素銅という素材について | Yoshimasa Iiyamaのブログ

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日本刀の拵ー刀装・刀装具(鐔・目貫・小柄・笄・縁頭など)・風俗・習慣について ー 日本刀装研究所 ー

 刀装具の材料としての【銅】は、【素銅(すあか)】と【山銅(やまがね)】にわけられています。
【素銅】という語句は一般の辞書・事典には記載が無く、福永酔剣著『日本刀大百科辞典』で引きますと「 まじりけのない銅、つまり合金になっていない銅、またはメッキや色着けがしていない銅。赤銅や山銅の対語。装剣具の材料に使われる。」と、あります。しかし、【素銅】という言葉は、刀剣関係では現在普通に使用しておりますが、江戸時代には使われておりませんで、【銅(あかがね)】が使われていたことが、御家彫後藤家の『極帖』や加納夏雄の『細工所日記』を見てもわかります。昭和12年発行の『刀剣金工名作集』には【素銅】の記載があり、また、明治24年の尾崎紅葉の小説『二人女房』の文中に「顔色は古りたる素銅の如し」の表現が用いられておりますことから、ほかにも例があるように明治の頃に新しくつくられた造語なのかもしれません。
【山銅】には、自然銅と合金によるものの二種があり、山から出たままの銅には、銀・蒼鉛などの不純物を含んでいますが、江戸期のものは【素銅】に鉛・砒素・アンチモン(輝安鉱に含有)などを混ぜ、使用目的に適した合金として作られました。
では、いつから【山銅】が【素銅】の合金になったのか、興味深い問題です。

― その前に、簡単に銅の歴史をみていきたいとおもいます。―

銅は人類が最初に手にした金属で、紀元前5,000年頃には古代エジプトで日用品・装飾品・武器などに利用されていました。貨幣(硬貨)としては、古代ギリシャに始まり現代まで、世界各国で広く使われています。わが国では、708年に「和同開珎」が造られていますが、それ以前の貨幣として飛鳥池遺跡から出土した「富本銭」が確認されています。
 当時の銅は、産出されたままの「自然銅」「酸化銅」であったとされていましたが、近年の研究で、坩堝(るつぼ)に使われた素焼きの鍋に融点の低い鉛などが付着し、結果として若干精錬されていたことが確認されています。また、その酸化色(緑青)から「青銅」に分類されているものが、錫との合金のみではなく、「富本銭」にみるようにアンチモンとの合金が存在することが判ってきています。
 752年(天平勝宝4年)に大仏開眼がとりおこなわれた、世界最大の東大寺大仏は、鋳造に二年の歳月が費やされ、約500t(とん)もの銅が山口の長登(ながのぼり)銅山から産出の銅でほとんどが賄われました。
 鎌倉の大仏は、建長4年(1252)に鋳造が始まりましたが、この時は中国から輸入された銅が使われました。銭貨も中国からの「渡来銭」が使用されています。このことから国内生産が不振であったことが窺われます。
 群雄割拠の戦国期、金銀銅の需要もたかまり、鉱山開発が盛んになります。
 豊臣秀吉の積極的の鉱業政策により活気を取戻し、徳川家康の鉱業振興政策によって、足尾(あしお)・阿仁(あに)・別子(べっし)などの銅鉱山が開発されて生産量は急増しました。17世紀の終わりから18世紀の元禄年間までの生産量は、年産5,400tから6,000tのピークに達した。その内の4,000tが輸出されており、当時の日本は世界一の産銅国でした。その後は減少の一途をたどり18世紀中頃には産業革命のイギリスに世界一の座を奪われたが、世界二位はキープしました。
 明治期以後は、産業技術や機械化などで生産量を増やすが、チリ、アメリカ、アフリカの大規模鉱山の開発により三国が主産出国になりました。
現在は、5,500,000tを超える生産量のチリが他を圧倒しており、日本は輸入国になりました。

― 日本が世界一の銅産出国になれたのには、いかなる理由があったのだろうか。―


 銅の精錬工程


 慶長(1596~1614)以前の銅は銀を分離出来ないでいたが、元和8年(1622)〔一説に慶長年間〕に京都で蘇我理右衛門(そがりえもん)が異国の技術に工夫を重ねて苦心の末に粗銅(あらどう)から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」を開発しました。蘇我理右衛門は、京都で書林と薬舗を開いていた住友政友(すみともまさとも)(住友家初代)の姉婿で「泉屋」という屋号で銅吹き(精錬)と銅細工所を営んでいました。そしてその長男が住友政友の娘婿として養子に入り住友友以(すみともとももち)となり住友二代目を継ぎました。
 友以は、「南蛮吹き」を公開し寛永13年(1636)に大坂に進出し「住友長堀銅吹所」を開設します。これにより大坂は銅精錬業の中心地になりました。これは、初代政友が商人の心得を説いた「文殊院趣意書」の教えによるものでしょう。
 元禄10年(1697)には、日本の銅生産量は年産6,000t(トン)に達し、内の2,000tを「住友長堀銅吹所」が生産していました。
総生産量6,000tの内、2,000tが国内用に丁銅・平丁銅・丸銅にされ、残り4,000tを棹銅にして200本づつ箱詰めにして輸出しました。
 この棹銅の色が世界に類がない鮮やかな赤色を呈していました。この赤色は、日本独自の技術、色揚げ(誘色)に依るもので、表面が2~3ミクロンの亜酸化銅に覆われています。<注1>そして、この棹銅の品質は、世界一の純度、99.9%を誇っていました。<注2>
 この純度の高い銅の色合いに魅かれて金工が刀装具に使いはじめるのでした。
銅が出来た、元和~寛永の時期に活躍していた金工は、埋忠明寿・初代平田彦三・後藤顕乗・初代志水仁兵衛・後藤即乗・後藤程乗〔年齢順〕たちで、初期には部分的に象嵌に使われることが多かったが、後藤程乗や二代平田彦三の頃には、主体的に使用され皆さんもご存知の多くの名品がつくられています。
 このように「第一の技術」、生産に於いて当時の日本は、世界最高水準に足していました。
「第二の技術」、その利用技術に於いても後藤家・横谷派・奈良派の金工たちの活躍により、世界最高水準に達し、以後、明治まで発展維持されました。
 村上如竹一派に多く見られる「緋色銅」も、棹銅の色と同じで、漆を塗ったりしたものではなく、純度99.9%の精銅ならではの「色揚げ」に依るものです。
肥後金工が好んで使う「山金」は、素銅に鉛・砒素・アンチモンなどの他の金属を混ぜた合金で、銅山から産出されたままの銅では無く使用目的や色合いを考慮して配合工夫されています。
 話は変わりますが、銅の合金である真鍮(黄銅)も、銅と亜鉛の配合比率によって色が違ってくるということです。

