<<ブログ352>>
2025自民党総裁選に想うこと=感じること
「ことば」と「こころ」
「こころ」と「ことば」
こころ足らずでことばが伝わらない?
~変わらない私の想い by入道~
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世界への羽ばたきを重ねておられる
私とちょっとだけ?歳の離れた友達
画家の田中拓馬さんが
ご厚意で今回も素敵な挿絵を画いてくださいました。
拓馬さん「ありがとうございます」。お心に感謝です。
田中拓馬さんのサイトも訪ねていただければ幸いです。
http://tanakatakuma.com
https://ttakuma.thebase.in/
http://www.takumatanaka.info
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2025年9月22日月曜日。自民党総裁選の告示がなされ、告示前からマスコミ報道もされていた「5名」の方々(敢えてお名前は記しません)が立候補の届け出をされました。
10月4日の投開票に向けての動きとなるのですが、実態的には「今日まで」にたくさんの連日連夜のマスコミ報道があり、「今日がスタート」だとは思えません。正直な想いです。
今日、立候補を届けられた5人の候補者の方々が告示日以前から様々なところで語られてきていること報道されていることを見聞きさせていただいての私の正直な「想い」を記していきたいと思います。では・・・・
●今回の総裁選の5名の立候補された方々の語りを様々なたくさんのマスコミ報道で聞かせていただいていると、今回も?????「ことば」だけ「原稿の文字」だけが伝わっているような気がしてなりません。
●何かがない、何かが足りないのでは!?
●その足りないものは「何」??
●それはきっと「想い」=「こころ」なのだと思います。
●候補者の方が原稿の文字を読んでいる、そして口にされている言葉の一つ一つを含めて、きっと「ご自身の想い」を前面にだしてのスピーチではないのではと感じています。

挿絵は田中拓馬画伯 画
●自民党をどんな政党にしていくのか、日本をどんな国にしていくのか、そのために具体的に「何をしていくのか」に関してご自分自身の強い想い」がスピーチ・ご発言の源には多分ない、あるとしてもマスコミ・国民が「受けるか・受けないか」を第一の優先度にしての「語り」となっている、のではと感じてなりません。
●だからご自身の「こころ」を横に置いての「ことばだけ」になってしまっているのでは。
●正直な私の想いです。
★「ことば」に対をなし「ことば」の良さをひきだす」、「ことば本来の意味」をひきだすもの、それはきっと「こころ」だと思うのです。
◆そして・・・・
自民党の総裁候補者の方々そして国会の先生方だけでなく、企業の日常でも私たちは実に多くの「ことば」を使っています。(特に社長をはじめとした役職者のみなさん)
◆そして妙な表現をしてしまいますが、「上位者になるほど、『美しいことば」を使っている、使おうとしている「美しいことばを用いるのが役職者」的・・そんなふうにも感じます。
◆「口・くち」というメディアを用いて私たちは「ことば」を伝えている、こう考えてしまうのですが私はちょっと違うと思います。
◆「口で発することば」も、「口」はメディア(=手段)のひとつでしかない、と想うのです。
◆口を使っての言葉がなくとも伝わる、伝えることはできる、のです。
◆「ことば」もメディアのひとつ、です。「ことば」はメディアなのです。
◆日本語での「ことば」は日本人には伝わっても、日本語を理解しない外国の方には伝わりません。
★「何を伝えたい」から、私たちは手段の一つとして「ことば」を用いているのでしょうか・・・・。
●このように考えていきますと、
伝えたいものは「ことば」ではなく「自分自身の考え・想い・感情・・・」。
●私なりのまとめをしますと、
『伝えたいものは「自分の心こころ」である」となります。
挿絵は田中拓馬画伯 画
●私たちは自分の考えていること、想いが相手にうまく伝わらない時、知らず知らずのうちに実に様々なことを試みています。
●「手」を使って訴えかけたりもします。さらに「口」から「耳」にではなく「目から目へ」とばかりに感情(気持ち・心)を自分の目に込めて相手の目をじっと見つめて訴え
る、こんなこともしますよね。
●こう考えますと、「目」も「手」もそして「耳」も立派なメディアである訳です。
◆そんな想いから、40年ほど前に私はメディアと言う英語をダジャレ的に?漢字で「目手耳」と書いていました。
◆目手耳、「め・て(で)・イァー」なんです。。。
