【無方庵余滴(続)【耳汚(にぜん)雑話】「今を生きる」盛田正孝老師(2024、08、02)

 

今を生きる、人間は、【即今、此処、自己】、【今、ここで、私が】この三点で生きるだけ。
今以外で生きることは出来ない、今が二つとない。
 

【明日、あそこで、】生きることは出来ない。
頭の中では、出来るかもしれないが。明日が来て初めて、明日が今になる。

今を生きることが大切です。 その今を大切に生きるいる人が少ない。
未来は体験出来ない。私が居るのは、過去でもない、未来でもない
今ここでしか生きられない、今を生きる。

【即今、此処、自己】の一瞬一瞬を生きることしか出来ない。
この一瞬は、例えれば手を叩く一瞬でもある。

道元禅師は言う、一方、流れない時もある。それは、実体験を伴う時である。
動かない時である。現在居る時も、過去の実体験から生きている。

定年退職したりリストラに遭い、それが崩壊する時が来る。未来も無くなる時も来る。

将来の希望も夢も無くなる時が来る。それが人の根源的悩みである。

「夜と霧」の作者である、ビクトールフランクルは言う、何の根拠もない遠い将来に希望を持つのではなく、

一番近い所に自分の心をセットする。そこは今を生きる禅と似ていだ。

過去の実体験の集積が自分を救う、そういう時がある、実体験の時という、流れない時がある。
そういう時を生きている。道元禅師は「仏もまた時なり」と言う。

必ず何かしている【今】がある、私の居る所、身体が動いている所を大事に生きて行く、

日常を実践して行く、それが尊い【今を生きる】と言う事である。

                  (盛田正孝老師ユーチューブ聞書き要旨)

 

※「有時」はお釈迦様の言はれた『無常の実物』の話、これを道元禅師は有時と言った。

(追補、内山興正老師のユーチューブ講演から)

 

【無方庵余滴】

●仏祖も用は無くなりました。(無心に今を生きるのみです。)

 

▲神通並びに妙用、水を荷(にな)ひ也(ま)た柴を搬(はこ)ぶ。(禅林句集p267)
(真の神通は日常動用の上にあり。)
 

▲元の身は元の所へ帰るべしいらぬ佛を尋ねばしすな。(一休和尚)
                                 
▲截断仏祖
  吹毛常磨
  機輪転処
  虚空咬牙
    (大燈国師遺偈)
 

△仏祖を截断して、
 吹毛常に磨す。
 機輪転ずる処、
 虚空牙を咬む。

 

 

【無方庵余滴(続)【耳汚(にぜん)雑話】坐禅のことは坐禅に聞け、渡辺一照老師(2024、07 、26)

 

【①禅、②学び、③生き方】

 

①【禅は生き物】、生命体。常に周りの環境に適合して生きて行くために、

自分を乗り越え、更新して行こうとする力を持っている。

 

本で読んだ禅は、生き物が動いた後の足跡。学者ならそれを思想として学ぶのも良いが、

そこには禅を学ぶ当事者が、置き去れてしまっている。

 

禅を生きようとする当事者は、内側から探究しようとするが、そこには学問のような正解は無い。

が、かえって、その生き物的生き方に、禅に惹きつけられるが魅力がある。

 

②【学ぶ】、一般的学びは教科書を使って学ぶが、禅はhow-toものの学び方では無い、生き物のliveが後ろにある。

禅は学問的学びでは無く、修行の「行」の実践であり、行者の道なのです。

 

「賢くない今の自分が+(方法を駆使して)―→賢くなろうとする」のは、

賢くない今の自分が考えた幻想の賢さを積み上げた賢さで、何も良くなっていないし、役に立たないものとなる。

周りに迷惑な人が一人増えるだけである、賢さを付け加えるのは仏教の教えでは無い。

 

③【生き方】人は、「身(動作)・口(話す)・意(考える)」の三業で、人生を紡ぎ出しているが。

仏教の修行は、三業で生きている自分を、反省して、自分の馬鹿さ加減をよく知ることである。

日頃常に動き回る人間の動きを、一旦坐禅により日常の動きを止めてみる。

それによって、落ち着きがなく、思い通りにいかない自分を見つめて行く功徳が坐禅にはある。

 

従って、坐禅による生き方を学ぶとは何かと問えば、「坐禅のことは、坐禅に聞け」が一つの禅の生き方になる、

そこで今坐禅中に何が起きているか、ソワソワ落ち着きのない自分を見つめるのです。

人は自分が考えていることと、現実を混同しているところがある。そこを腑分けして、今居る現状を味わうことです。

 