 「素銅」という言葉が使用される前に「銅」を「あかがね(赤金)」と呼んだ理由が解りました。
「粗銅」が「精銅」に精錬され、銅色が赤色を呈するようになったからだったのですね。
「金」を「こがね(黄金)」、「銀」を「しろがね(白金)」、「鉄」を「くろがね(黒金)」、「鉛」を「あおがね(青金)」と呼んだのと同じ発想で、これらの五つの金属を総称して、五色の金(ごしきのかね)と呼んでおります。

 <注1> 現在、住友金属鉱山株式会社が電気精錬で生産している「銅(電気銅)」は、
99,99%以上の高純度です。
 <注2> オランダ商館長 ヘンドリック・ベイクマンは、棹銅を評して「良い形と良い色を持つ」と、1697年4月16日の日記に書いています。


【参考資料】
『鼓銅圖録』               文化1、2年(1804,05)   住友家
『金・銀・銅の日本史』   村上 隆 著         2007     岩波新書
『住友の歴史』                      住友商事ホームページ

生産された精銅の種類(大きさの比較)




長崎出島での銅輸出風景

「唐蘭館絵巻 蘭館図 蔵前図」川原慶賀筆 長崎歴史文化博物館所蔵

輸出用棹銅と木箱


棹銅



[追記]2019-06-06

『日本国語大辞典第二版 第六巻』では、赤銅(しゃくどう)を次のように記述しています。
「 しゃく‐どう【赤銅】〔名〕金を3~6%含む銅合金。これに銀を1%程度加えたものにもいう。わが国で古くから工芸品、銅像などに用いられた。硫酸銅、酢酸銅溶液などで処理をすると青黒い色彩を出す。紫金。烏(う)金(きん)。」

他の一般的な辞書・事典でも同じ内容になっています。
 銅に金と銀を加えた合金が赤銅という説明に違和感を抱きたくなりますが、この記述は全く正しいのです。
桃山時代以前の銅には、まだ銀が分離されずに含有されていました。ですからあの後藤家の上品な赤銅になるのです。素銅に金のみを加えても後藤家の赤銅色にはなりません。
 素銅に金だけを加えた赤銅は、薩摩の赤銅や加納夏雄が象嵌に用いたあの真っ黒な赤銅色になります。

 慶長以後の後藤家は如何にして代々受け継いできた赤銅を維持したのだろう?
銀を分離する前の粗(あら)銅(どう)(素銅になる前の銅)を確保していたのか? 素銅に金と銀を加えていたのか?
 興味は尽きません。


―「素(す)銅(あか)」「山(やま)金(がね)」の説明をしている書物 ―

〇 昭和54年(1979)3月20日発行『東京国立博物館目録・鐔編』<鐔にみる金工材料>
 「銅 銅は金属工芸の主要材料で『あかがね』と呼ばれるように独特の赤色をしている。素(す)銅(あか)と呼ばれる純銅や、先に述べた赤銅(しゃくどう)・朧(ろう)銀(ぎん)などの合金のほかに、緋色(ひいろ)銅(どう)とか青銅(せいどう)・白銅(はくどう)などの合金もある。」
 「山(やま)金(がね) 銅に不純物が混じったもので、純銅のように冴えた色彩とはならず暗灰色となる。近世では『煮(に)黒味(ぐろ)銅(み)』と呼ばれ、わざと精錬の際に白目などの不純物を残したものと、意識的に合金したものとがある。」

〇 平成24年(2012)3月8日発行・福士繫雄著『刀装具鑑賞画題事典』
<付2刀装具の名称と解説⑨刀装具の地金>
 「3素(す)銅(あか) 素銅とは、ほとんど不純物の交っていない銅のことで、江戸時代にはおおかたこの素銅を使っている。」
 「2山(やま)金(がね) 山金とは、分析技術がまだ発達していない時代の銅のことで、いろいろと不純物が交っている。したがって、一種独特な金色(かないろ)で純粋な銅よりも味わいがある。」

〇 2001年7月20日発行『日本国語大辞典第二版 第七巻』
 す‐あか【素銅】〔名〕(「あか」は「あかがね」の略)まざりけのない、純粋の銅。 *二人女房(1891)〈尾崎紅葉〉上・二「顔色は古りたる素銅(スアカ)の如し」 *腕くらべ(1916-17)〈永井荷風〉一七「何やらいはれあるらしい素銅(スアカ)の目貫」

 「山金」の記載はないが、『第八巻』に「粗銅」が記載されています。
 そ‐どう 【粗銅】〔名〕銅の乾式精錬で、原鉱を溶解して生じる鈹(かわ)を転炉で酸化・遊離させた半製品の銅。[発音]ソドー