、人口の多い市を抱える中通りは避難指示は出ないだろうなって思った。
だから風向きも放送してくれないんだろう。
測ってない訳が無いんだから。


日中、家に居る友達に物資を届けに行った。

2件目のお家で、確か記者会見か何かが始まるじかんだったのかな?
お家に上がらせてもらって見た気がする。
でも記憶に残ってるのは3号機の爆発映像だった。

3号機は確か、プルサーマル計画で知ったモック燃料とやらが使われてる建物だった。

その後夕方になり、別の友達の家を2件ほど回った。
お家に入れてくれた子もついてきてくれた。

大事な大事な学生時代からの友人達。

私は何にもしてあげれない。
みんなを残して帰らなきゃ行けない。

私は、放射能を浴びて、みんな死んじゃうんじゃないかって思ってた。
(よっぽど近くで食らわない限り「直ちに影響は無い」のに)

何より、家族を残して帰るくらいだったら、このまま仕事もやめて福島に残って、
一緒に死にたかった。
一緒に苦しさを共有したかった。


夜、長野に帰りたく無いと泣きじゃくる私に、母は帰れと言った。
お父さんとお母さんは大丈夫だから。
危なくなったらちゃんと避難するから。

子供みたいに泣きじゃくる私に
おねがいだから長野に帰ってくれと言った。