坐禅は「こうした方が良いよ」とか、現状を変えるアプローチすることではなく、

現成のままに留(とど)まりそこを味わうことにある。

坐禅は理想の自分を実現する方法ではなく、自分の現成をしみじみと知るための機会を与えてくれるものである。

 

身体は【大地(床と地面)、大気(空気の出入)、心(眼耳鼻舌身意の六感覚)】の三点で接触している。

そこを調和・調律・探究して、これを前提に普段は生きている。これが「命の事実」であり、

オレのことを止めた時の最小限に共通した原点である。

 

普段は何者かになろうとして、暴走して身体は「放逸」状態にある、放逸とは、言わば酔っ払い状態。

ブッタ最後の説法は、「不放逸」にして修行を完成させなさい、と。

 

禅は、常識を押し付けられたり、単純に鵜吞みにしたり、先入観を持つこと無く、呪(まじな)いになることなく、

「いのちの事実」に素面で生きる。当たり前で生きるのを深く味わうのが、幸福に生きるの仏教の教えである。

 

【沢山の豊かさを「持つ」】のではなく、【豊かに「在る」(既に与えられ存在する)】豊かさを味わうのが坐禅。

 

道元禅師に云う「学道の人は須らく貧なるべし」とは、既に与えられているこの豊かさにある。

よって、答えは全て坐禅にある【坐禅のことは、坐禅に聞け】となる。( 『只管打坐』筆者加筆)

   

       (2022年3/15禅をきく会ー曹洞宗、渡辺一照老師、講演聞き書き要旨)

 

【無方庵余滴】

▲空手還郷 眼横鼻直 「現成公案平生底。『真っ直ぐ、正直、当たり前』。只管打坐(息と一つに成る)。」

 

▲仏祖に用はありません、即今只今、無心に生きるだけ。 (二つと用無し)

 

▲生の禅、活禅は【境界】を育てることだ!『直心是道場』 (無縄一如)

 

▲その人固有の実体験は、時を流れることは無い。そこを基に、

今ここで私が何かをしている、この身体をもって何かを実践している。

身体が在る処が今。そこにおける「仏作仏行」一挙手一投足『一動作一注意』!丁寧に。

時が流れることが無い処、道元禅師は「仏もまた時なり。」と。

 

▲有時高高峰頂立、有時深深海底行・・・

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有は時なり (道元禅師)

 

▲丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり、いまの十二時に修学すべし

三頭ハ臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし  (道元禅師)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【無方庵余滴(続)【耳汚(にぜん)雑話】道元「無師独悟の季節」中島尚志(2024、07 、19)

 

如淨から道元への面授は、遠く慧可から達磨へ、達磨を経て釈尊にまで連なっている。・・・

これは、まさに時間的共同体験の隙のない連なりである。

 

しかし、仏の証は、単に面授によって、真の師との出会いによってのみ成し遂げられるものではない。

かぇって「仏の印証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟する」のである。(『正法眼蔵』「嗣書」)

「あるいは経巻にしたがい、あるいは知識に従いて、参学するに、無師独悟する」のである。(法性)

 

如淨の面前での道元の大悟は、これを道元からみるならば、無師独悟であり、無自独悟であった。

すなわち、師もなく、さりとて、己もないところで、ただ悟りだけが起こるのである。・・・

 

一つの全的存在となることは、決して私のわざによることではないとは「無師独悟」にほぼ対応するであろう。

ただ道元は・・・仏にも、しかと予見出来ない「恁麼時(いんもじ)の而今(にこん)」(悟りの一瞬)を強調する。

 

「我も不知、誰も不識、汝も不期、仏も不見」(『正法眼蔵』「谿声山色」なる時節到来の時のみが、

無師独悟、無自独悟の季節である。嫡々相承しながら、師も弟子も共に意識しているわけではなく、かえって、意識されない意識下の意識底のおいて正法は伝えられていく。しかも仏祖すら、弟子の悟りの一瞬を如何ともし難いのである。

 

ただ弟子が、まさに悟りを開かんとする一瞬を捉えて――それも決して意識的にと言う事でなく、

全身的な働きとしてと言う事であるが――その機を与えるのみである。(啐啄の機)

・・・・・・・・・・・・・・・

釈尊の「拈華(ねんげ)」は、摩訶迦葉の「微笑(みしょう)」を期待して拈華したのではないが、

忽然として微笑した迦葉はその一瞬に大悟して、正法を受け継いだのである。

 

