思い出話 | Yoshimasa Iiyamaのブログ

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日本刀の拵ー刀装・刀装具(鐔・目貫・小柄・笄・縁頭など)・風俗・習慣について ー 日本刀装研究所 ー

 私の一番古いとおもわれる思い出は、戦争中に母に抱かれて防空壕に逃げ込んだ事です。防空壕は、地 下にあり中ではロウソクの灯りに照らされて私よりも年上の子供達と母親の不安な顔が見えました。

  次に思い出すことは大きな懺悔が伴うものです。鶏小屋がある裏庭での出来事で、私は鶏を追い回して 遊んでいました。白い体に赤い鶏冠を面白がって摘まんで嫌がって逃げる雌鶏たちを追っていました。 雄鶏の大きな鶏冠が気にいって摘まんだのか、雌鶏たちを虐めている私に怒ったのかははっきり覚えて いませんが、私を威嚇して飛び上がったのを眼にした祖父は、縁側の端に立て掛けてあった鉄の棒を掴 むと庭に飛び出し一撃の元に雄鶏を叩き殺してしまいました。  駆け付けた祖母だったか母に抱きついて大泣きしたのは、祖父の行動にショックを受けたということ もあるでしょうが、大好きな雄鶏が殺されてしまったことが大きかったと思います。その時の情景と悲 しさは、大いなる反省と共に今でも蘇ります。その時も今も祖父を恨んだことはありません。ただただ自 分のイタズラの為に愛するものに怒りと死をもたらせてしまったということが私の心に刻まれました。  この事件は、昭和 20 年前後で、私が二歳の頃であったとおもいます。

  その次に思い出すことは、祖母と電車を見に行ったことです。石下駅の近くにあった小学校の運動場 の端の冊に乗ってディーゼル車に手を振って喜んでいる私は、二、三歳でしょう。当時の私にとって、き っと一番楽しい時間だったのでしょう。

  子供たちに囃し立てられながら G.I の格好をして、足踏のジープに乗って得意満面の私を思い出しま す。G.I の帽子まで被っていたのを思い出します。父が東京辺りで買ってきたのかも知れません?アメリ カの占領下にあった敗戦国日本らしい私の格好ですね。

  石下の母の実家は、長屋門のある立派な家で、祖父の山中徳三郎は、石下町の町長でした。江戸時代明治の過去帳には、⌈手代⌋とありますから代官の下にいたのでしょう。

  その後、父が赤鳩印の東京亜鉛鍍金株式会社に入ったことから、江東区砂町の社宅に引っ越ししまし た。そこでの思い出は、庭でトマト、なす、とうもろこし、きゅうり、さつまいもなどを作ったこと、ド ラム缶で五右衛門風呂みたいなものを作って、その小屋の屋根に上って収穫したさつまいもを蒸かして スライスしたのを並べて乾燥芋を作ったことです。 その庭の隣に砂町警察署があり、署長が親戚だったことから良く遊びに行っていました。署長の帽子を かぶって署長の隣に並んで朝礼に参加して、持ちもの検査を見たり、耳を塞いで射撃訓練を見たりして いました。その頃は、警察官が拳銃を持ち始めた頃で警察署の中に射撃場があったのでしょう。金網が入 ったガラス板を何枚か重ねた物を的にしていました。Jeep に乗って MP が来ると署長以下警察官がペコ ペコしていました。私は、離れたところから恐々見ていました。その後大事件が発生しました。ある朝警 察署が大騒ぎになっていました。見上げると三階の留置場の鉄格子が曲がり金網が破れていました。犯 人の男に女が差し入れたりんごの中に金のこが隠されていたそうです。そのことがあって大好きな署長 さんは、左遷されて居なくなってしまい、私は、警察署に遊びに行くことが無くなりました。  その頃、大きな台風が来て床上浸水しました。私は、ミシンの上に乗せた畳の上で寝ていました。窓の 下を見たら錦鯉が2匹泳いでいました。隣の警察署の池にいた鯉でした。ここは、道路から何段か高くな っていましたがゼロメートル地帯でしたから、水が少し引いた時でも道路は川のようで、会社からボー トで父たちを迎えに来ていました。周りは、湿地帶で蒲の穂が生え殿様蛙が沢山住んでいました。ゼロメ ートルだと実感させられたのは、海の堤防の階段をよじ登って海を覗いた時でした。地面からずっと上 に海面があったのでたいへん驚いたのを思い出します。その帰り道に上に川が流れていることに気が付きまたまた驚かされました。

