日本堤(土手通り)から音無川から外れちょいと吉原に向かいます。
目的は吉原遊郭を囲むように作られていた御歯黒ドブを一周するためです。
注、お風呂屋さんに行くわけではありませんので悪しからず。
入口は見返り柳、名前の通り吉原から帰る客が名残惜しげに吉原遊郭を振り返った場所。現在の柳は数代目の子孫で、場所も本来あった場所から移されている。
見返り柳から吉原に向かう道が五十間道。カーブしているのは日本堤から遊郭の中を覗く事が出来ないようになっている。
そしてその先が吉原大門跡。
四方を塀と堀(御歯黒ドブ)で囲まれていてこの大門からしか出入りが出来ない。
読み方は「おおもん」。だいもんでは無い。
関東大震災で消失するまではここに門があった。
大田記念美術館HPより拝借。
これより吉原遊郭を取り囲んていた御歯黒ドブを一周します。
御歯黒ドブとは、遊女達が使用済みの御歯黒を捨てたからとか、御歯黒のようにどす黒い水だったからとか諸説ある。
そしてその目的は遊女達の脱走を防ぐ為、そして無銭飲食者の逃亡を防ぐとか。
どちらにせよ堀で囲まれているから出入りは先程の吉原大門からしか出入り出来ない。
昔の絵図。大田記念美術館HPより拝借。
吉原遊郭の周囲は田畑であり、その中に突然と現れる非日常世界、という感じ。
そして吉原遊郭は土盛されていて周囲の低地の田畑地より少し高くなっていた。
まずは上の絵図の右側からスタートして御歯黒ドブ跡を一周する。
吉原といえば日本屈指のソープランド街だが、こちらの道はそんな雰囲気は無く普通の住宅街のよう。左側が吉原遊郭跡。緩やかな下り坂になっている。五十間道も土盛された高い位置というのがわかる。
御歯黒ドブの石垣が唯一残る場所。
階段の縁の大谷石がソレ。
段差があるのがよくわかる。
大田記念美術館HPの浮世絵にも石垣が見える。
その先が吉原公園。段差がよくわかる。
吉原公園は、大文字楼の跡地。
大籬(おおまがき、格式の高い娼家)は3軒ありその一つ。他は角海老楼と稲森楼。
所々にある石段が遊郭跡が高い位置にあったのを表している。
そして角を曲がり北西の面へ。
ここは主要道になっている。
道の左はソープランド街、右側は住宅街、
常世と浮世を分ける道。
先程の絵図にも書かれているが、吉原大門から続くメインストリートの横に伸びる3つの道、江戸町、揚屋町・角町、京町、その名前は現在も残る。
江戸町通り。
うっすらと登り坂になっている。
揚屋町通り。
京町通り。
京町通りの先の道が吉原遊郭外周南西の面。
この道はひっそりとしている。
一本隣の京町通りが時々見えるがそちらのお風呂屋さん店が並ぶ景色に比べこちらの道は普通の下町の路地裏の様。
そして次の角を曲がり南東の面へ。
この道も主要道。でも御歯黒ドブの名残りはあまりわからない。
江戸町通りと京町通りは1丁目と2丁目に左右で分かれるが、真ん中の道は揚屋町と角町となっている。
そしてこの先江戸町通りを曲がり、道沿いの某店へ。そして月曜日の忘れ物を受け取りに。まあ実は今日吉原散策してるのはその忘れ物を引き取りに行くってのが目的だったんです、、、、
そして戻りまして、最後の区間、北東の面の南側へ。
段差のわかる場所。
そしてこの先で五十間道に添う形で直角に曲がる。
これにて吉原遊郭を一周、御歯黒ドブ回りは完了。
再び土手通り(日本堤)に戻って音無川跡下り再開。
この辺りになると山谷堀と呼ばれているので以後は山谷堀で読み方は統一します。
土手通りより一本隣の道、これか?
東京スカイツリーが正面に見える。
なんか橋の跡的な遺構が。
そしてその先より山谷堀跡がはっきりわかる区間に。
山谷堀公園として整備されている。
橋のあった場所にはちゃんとメモリアルが。
現在地が上記写真の場所。
スカイツリーを正面に。
橋の跡には必ずあります。
この近くの鷲神社は酉の市が大規模に開かれる。
大通りの吉野通りを渡る。
山谷堀は吉原に縁が深い。
時代劇とかによく出てくる水路を進む猪牙船、スピードが早いからいわば水上タクシーのようなものか。
吉原に向かう人は猪牙船で隅田川から山谷堀に入り、この辺りから駕籠に乗換えて吉原遊郭に向かったという。
(この辺りから先は川幅が狭くなるから)
待乳山聖天はこの近く。
そして最後の橋、今戸橋。
山谷堀の案内。
今戸橋の先、江戸通りを越えるともう隅田川だが、道を渡るついでに少し寄り道。
今戸神社へ。
今戸焼発祥の地であり、新撰組一番隊長の沖田総司の終焉の地でもある。
そして戻って、今戸橋のところへ。
この公園が河口で広くなった山谷堀の跡。
そして最後にこの水門で隅田川に注ぐ。
水門の先を見下ろす。
左側に食い込んた部分が河口。
隅田川の対岸はスカイツリー。
そしてここから浅草に向かい、浅草寺に寄ってから帰りました。