しあわせのものさし、『朝』の字からの気づき~生きていることに喜びを。自分への投げかけ言葉<23> | にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ~入道のブログ

にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ~入道のブログ

20年間の苦しくしんどかった体験が私に構築してくれた「私の『生きること・働くことそして経営すること』への『想い』」。それを書き連ねていきたいと思います。

『しあわせのものさし』!!


何時の頃だったか、遡ってみると1990年前後、

今から24年ほど前、リクルート事件のまっただ中

で色々と悩み苦悶していた・・・・

そんな時に改めて自分で決めた?しあわせのも

さしはすごく単純になりました。


朝を迎えられたことに幸せを感じようにして

いこう』、でした。


単純な表現にしますと「生きていること自体」を

しあわせとしよう、生きていることに感謝しよう、と

なりました。


妙な表現になり恐縮ですがし「しあわせのものさ

し」を小さく??した、ことで極端に「不満」が

なくなったそんな気もしています。


その気づきを与えてくれたのが「ひとつの漢字」。

ひとつの「文字」。


それが『朝』と言う漢字であり文字でした。




かつての自分自身への投げかけ言葉たち<23>


   「朝」と言う字が教えてくれる・・・・


 生きている、生きて新しい「朝」を

  迎えられたことに「しあわせ」を

 感じよう!!!感謝していこう!!

                           by入道


    


「朝」と言う漢字。


色々と悩み続けていたある時にこの漢字一文字

をじっと見ていた時にふっと自分のこころに浮か

できたことがあります。


」と言う文字が私の心に語りかけてきたよう

な気がしました。


すごく単純なのです。


漢字の「朝」と言う字はどうやって成り立ってい

るの、そんな想いになって、考えた時、瞬間的

に自分自身もやもやが消え去りました。


」と言う字を分解いたします。


すると・・・・


漢字の「」がふたつ、そして「」と「」がそれぞ

れにひとつずつ。


これで「朝」と言う文字ができているのです。


     


ふたつの「」とひとつずつの「」と「」。


並べ替えてしまいますと十月十日」となります。


じゅうがつとおか。


私が15歳!の時に開催され、授業の一環として

女子バレーを観に行った1964年(昭和39年)の

「東京オリンピック」開会式が行われた日。


この日「10月10日」は東京での「晴れの特異日」

ほとんど雨が降ったことのない日なのでこの日を

開会の日に設定した、と当時聞いた記憶があり

ます。


でも・・・

これでは「しあわせのものさし」を自分で新しくする

「気づき」にはなりません。


そこからなぜ「新しい気づき」に至ることができたの

か。


「十月十日」を「じゅうがつとおか」ではなく

とつきとおか」と読みかえた時に、いきなり気づき

にぶち当たりました。



「とつきとおか」。人間の「標準妊娠期間」です。


そのことから、「十月十日」を改めて眺め、私は、

この日って「新しい命がこの世に誕生してくる時

そのものなのでは、と感じとりました。


生物、動物としての「新しいヒト(赤ちゃん)」が

この世に誕生してくる時・・・。


    


地球上をみて、「ヒト」を動物としてみれば、弱い

存在。別の言い方をしますと「食べる側」ではなく

食べられてしまう側」。


ヒトが単体でジャングルとか、サバンナ、自然界に

いれば強い肉食獣たちに食べられてしまう存在、

これが「ヒト」なんです。


弱い動物たちは生きるための工夫をします。

しています。


それは「単体ではなく『群れ・集団』で生きていく

こと

頭で徹底的に賢く考えて、ではなく、弱い動物の、

「本能」として組み込まれているもの、と思いま

す。


種の保存」のために。


そんなことを考えていくと「しあわせ」の入り口って

「食べられてしまうことなく新しい朝」を迎えことが

できた、「生きていること」そのもなんだ、

そう感じました。


新しい朝をむかえられたこと、今朝も生きていられ

たことへの感謝?


生きていることを感じるのは「朝」。


だから、生きている嬉しさの気持ちが「とつきとお

」、「十」×2+日+月の文字を組み合わせて

「朝」と言う漢字にしたのだ、

私はそんな想いに至りました。


学問的に「正しい」とか「間違っている」とか、

そんなことは関係ありません。


自分自身の「想い」なのですから、自分がそう想

ばそれが正解、それが変わらない私の想いの

です。


新しい朝を迎えられたことに『しあわせ』を感じ

て生きてく、

現代社会では「あたりまえ」、一生懸命に生きてい

なくとも「あたりまえ」に朝はくるもの、

そのな想いで、私自身もこの気づきまでは生きて

きた、生きてきている人たちが今の日本では大半。


「しあわせのものさし」の入り口を「生きているこ

と」そこに置いたらいい、おくようにしよう、

永く気づくことのなかった私に「」と言うたったひと

つの漢字が与えてくれた気づきでした。


そして今でもその想いは全くかわっておりません。


「朝」を迎えられた喜び、しあわせ。


毎朝、感謝・・・・。


      


正月の初日の出に向って拝む、富士山のご来

手を併せる・・・・・

私の祖父・祖母たちの世代は毎朝、太陽に手を

併せていた、その意味合いが自分自身の気づき

によっすっ~と心に溶け込みました。


「朝」と言う漢字が私にくれた気づき

とてもとても大きな気づきとなっています。


   今回も最終行にまでお目を進めていただきまして

          ありがとうございます。


    瞬間的な「気づき」でしたが、この気づきは

     それ以前のとてつもなく長い間の

  悶々とした、悩み悩んでいたことがあったから

       「」と言う文字を見た時に

   自分のこころに「おい、こうじゃないのかな」と

    浮かびあがってきた、そう思っております。


          文中にも書きました、

       「学問的に正しいのか」

    「想い」にはそんなことは関係ない

          と思うのです。


    正しい、正しくない、が大切なのではなく     

     自分がそう想い、誰の言葉ではなく

    自分自身の言葉でその自分の想いが

        表現できるものなら

    それがその人の「想い」として

        生きてくるもの、

          そう感じます。


      今の日本人、前回も記しましたが

 「しあわせのものさし」「満足のものさし」を

   持っていない、見失ってしまっている

         そうも思います。


           だったら

  「しあわせのものさし」「満足のものさし」を

    一人一人が形成していけばいい、

 そしてその自分で決めたものさし実現のために

        何をしていくのかを考え

      考えたら一つずつ行動していく・・・・

       そんな社会にしていけばいい・・・・


      きっと活き活きしてくるのでは・・・。


         ありがとうございます。

  にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ 入道(入村道夫)