◆脱線し始めていますので戻します。
★目とか手、耳だけでなく身体の部位のすべてが人間にとって「自分の想い(=こころ)」を伝えるメディアなんだと思うのです。
★障がいを持たれておられる人は障がいの部分以外のメディアをもっておられる、
★どこかで何らかの手段を使って=身体のどこかをメディアとして自身の想いを表している、
そこに健常者(嫌いな言葉なんですが使います)の人たちが気づけばいい、だけと思うのです。
●「ことば」自体もメディアですし、『人間そのもののもつ各機能(例えば五感機能)』、いいきれば『人間そのものがメディア』であると思います。
●加えて、メディアを媒介として発信側そして受信側のいづれもがこれまた『人間』ですし、各種のメディアを考案し現実化しているのも『人間』です。
★従って、「ことば」と言うメディアを使う時には、『人間(ひと)』を忘れることは絶対にしてはいけないことですし、『人間(ひと)』を大事にしていくことのあたりまえがここからも浮かびあがってくる、と想うのです。
●私自身はできるだけ自分の発する「ことば」を『自分自身を自分をわかってもらうためのメディアにしたい』と想い動き続けております。
●表情から、雰囲気から・・・・そして使う「ことば」からも。
◆できだけ電話で済ますことなく、直接出向いて顔を観て話す、こうしてきています。
★電話から伝わってくる相手の「ことば」から「その瞬間の相手の心の状態」を感じとることは大変に難しいことです。
★でも・・、直接、相手と相対していればその困難さはかなり小さくすることができるはず、こう想ったことが「できうる限り相対する『場』」を多くしていく(電話ですませず直接出向く)自分の今の動きの入り口でした。
★「電話よりは足」を使う、と言うことになるかな、とも思います。
(なんでもかんでもメールで済ませる現代には赤色信号を感じ続けてきています)
◆『言葉足らずで自分の心が伝わらない』、昔からよく聞く表現ですが私は全く逆ではないか、と思っています。
◆つまり、多分『心足らずで伝わらない』のです。
挿絵は田中拓馬画伯 画
◆言葉の豊かさで自分の心を覆い隠すことはできても、またゴマカスことはできても、それは『うそ』。「真実」「真心」を伝えることにはならない、のです。
●そんな(うそを隠すための、うそを真実とするような?)テクニックに走っては絶対にいけない、と思います。
●スピーチコンテスト、じゃないんです。
★「こころの感じられないことば」は
どんなの美しい言葉であっても
聴く人のこころを動かすことはできない
私の強い想いのひとつ、です。
★スピーチのうまい・下手は関係ない、んです。
大切なのは「本気で想っているのか」の「こころ」なんだ
と強く強く思います。
●今からですと何ともう45年以上前に私が私自身の「ことば」と「こころ」に対して作った文章を記して今回のブログの締めにしたいと思います。
ことばを たいせつに していきたいと 思います。
こころを たいせつに していきたいと思います。
わたしの ことばと あなたの ことば。
あなたの こころと わたしの こころ。
ことばは言葉。
きっと まろやかな 葉が あれば
時として とがった形の 葉も あるのだと 思います。
大切に そして 気をつけていきたいと 思います。
あなたに たいする 私の こころを 伝えるための
「こ・と・ば」。
ことばを 誤りますと こころが 誤ってしまいます。
あなたの こころを 考えないと
わたしの ことばが 誤ってしまいます。
こころが あれば ことばを 訂正することは できます。
でも・・・
どんなにうつくしい ことばでも
こころがともなっていなければ
相手の こころにはとどきません
話し方テクニックではなく
必要なのは 自分の こころ。
こころと ことば そして こころ。
ことばと こころ そして こころ。
今回も最終行までおつきあいいただきまして
ありがとうございます。
心のない、本気度がつたわらない
演説・スピーチって
社会の中でも多い、と思います。
どこのだれがこう言っているとか
○○新聞によれば・・・とか
引用が多いとよけいにそう感じてしまいます。
内容は賢くとも言葉は素晴らしくとも
そこには「自分がない」からなのでは、と
想うのです。
そんなことはあなたが言わなくとも
誰か違う人でも言えますよ、
だからあなたはどうなんですか、
なんです。
「自分の想いを自分の言葉で自分の責任で」
改めて心に置き続けようと思います。
ありがとうございます。
にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ 入道(入村 道夫)