 あの洪水もひとつの選択条件であったかもしれませんが、私の小学校入学 を期に、父は、文京区水道端に家を買い引っ越ししました。引っ越しは、トラックでしました。私は、ト ラックの荷台に乗っていました。隅田川の橋を渡っていたその時リンゴ箱がひとつトラックから落ちて 仕舞いました。かちどき橋の上だったか?ガタンとトラックが弾んだ時でした。隣に乗っていた父が諦 めろ!と言ったように覚えています。私のおもちゃが入った箱で、あの署長さんにもらった署長の帽子と 記章が入っていました。 その何日か後に、母がオモトの鉢植えを忘れて来たということで、砂町の社宅 に母と弟の三人でとりに行った帰りに飯田橋のホームと電車の隙間に鉢植えを落としたことがありまし た。飯田橋の駅はカーブしていますので電車とホームの間に大きな隙間が開いてしまっています。その 時のことは、私の教訓になっています。

  小学校は、金富小学校と言い、お寺と安藤坂新坂の間にあり、家からは巻石通りを渡って1分ほどの近さで した。入学式には、半ズボンの制服に赤いネクタイ、編み上げの革靴、革のランドセル、金富小学校の記 章が付いた学帽をかぶって行きました。校庭は狭く、コンクリートでした。休憩時間に低学年は、その校 庭で遊び、高学年は、屋上で過ごしました。未だ中学校は建設中で、中学生が同居していました。そんな 時に、事件が起こりました。私がまだ一年生のある休憩時間にトイレで小をしていた時、2つ隣にいた中 学生が小学生を邪魔にするような言葉を吐きました。私が黙っている訳が無く、「あんたのほうが居候だ! 」というようなことを言ったと思います。そしたら、便器と便器の堺にあるコンクリートの壁に頭を叩き つけられました。痛い額を押さえながら保健室に行こうとしましたが額からの血で前が見えなくなり廊 下に上がる二段の階段で詰まずき倒れて仕舞いました。そこに通りかかった上級生の女の子が保健室に 連れて行ってくれました。そして、学校の玄関の正面にある新島医院に連れて行かれ、担任の田村先生に しがみつきながら額を2針縫われました。そのことがあったことで私は田村先生が好きになり、先生の 下宿先にも遊びに行くようになりました。田村先生は、その苗字からご想像がつく方もおられるでしょ うが、坂妻こと坂東妻三郎の親戚で、後に有名な俳優になる田村正和とも親戚になります。 その事件がどうなったのか?親はどう学校から説明を受けたのか?あの中学生はどうなったのか? もっと、両親に聞いておけばよかったのではと、今さらながらおもっています。

( 追記 ) 寝ている時の夢現の時に思い出しました。怪我させられたということを恥だと思った私は、「トイレで滑って額をぶつけてしまった。」と言ったようです。後ろから田村先生に抱かれ、前から新島先生に額を縫われました。非常に痛かったのを憶えています。麻酔はされなかったのでは?と思ってしまっております。額にグルグル巻かれた白い包帯はかなり目立っていたことでしょう。あの中学生が「ごめん、ごめんね!」と謝ってくれました。私は「大丈夫!だいじょうぶ!」と言ったようです。ずいぶんと格好をつけて、いい気分になっていた私が見えるようです。まったく・・・

  図画工作の授業は大好きで、とくに図画の授業が大好きでした。美術の境元資先生を尊敬していまし た。そのことから美術部に入りました。五年生の時には部長になり、文化祭で演説をさせられたり、学芸 会では、美術部の演劇⌈クロッキーをしよう!⌋で、部員と共に舞台の壁いっぱいに墨汁で絵を描いたこと が思い出されます。凄くビックリさせられたのは、美術の教師達が集まって勉強会をしていた時のこと です。入り口に黒いベッチンの幕がしてあり、いつもと違うなアと思っていたところ美術の境先生が丁度 来て、⌈美術部の部長なのだから一緒にデッサンをしよう⌋と誘われドアを開けて黒い幕を抜けると、全裸 の女の人が立っているのが眼に入りましたので、謝りながら慌てて部屋を跳びだしました。後で美術部 活の時に部屋に行ったら、先生方が描いた女性のデッサンや粘土の彫刻像がありました。

