【無方庵余滴(続)耳汚(にぜん)集】坐禅のことは坐禅に聞け、渡辺一照老師(2024、07 、26)
【①禅、②学び、③生き方】
①【禅は生き物】、生命体。常に周りの環境に適合して生きて行くために、
自分を乗り越え、更新して行こうとする力を持っている。
本で読んだ禅は、生き物が動いた後の足跡。学者ならそれを思想として学ぶのも良いが、
そこには禅を学ぶ当事者が、置き去れてしまっている。
禅を生きようとする当事者は、内側から探究しようとするが、そこには学問のような正解は無い。
が、かえって、その生き物的生き方に、禅に惹きつけられるが魅力がある。
②【学ぶ】、一般的学びは教科書を使って学ぶが、禅はhow-toものの学び方では無い、生き物のliveが後ろにある。
禅は学問的学びでは無く、修行の「行」の実践であり、行者の道なのです。
「賢くない今の自分がプラスして(方法を駆使して)→賢くなろうとする」のは、
賢くない今の自分が考えた幻想の賢さを積み上げた賢さで、何も良くなっていないし、役に立たないものとなる。
周りに迷惑な人が一人増えるだけである、賢さを付け加えるのは仏教の教えでは無い。
③【生き方】人は、「身(動作)・口(話す)・意(考える)」の三業で、人生を紡ぎ出しているが。
仏教の修行は、三業で生きている自分を、反省して、自分の馬鹿さ加減をよく知ることである。
日頃常に動き回る人間の動きを、一旦坐禅により日常の動きを止めてみる。
それによって、落ち着きがなく、思い通りにいかない自分を見つめて行く功徳が坐禅にはある。
従って、坐禅による生き方を学ぶとは何かと問えば、「坐禅のことは、坐禅に聞け」が一つの禅の生き方になる、
そこで今坐禅中に何が起きているか、ソワソワ落ち着きのない自分を見つめるのです。
人は自分が考えていることと、現実を混同しているところがある。そこを腑分けして、今居る現状を味わうことです。
坐禅は「こうした方が良いよ」とか、現状を変えるアプローチすることではなく、
現成のままに留(とど)まりそこを味わうことにある。
坐禅は理想の自分を実現する方法ではなく、自分の現成をしみじみと知るための機会を与えてくれるものである。
身体は【大地(床と地面)、大気(空気の出入)、心(眼耳鼻舌身意の六感覚)】の三点で接触している。
そこを調和・調律・探究して、これを前提に普段は生きている。これが「命の事実」であり、
オレのことを止めた時の最小限に共通した原点である。
普段は何者かになろうとして、暴走して身体は「放逸」状態にある、放逸とは、言わば酔っ払い状態。
ブッタ最後の説法は、「不放逸」にして修行を完成させなさい、と。
禅は、常識を押し付けられたり、単純に鵜吞みにしたり、先入観を持つこと無く、呪(まじな)いになることなく、
「いのちの事実」に素面で生きる。当たり前で生きるのを深く味わうのが、幸福に生きるの仏教の教えである。
【沢山の豊かさを「持つ」】のではなく、【豊かに「在る」(既に与えられ存在する)】豊かさを味わうのが坐禅。
道元禅師に云う「学道の人は須らく貧なるべし」とは、既に与えられているこの豊かさにある。
よって、答えは全て坐禅にある【坐禅のことは、坐禅に聞け】となる。( 『只管打坐』筆者加筆)
(2022年3/15禅をきく会ー曹洞宗、渡辺一照老師、講演聞き書き要旨)
【無方庵余滴】
▲空手還郷 眼横鼻直 「現成公案平生底。
『真っ直ぐ、正直、当たり前』。只管打坐(息と一つに成る)。」
▲仏祖に用はありません、即今只今、無心に生きるだけ。 (二つと用無し)
▲生の禅、活禅は【境界】を育てることだ!『直心是道場』 (無縄一如)
▲その人固有の実体験は、時を流れることは無い。そこを基に、
今ここで私が何かをしている、この身体をもって何かを実践している。
身体が在る処が今。そこにおける「仏作仏行」一挙手一投足『一動作一注意』!丁寧に。不放逸!
時が流れることが無い処、道元禅師は「仏もまた時なり。」と。
▲有時高高峰頂立、有時深深海底行・・・
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有は時なり (道元禅師)
▲丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり、いまの十二時に修学すべし
三頭ハ臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし (道元禅師)