嗣法しようとして受け継いたのではない。、無師独悟、無自独悟した結果、正法を受け継いだのである。

「破顔微笑」この四文字に対応する具体的な生活事実が、摩訶迦葉の、師なく己なき独悟のすべてである。

 

そして、道元の身心脱落もかくのごとくであった。

 

【無方庵余滴】

▲世尊不説の説、 迦葉不聞の聞。(禅林句集p370)

世尊は無言のままに大法を説く、また、迦葉は聞かずに、微笑だけで大法を受け継ぐ、微笑の妙消息。)

 

▲君看よ此の花枝(かし)、中に風露(ふうろ)の香(かんば)しき有り(禅林句集p253)

  (花枝を心、風露の香は妙理に喩て云う。)

 

●言う事の要らない日、寂でもない静でもない。独り来て一人逝くでもない、

宗教と云う事とは少しも関係は無い。そんな煩わしい倫理性道徳化の指導化は少しも混入しない。

言う事の要らない今日。

 

▲伝えたいのは
思っているけど
言えないこと

言葉にできないけれど
わたしのこころで
立ち昇る
ひとすじの
青い意味の火柱

届けたいのは
感じているけど
語れないこと

声にならないけど
わたしのたましいを
つんざく ひとすじの
銀色の慟哭と
黄金の沈黙

   (若松英輔)

 

 

 

【無方庵余滴(続)茫茫記】十牛図第十則「③入鄽垂手の和」(2024、07 、12)

 

  和する

 

▲者(こ)の漢 親しく異類より来たる

この男は、畜生の世界から舞い戻って来たに違いない、

親しくは、自分から、人間世界から見ると別の世界、畜生の世界、三界六道、

地獄餓鬼畜生これが三悪道、修羅人間天道これを三善道と説明されるが、人間以外の処これは異類になる。

 

ここでは畜生道の世界をいう。この男は異類の世界から人間界に戻って来た人だ。

牛となって自分を探し回っていたけれど、やっと人となり人間世界に戻ってくることができた。

 

十牛図、第一尋牛、第二見跡、第三見牛、第四得牛、第五牧牛、第六騎牛帰家(本来の自己に戻る)、

第七忘牛存人(牛を忘じてしまう)、第八人牛俱忘(周りの人とぴったり一つ、空の世界・円相・真空無相)、

第九返本還源(円相の世界から一歩を踏み出す)、

第十人鄽垂手(街に入る、社会の中に入って行って手を垂れる灰頭土面、上求菩提、下化衆生、衆生済度)

ここで初めて出来上がったと言える。

 

この男は、親しくは自分から、人間世界から見ると別の異類の世界に入って、

牛となって畜生の世界に入り牛とぴったり一つになって、そしてまた異類の世界から人間世界に戻って来た人だ。

 

最初から牛でなく、自分から発心をして一度異類の中に入った、自分自身が願心(尋牛)を立てて異類の中に入った。

願心を立てて自分自身を探す修行に出た。初めから異類であった訳ではない。

 

▲分明なり 馬面(ばめん)と驢腮(ろさい)と

紛れも無く、間違いなく、馬ずらと驢馬(ろば)の顔だ。これは間違いなく異類であった証拠だ。

頌で曰く、顔中灰だらけである、けれどもにこやかに笑っている、布袋さんのようだ。

 

自ら異類の世界に入りそこで修行をして一度は牛に成り切って、自分と牛とぴったり一つになったところで、

人間界に戻って来た人である。一度異類の世界に入り、切った張ったの修行を重ね人間界立ち還って来た人だ。

その上での働きを云うのである。

 

▲鉄棒を一揮(き)して 風の疾(はや)きが如く

頌の神仙の真の秘訣を用いずに対し、あの牛頭馬頭の鉄棒を、風のように一振りするだけで、

鉄棒を一振りすれば、地獄の獄卒達が振り回している鉄棒をハヤテのごとくブンと一振りすれば、

無位の真人を気が付かせてくれる。

 

▲万戸千門 尽く擊開(げっかい)す

どんな家の表も裏も全部叩き破ってしまう。そういう働きを得たものになる。

真空無相の処に立ち止まって中を伺っているわけでなく。そこから一歩踏み出し、こういう働きを示すのだ。

これが真の出家者、真にお悟りを得た人と言う事になる。それが本当の無位の真人の働きというものだ。

 

