8月10日
「家、家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす。」
車は広い湾に沿って走った。細かく砕けた海面には、重く複雑に膨らんだ雲の隙間より洩れ出た陽光が円い黄金の溜まりを作り、雲の流れにつれて移動してきて、やがて私を包んでしまった。私は眩しさを感じないのに目を細めた。運転席の母はペットの体調について喋り続けている。その風景は何かのようだった。何ものでもない何か。車はコーナーを折れて内陸を目指した。海と言葉は置き去りで。
8月8日
俺が本気で凹んだ時の話だけどな、こき使われてボロ雑巾みたいになって家に帰った。その日怒鳴られたってのもあって家に着いた時の気分は覚えてないが、テレビつけたんだよ。テレビつけたらな、天気予報やってたんだ。んでさ、世界各地の天気予報見たら雨の地域が沢山あったんだ。でも日本は晴れだった。あの時の気持ちは忘れない。嬉しかった。他に雨の地域があるのに俺は晴れだと言うだけで。これ位追い詰められたことがあるか?天気予報で笑ったことがあるのか?
俺はその頃も今も孤独な男だが、一つだけ誇れることがある。必死だった。いつだって必死に生きてきた。たまにしか笑えなかった。それでもたまには笑って生きてきたんだ。
明日も雨だし明後日も雨の予報らしいな。でもその内絶対晴れる。笑えよ。
7月25日
取るまいと思っていた電話を、目が覚めると取っていた。
布団の上に仰向けになった私は、ガラス窓込しに差し込む陽に焼かれて受話器を耳に押し付けていた。寝ぼけたふりで、私はろくに返答もしなかった。かすれ声で。
“あいかわらず忙しいの?”
肯定とも否定ともとれない呟きで私は答える。
“そう。大変ね。”
声は感情を押さえて、揺れる。
“今日も、暑いよ。”
受話器を戻すと、時計のベルがけたたましく鳴り出して、私は混乱する。
目蓋が痛む。カーテンには風がない。
着替えて外へ出た。
歩道を歩き出すと途端に汗が滲み出し、厚い雲は空の高い所を動いていく。信号が青になり、回転を増すタイヤが塵芥を巻き上げる。街が音にむせ返る。重く怠惰な足に強いて歩道橋を上がっていく。階段の影になっている部分が黒く湿っている。昨夜まで、三日間雨が降り続いていた。腐ったものの臭いが配水管から湧き上がり、何百羽という雀が屋根を跳び回るような音も騒々しく、私はラジオのスウィッチをつけては消し、自分自身のことしか考えなかった。等閑な自慰はうつろで、何も変えはしなかった。
睡眠薬に酔って眠ると夢を見た。
私が泣いていた。慰めている者、嘲っている者も私だった。
そして、そこへ銃弾を撃ち込むのも。
駅の構内の喫茶店で珈琲を啜ると鼻血が滴り、カップに落ちた。
女がやってきて私の腕を取った。
“もういいの?みんな、大丈夫?”
今日も、暑いよ、と私は言った。それは全て私がそう望んだのだ。