  部活には英語部があり、そこの先生の思い出はほんとうに愉快なものです。それは、2月の節分の前日 のことです。その日は、放課後図書室の掃除を済ませクラスメートとふたりで⌈あしたはたのしい節分だ! ⌋と話しながら廊下を歩いていたところ、向こうから来たツイードの三揃えを着た英語の教師が⌈君たち! せっぷんとはなんだ!!そんなことを言っちゃいけない!!!⌋と怒られました。ふたりは、何がなんだか解らず キョトンとしていました。 ⌈せっぷん?⌋っていう言葉を知らない僕たちは、今鍵をしてきた図書室に戻り、 辞書を引きました。⌈せっぷん⌋⌈接吻⌋⌈口づけ⌋⌈キス⌋  えーつ、あのスケベ、なにを聞き間違えしているんだ! よーし、仕返ししてやろうと次の英語部活の日にシイーと口に指を当てながら教室に入り白墨の カスをタップリ付けた黒板消しを教壇側の戸の上に挟んで来ました。確認はしていないが多分タヌキの 上に落ちたことでしょう。 私が英語が嫌いになった原因のひとつになったかもしれません?もうひとつの原因は、中学生になっ てからになります。

  夏、小学校の屋上からは、再開された両国の花火が見えました。校庭では、朝にはラジオ体操、夜には 映画の上映会が開催されて賑わっていました。講堂で映画会が開催されることもありました。そんな時 にはよく会場の設置や受付を手伝っていました。映画上映会の時などは、混んでいたのでスクリーンの 後ろから観ることが少なくなかったことが思い出されます。スクリーンの後ろは狭いので離れて観られ ず、大きな音で巨大な映像を見上げていました。 ラジオ体操の時には、受付で出席の判を捺す係でしたから、じぶんのカードには初日に全部捺印するイ ンチキをしましたが、ほとんど毎朝受付を手伝っていましたので不正にはならなかったと思います。

 その頃の 遊びといいますと、鬼ごっこ、かくれんぼ、缶けり、馬跳び、縄跳び、けんけんぱ、石蹴り、チャンバラ、 めんこ、ベーごま、駒回し、家の中では、お手玉、あやとり、おはじき、トランプ等がありましたが、私 は、家の中での遊びはもっぱら雨とか雪の日で、台風の中でも外で遊んでいました。高学年の時にめんこ にはまったこともありましたが、チャンバラ、忍者ごっこ、ターザンごっこを主にしていました。浅草仲見世 で父親に買ってもらったお気に入りの貝がちりばめられた朱鞘の鉄の刀を腰に差したり背中に背負って 遊んでいました。忍者にも憧れて成長が早い麻を植えて、その上を毎日飛び越えていると身長の高さく らいは、飛び越えられるようになるというので、七味とうがらしの中の麻の実を庭に埋めたところ芽が 出たので、毎日飛び越えていましたが飛び越えられないほど麻は成長してしまい諦めました。今は考え られないでしょうが、その頃は、⌈大麻⌋何て言う言葉は無く、川岸等には麻は幾らでも生えていました。 覚醒剤のヒロポンも普通に売られており「ヒロポン打って頑張ろう!」何て言うポスターが町内会の掲示板 に貼ってありました。 当時の日本は、アメリカの占領下にあり、今問題になっているサマータイムが実施されて迷惑した記憶 があります。また、交通は、右側通行で信号機も標識もそれに合わせてありました。父と数寄屋橋に映画 を観に行った帰りに銀座4丁目の交差点でMPが台の上で交通整理をしているのを見ました。私たちは、 その服装と流れるような動作に見とれて長い間そこにいました。白い革ベルトのピストルホルスターと ブーツ、MP の腕章が印象的でした。 映画は、⌈ロンレンジャー⌋⌈ジェリールイスの底抜けシリーズ⌋⌈ピノキオ⌋なんかのアメリカのものが多 く、日本のものでは、⌈鞍馬天狗⌋が印象に残っています。嵐寬寿郎の鞍馬天狗が馬で走っているかなり奥 を自動車が走っているのを父が発見してふたりでガッカリしたのが懐かしい思い出です。テレビは未だ 無く、ラジオが全盛期で大人、特にお母さんたちは、⌈君の名は⌋に夢中になっていたので、放送時間には 銭湯ががらがらでしたので、私は、その時を狙って行ったものでした。子供たちは、夕飯の前に放送され る⌈白鳥の騎士⌋そのつぎの⌈紅孔雀⌋⌈オテナの塔⌋に夢中になっていました。それらは、東映で映画化され 中村錦之助、東千代介、大友柳太郎のスターが誕生しました。小さな地元の映画館は、いつも満員で座席 横の通路に座ったり、左右と後の通路に立ち見したりと、今では考えられない状況で、おまけにタバコも オーケーでしたので煙がモクモクしていました。