十牛図第一から第七忘牛存人までは魑魅魍魎の世界畜生の世界に入り込んでいるが、そこから第八人牛俱忘の無位の真人に到達するわけになる。そこからが本来の自己に立ち還った処だが、そこでこれで良しと、空の世界にたちどまってしまってはこれはもう断見だ。

 

これでは折角のものを活かすことは出来ない。無位の真人(真空無相)に気が付いたけれど、その働きを使わなければいけない。

返本還源、人鄽垂手と繋がなければならない。そこで初めて完成されたと言うものになる。

 

十牛図第一の尋牛から第七忘牛存人までから、第八人牛俱忘で無位の真人に到達することになる。真空無相、円相の世界で得た処で、空の体というものを自覚するわけである、一切は空であると。

 

これは般若心経で言う処の色即是空、空というものを自覚してその上で第九返本還源と言う処に行くわけだが自覚してそこに閉じ籠っていてはいけない。今度はそれを使い切る。色即是空の処で立ち止まるのではなく、今度はそこから空即是色! 一切は空だそこから一切は色の世界へと。

 

元々空も色も区別は無い一つのもの、只その働きを自分でしっかりと自覚する。色即是空、空即是色、返本還源という処は真空妙用(ゆう)、一切は空というけれども、そのには一切の形がある。無相がそのまま妙用。

 

真空は無相であるけれどもそのまま妙有でもある。二つに分けて考える事では無い一つのものだ。空はそのまま色。

色即是空、空即是色・・・無相というものがそのまま妙有である。有であるけれど無である、無であるけれども有である。一つのものとして自覚をする。本来の自己に還る。ここまではいわゆる仏教学、教相哲学の世界である。

 

只哲学の世界に閉じ籠ってこれで良しと言う事では無い。さらに第十番目人鄽垂手があるわけだが真空妙用の用の働き、無位の真人の働きをを示したところで、入鄽垂手そこを自覚出来て初めて出来上がったと、終わったわけでは無い。

 

第十番目の入鄽垂手の働きとは、報いを求めないでやるべき事をやる。初めから報いを求めないで自分自身のやるべき事をやる、只無心に働く。

 

▲【無作の妙用(ゆう)】というけれども禅宗の世界では大事な処である。十字街頭、灰頭土面となって衆生済度する事がそのまま遊戯三昧の世界であり、これが観音の菩薩行と言われる。衆生済度、上求菩提・下化衆生を実践する。只実践する。そういう世界に生きる。そこでこそ初めて修行が出来上がった。

 

衆生無辺誓願度・・・を掲げ一旦は畜生の世界に入り込んで修行するわけだが、それが終わったら閉じ籠っていないで、

新たに外に出て行ってそれを示す。何か報いを求めるのではなく、そういうものを離れて只!やるべき事をやる。

 

只無心になって働くそれが大事だ、【無作の妙用(ゆう)】。四弘誓願、衆生無辺誓願度・・・!誓って仏道の道を成し遂げる。こういう願心を振るい立て異類の道に入り込む。

 

そこを鍛えて行って初めて人鄽垂手と言う処に立ち還る。この間親しく異類より来る。・・・・自分自身を全く無くしてしまう。只人の爲、仏の為、その働きにも執着をしない。

 

【無方庵余滴】

▲無作の妙用(ゆう)(碧六ニ)(禅林句集p68)

(亡我の行為が自ら妙理に合するをいう。)

 

▲截流(せつる)の機有りと雖も、且つ随波の意無し。(眼目)(禅林句集p308)

(見性の眼は出来たのであるが、衆生済度に出る意のない聲聞の徒ではだめだ。)

 

●巧匠跡を留めず。(碧八八)(禅林句集p86)

 (達人は無心ゆえ、行じて行相が無い。)

 

●只!無心に働くだけ。仏祖も用はありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【無方庵余滴(続)茫茫記】十牛図第十則「②入鄽垂手の頌」(2024、07 、05)

 

【頌に曰く】(慈恩和尚)

 

△胸を露わし足を跣(はだし)にして 鄽(てん)に入り来る

(かれは、やせ衰えた胸を露わし、素足で市(まち)にやって来る、)

赤貧の生活を表し、貧しい格好で市にやって来る、何も隠すものは無い。

胸をはだけ、素足で市(まち)にやって来る、まるで布袋和尚のようなものだ、

そして酒屋さんや魚屋さんを自然に感化して成仏せしむ。

 

