週刊ポスト・週刊現代等、3度目?の変身?から想うこと~改めて「心優しい社会の創造を!!!」~ | にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ~入道のブログ

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20年間の苦しくしんどかった体験が私に構築してくれた「私の『生きること・働くことそして経営すること』への『想い』」。それを書き連ねていきたいと思います。

強烈に体に堪えた暑さもほぼ終幕間近。朝晩の風には「涼し

い」の言葉 が似合いはじめてきています。


昨年からちょこっと気にはなっていた、のですが私が毎週買い

求める週刊誌の中で月曜日発売の「ポスト」「現代」

またまたまた変身している、と感じています。


その具体的な理由は「(また)家に持って帰れなくなった」こと。


そんなところから想うところを書いていこうと思います。




 改めて

  誰にでも心やさしい社会を

           創造していきたい



●私が毎週買い求めている週刊誌をグルーピングしてみますと

「3つ」のグループに分けられます。(私の勝手な区分です)


   ①アエラ・ダイヤモンド・東洋経済など

   ②朝日・読売・毎日・新潮・文春など

   ③現代・ポストなど


●この区分・区分けはなんなのでしょうか。


●読んだ後で「誰に渡すか」「誰に渡すことができるか」のグル

ピングです。


   ①は朝買い求めて電車の中とか仕事途中の喫茶店とかで

    読み終えてお会いさせていただくビジネスマンの方に

    渡すことのできる週刊誌群

  

   ②は帰宅前に駅などで買い求めて帰宅の電車の中で読み

    終えて自宅に持ち帰り家族も一読する週刊誌群


   ③は情報収集の意味で買い求めはするものの、どこで開い

    て読む(見る?)のかに先ず悩み、読み終えると今度は自宅

    に持って帰ることができず、処分に困ってしまう週刊誌群


●問題は前記の③群週刊誌。その過激なグラビア写真過激な

特集タイトル、更にたまに付く袋とじページの存在。



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●ポストも考えてみれば、創刊の時(1969年)からずっと購読している

週刊誌ですが最初はかなり「ビジネス週刊誌」色彩の強い、

いわば「硬派の雑誌?」だったと思います。

でも・・・・高度成長・バブルに連れ国際線飛行機の機内には

置かない(置けない)雑誌に変わってしまいました。


★それがバブルの崩壊その後の社会の変化に連れて、2003年

には過激な写真は姿を消して家にも持って帰れる雑誌に変化し

いました。


週刊ポストからヘアヌードが消え去ったのでした。

そしてその時に公になったのが「家庭に持って帰れる週刊誌を

目指します」、これが方針として提示されました。


●が・・・・・。時は移り状態が、方針がまたまた変わったのでしょう

か、昨年あたりからまた復活・・・

そして過激化(ネットと競っている?)。

女性器特集なども組まれ、とても家にもって帰れません。


★ポスト、現代の2誌の編集方針に対しての想いを書くことが今回

目的ではありません。


◆「今回の「想い」の対象はポスト・現代であたりまえになってきて

いる「ヘアヌード写真」。


●ネットの当り前化に連動するかのようにヘアヌードは今ではある

意味あたりまえになってしまっていること(感覚が無くなってきて

いる)自体がおかしい、のではと想うのです。


●「性」「快楽」「暴力」攻撃」

       そして「自己本位」「興味本位」「殺傷」・・


◆何時頃から日本はこんなになってしまったのでしょうか。


もしかしたら

近年そして現在の「日本人の心の乱れ」はヘアヌード・

解禁の風潮と関連がある、のでは・・。

そんな仮説をたてて調べてみました。


◆ありました!!!時期としては「1991年、平成3年」です。

この年の流行語『地球にやさしい』と『ヘアヌード』。

(この組み合わせ自体に違和感を私は感じます!!)


◆この年に発売された写真集「Water fruit」(樋口加南子

写真集)陰毛がはっきり見えていたが当局からおとがめなし、

これをきっかけとして、これを皮切りとしてヘアヌード写真が氾濫し

始めました。


◆バブルが弾け、人々の心が荒み始め、短絡的・瞬間的な快楽

追い求めるようになり、やるせなさ・殺伐さ?が漂い始めていた時

でもあります。


◆国際的には湾岸戦争が勃発し、ソ連が崩壊・・・。一方、国内

では芝浦にジュリアナ東京がオープンし、茶髪が初めて登場し、

離婚隠し事ではなくなり、バツイチの言葉が息をし始めても

います。


日本人の心の変化(マイナス方向への変化と言い切りたいと

思います)にこの1991年(平成3年)は大きな位置を占めて

いると私は感じています。


★そして、ポスト・現代が再び・・・の今、

何か状況的に1991年近辺に似ているようにも想います。


●そして、こんな風潮に拍車をかけた(かけている)のが

インターネットと携帯電話・スマートホーンの

「ルールなき普及と低価格化」だと思います。


●いつでもどこででも・・・・。

インターネットの売り物となっている言葉でありますが、この言葉、

現実は「相手無視」の「自分勝手(自己本位)」な動きを増大

することにもなってしまっております。


●電話だったら緊急以外には絶対にかけない深夜時間帯で、

携帯・スマホそしてパソコンで、今どれくらいの人間がやりとりを

しているのしょうか。


★そんなふうに考えていくと

1991年はもしかしたら「眠らない化」への入り口であったのかも、

考えてしまいます。



◆オールナイトニッポンなどの「深夜放送」を聴いているのは受験

だけ。

ふつうの人たちは明日の心地よい目覚めのために別途で眠りに

就いいた時間帯。


◆現在はどうでしょうか。


★電力不足、節電を心がけよ、と騒ぎながら、

テレビ各局は深夜問わずの終日放送・・・・。しかもBSなどが加わ

ものすごいチャンネル数での放映。


★何かがやっぱり「おかしい」本気でそう想います!!!!!!!


★「やるべきことなのか」「やってはいけないことなのか」

判断よりも「できるのか」「できないのか」が先にきてしまって

いる社会。


★こうすればできる、の情報もまたネットの世界でいたるところに

わんさか。なのに、それは「やってはいけないことなのか」「やって

いいことなのか」の注意と警鐘を誰も声にしていない、

教え合っていない、のだと感ずるのです。


●人間は生まれてからひとつひとつの体験を通して「いい・悪いの

認識」と同時に「生き方」を学んでいくもの。


★その「過程」と「師」がない、のです。


★バーチャルの世界と実の世界の混同状態。


★改めて

「こころやさしい社会創造」が必要で不可欠だ、と想います。



    今回も最終行まで目をお運びいただきまして

            ありがとうございます。


  こんなこと想うのは私だけなのかもの気持ちありましたが

    自分の想いですので書かせていただきました。


     ちなみに今週のポストも家に持ち帰ることなく

        そっと処分をしてしまいました・・・・。


    にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ 入道(入村 道夫)