  その頃、誕生日のプレゼントに映写機をもらいました。ブリキ製で 35 ミリフィルムを手回しで映写するもので、電球を使うのですごく熱くなってしまうのが欠点でしたが、近所の子供たちを集めて映画会 をやりました。フィルムは、⌈キングコング⌋と⌈ミッキーの蒸気機関車⌋の2巻しか持っていませんでした が、みんなは喜んでくれました。このフィルムの 1 巻は今でも手元に残っています。フィルムは、セルロ イド製ですので長い間映写していると熱くなって発火してしまいますので 100W の電球を消して冷まさ なくてはいけませんでした。これは、映画館も同じで、フィルムが燃える事故は、たまにありました。フ ィルムが止まってしまうと熱で点々と膨らみ焦げて燃えてしまうのがスクリーンに写し出されたのを観 たことがありました。 
  父には、本を買ってもらったことを感謝しています。特に平凡社の⌈小学生百科事典⌋は月いちで届くの でその間に全部読んでいました。担任が、クラスのみんなが見られるように学級文庫にしたい、本立を用意したのでので貸して 欲しい、頼む、と言い出しました。私は、しぶしぶ OK して教室に運びました。クラス メートは、よく利用していましたので私も最初は喜んでいたのですが、箱は痛み、ページを折るものがい たり、書き込みされたりとだんだん汚くなってしまいました。本を大切にしていた私は、遂に耐えられなくな って何人かの友達に手伝ってもらいいっぺんに運び出して家に持ち帰りました。 
  ほかには、当時人気のあった明智小五郎の助手の小林少年に憧れて、少年雑誌で募集していた少年探偵 団に入り、会員証と一緒に送られて来た手帳の内容にのめり込みました。その内容とは、車のナンバープ レートの読み方だったり、夜の雨上がりに水溜まりを避けて歩く方法でしたり、サバイバルで水を得る こととか、色々なことが書かれていました。そんなことから、原作者の江戸川乱歩の小説を読むようにな り、父の会社の図書室から⌈江戸川乱歩全集⌋を借りてきてもらい、⌈怪人二重面相⌋はじめ、子供には相応 しく無い⌈人間椅子⌋⌈緑衣の人⌋などの小説も読みました。 小学生時代の大きな出来事に地下鉄丸ノ内線の工事がありました。金富小学校の裏側の斜面から崖に なっている場所は、地下鉄建設の予定地のため長いこと空地になっていましたから、私たちの格好の遊 び場になっていました。崖に生えている葛の茎をロープの代わりにしてぶら下がりターザンごっこをし ていました。飛び降りてシリモチを着いたところがトカゲの巣で、たくさんの赤や青色に光ったトカゲ が出てきたのには肝を冷しました。そこが掘られたり削られて、崖のしたは江戸時代はお墓だったよう で沢山の人骨が出てきていました。削られた崖には、大きな甕の中で膝を抱えた人骨が見えました。崖の 上には貝塚がありましたので、縄文時代のものではないのかということになったようです。崖の下から は、六地蔵が出て線路の脇の空地に並べて有りましたが、何時無くなったのか 10 何年前には無くなって いました。