さらに前賢の途轍(足跡)に背き、自分の姿をすっかり埋めて隠してしまい、自由自在に生きている。

何ものにも囚われることは無い。四弘誓願(衆生無辺誓願度・・・)の働きとなっている。

 

輝きを隠し袋を持ち布袋さんのようであるが、その境界は窺い知ることは出来ない魅力がある。

自然に周りに人を感化してしまう、何かがある。雰囲気を漂わせている、器量がある。ただの浮浪者では無い。

先徳の昔の祖師方の歩いた道そのままを拒否して、同じ道を行くことをしない。

 

△土を撫(な)で灰を塗り 笑い顎(あぎと)に満つ

(砂塵にまみれ、泥をかぶりながら、顔じゅう口のようにしてニコニコと語りかける。)

十字街頭、灰頭土面のところで働きを示す。布袋さんのようである。中国の歴史上の禅僧、布袋さんの袋の中には日常の生活用具入れている。杖をもって市を歩き、貧相な恰好をしているが、何と無しに人をして仏の道に誘い込んでいる。

 

△神仙の真の秘訣を用いず

(仙人の隠し持つ秘術などは使わず、)

神仙の秘訣に頼らない、用は無い。神仙の秘訣(天に昇る秘術)はたとえ父と子であっても、

その極意は伝えない。自ずと自分で勝ち得るもの、築くもの。

 

△直(た)だ古木をして花を放って開かしむ

(ただ古木に花を咲かせる。)

無駄な事であっても、こうしなくてはならない。ということに束縛されない。前賢の途轍(足跡)に背く。

ただ、布袋さんのような恰好をしているが、古木に花を咲かしている。

 

神仙の真の秘訣を用いず、市中の人を済度して、みなを仏の道に導いている。

ただ無駄な事を一生懸命やっている。妙なものは無い。衆生済度を楽しんでいる。

 

十番目の「入鄽垂手」、手を垂れて仏の道に導いている。特別な秘法を使って遣るわけでは無い。

ただ、自分が仏の道を実践している。下化衆生に生きる。人々のために働くことが、遊戯三昧の境界となっている。

 

四弘誓願を念じて衆生のために一生懸命努力する。入鄽垂手ということは十字街頭の所で、灰頭土面の働きをする。

他の人々のために働くことが遊戯三昧となっている。

 

△土を撫(な)で灰を塗り 笑い顎(あぎと)に満つ、

そういう生き方をする。こうすればこういう効果があるというものを、求めてやっているわけではない。

そういうものを離れて、捨ててしまって、一生懸命に努める。市聖人、市(まち)聖人と言われる。

四弘誓願門を成じて、十字街頭の所で、灰頭土面の働きをする。

 

▲他の痴聖人を傭って、雪を擔(にな)って共に井を填む(毒語心経)(禅林句集p292)

 

無駄な事ではないけれど、一生懸命続ける事、努力する事、人の爲に一生懸命働くという事。

布袋和尚の頭仏陀袋に何が入っているか分からないけど相手次第で袋の中から色々なものを取り出してくれる。

 

相手の器量に依って済度する、与えるものが違ってくる。究極の禅の境地だ。

衆生済度が遊戯三昧の生活になっている。布袋様のような生活になっている。

交わった人々に色々なものを示してくれる。報いを求めないでやるべきことをやる。

 

無心なってやる、これが【無作の妙用(ゆう)】これが一番大事な事だ。他の痴聖人を傭って、雪を擔って共に井を填む。労して巧無し、毎日の日展掃除のように汚れてなくても落ち葉が落ちてなくても心を込めて掃除をする。

掃き清める。不断の努精進無作の妙有「大変だ大変だ!」とは言わない。「無位の真人」の働きだ。

 

ここまで行って自分自身に気が付いた。自分自身の本心というものに気が付いた。

そこまで行って初めて「お悟りを得た」と言う事になる。

 

入鄽垂手の序の処、無駄事のように見えるけれど決して無駄事ではない。

ただひたすらに続けるということこれが大事、効果など最初から捨て去っている。

 

自分のこういう生き方というものをしっかり持つ。自分がそれをやり遂げる、それが灰頭土面の働きとなる。

だから何だ!などと、つまらない事は言わない。

 

【無方庵余滴】

▲機位を離れざれば毒海に堕在す。(碧廿五)(禅林句集p206)

(悟りという一つの位(くらい)に滞れば、又是助からぬ死物。世を毒し海のごとく大になる。)

 

●直指人心見性成仏、巧匠跡を留めず、「露」(天下皆知る)