ランドスケーパー脳内② 〜カナダ期〜 | 手記

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戯去戯来自有真

人生初の造園仕事の現場の記憶は、
8年経った今でも鮮明に残っている。

カナダのトロントから北へ30分、
イーストギムベリー。
映画で見るような郊外の住宅街で、
静かで、緑に溢れて、住んでいる人達からも余裕が感じられた。

行きのハイウェイで僕はヒロさん(Hiro landscaping オーナーで、当時の僕のボス)のピックアップトラックに乗せられながら、こんな会話をしたと思う。

『カナダに来て何年ですか?』

Hiroさん『もう30年近いなぁ。人生の半分以上はカナダだ!』

『パスポートはまだ日本ですか?』

Hiroさん『もう俺はカナダ人だ。日本のパスポートは俺には必要ない!』

そう言って笑った。
日本のパスポートは俺に必要ない!?!?!?
ただの一度も、日本のパスポートの必要性について考えた事はなかったし、国籍を変えるという選択肢についても考えた事がなかった。
そして、どう考えてみても、日本のパスポートは必要でしかなかった。

行きの30分で、この人、変だ!!!
面白そうだから、着いて行こう!!!
そう思った。

その時の僕は、転職のプロだった。
バイトも含めると約30種程の職種を経験し、浅く広く、そつなく、それなりに器用に仕事をこなし、飽きると無慈悲に退職した。
大体飽きるのは半年から1年くらい。
我慢の限界は1年半。相場はそう決まっていた。
だからここで言う"着いていく"
は、意気込みではなく、直感。
そんなものだったと思う。

クライアントの家は大きかった。
サッカーコート分程の大きさの庭があり、
池があった。
常に鳥の声がした。
赤、青、緑、馴染みのない奴らだった。
たまに遠くで野ウサギを見た。
樹冠をリスが走り回って、時折木々がわさわさと揺れた。
一生懸命に汗を流した。
素人の僕に回ってくる仕事は、
運搬、片付け、サポート等。
猫車は"ウィールバロー"と呼ばれ、
日本の1.5倍の容量があった(きつい)。
スコップは"シャベル"
"シャボー"と呼ばれていた。
慣れ親しんだセンチメートルは、インチに変わり、1インチは親指の横幅と教わった。
毎日暑かったけど、カラッとしていて肌に気持ち良いものだった。
行き帰り、休憩はHiroさんと、カナダ在住の先輩から色々な話を聞いた。
仕事中、Hiroさんはたまにジャズを聞いた。
たまに矢沢永吉も聞いた。笑
あぁ、こんな素晴らしい仕事があったのか。、、
子供の頃、秘密基地を作った事を思い出した。
そうしてゆっくりと扉は開かれていった。

僕はあの頃、何か探していた。
そんな夢中になれる何かを。
人生を賭けられるような何かを。
これだ!そう思える何かを!
実態も根拠もないそれは、仕事かもしれないし、趣味かもしれないし、生き方かも知れなかった。
とにかく、何を探してるのか分からないけれど、本気で探してたのだ。
その一方で逃げていた。
何かが変われば自分も変われる。
そう思っていたから場所も仕事も転々と変えた。
探して探して、逃げて逃げて、、
トロントまで流れ着いた。
海外に住めば何かが!!
そう信じていたが、結局、何も変わらなかった。
そこにはそこの、日常が永遠と続いていた。
そして気付いた。
どうやら自分を変えるしか無さそうだ。と。
その意味では、人生において腹を決めるだけの人間が出来てきて居たのだと思う。

知らぬうちに開いた扉は、時間と共に少し、また少しと開いて行った。

Hiroさんには沢山叱られた。
徹底的に自分で考える事と、チームの一員として責任を持って仕事する事を教わった。
片付けで叱られ、モルタルの硬さで叱られ、
仕事に対する姿勢で叱られた。

そしてそれ以上に
Hiroさんは自分に厳しかったし、
それは良い仕事で誇り高いものだった。
だから納得した。

ある時、これ不可能じゃないですか?
というような現場が始まった。
肉体的にかなりキツかった。
毎日毎日、石を運んで、モルタルを練った。
朝起きると手がガチガチに硬直して居た。
それでも毎日毎日それが続いた。
その現場で1枚だけ、
自分で加工して石を張らせてくれた。
ピタッと面が揃って嬉しくなった。

コツコツと作業を進めて、ついに完工した。

ありがとう!!
そう言ってHiroさんが笑った。
目が残りの全てを語っていた。

魂にグッときた。
それは、小手先の云々ではないものだった。

そして扉は完全に開かれた。

ただ今思い返すと、
自分の内も外も、暗中模索し、
レールを外れ、人生の実地調査を重ねる旅路は、本当にスリリングでワクワクするものだった。

理解者はほんの一握りで、
時折、疑心暗鬼になった。

最高に楽しくて、
まぁまぁ苦しかった。

何者にもなれる状態でありながら、
何者なのかも分かっていなかった。
(今も分かってませんが、、、)
探しまくって逃げまくった。

あの時期は本当に特別。
きっとあの手の浮遊感は人生でもう2度と味わう事が出来ないと思う。
ふとあの頃の音楽を聴くと、
胸が締め付けられる。

笑いたいような泣きたいような、
戻りたいような戻りたくないような。

そんな風にして20代の後半を過ごした。
そして、覚悟を決めて帰国した。

造園で行くこと。

息苦しくても、
好きな自分のままで生きて行くこと。

扉の先は一本道。

もう迷う事はない。
決めた道をひたすら走りるだけだ!!!
迷った分、まっすぐに走るんだ!!!

to be continue......