黒瀬深氏 頑張ったとかじゃないんだ、結果を出すしかないんだ。
今ね、黒瀬深氏に夢中です。
彼のツイートは、しれっとひどいことをつぶやく、弱者や敗者に対する共感が一切なく、国民が格差拡大の中で、貧困化している人が多くいるのに、勝っている人たちだけでこの国が今後もうまくいくと思っているのだろう。
以下のツイートが、安倍支持派の大方の考え方なのだろうか。

黒瀬 深
@Shin_kurose
何でもかんでも国のせいにする負け組に共通するのは「私は頑張ったのに」が口癖な点です。頑張ったとかじゃないんだ、結果を出すしかないんだ。 どれだけ楽してようが「結果を出せば勝ち」なのです。それに気付けば人生はずっと楽になる。考え方さえ合ってれば、努力など全く要らない。
午後7:50 · 2020年8月1日·Twitter for iPhone
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https://twitter.com/Shin_kurose/status/1289513739792744448
これが、彼の心の核にある考えなのでしょう。負け組(何でもかんでも国のせいにする負け組)とのレッテル張りというのはどうかと思う、負け組の中には何でもかんでも国のせいにする人がいるのだろうか?おそらく、国のせいにするのは、根拠があるのだろうし、何でもかんでも国のせいにするようなことは実際していないと思う。
負け組とされる人たちの言い分を聞くこともしないで、ステレオタイプのイメージを拡散するという、デマッターの黒瀬深氏のやり方がひどすぎる。
黒瀬深氏が支持する安倍政権はどのような結果を出したのだ。
安倍首相は責任を取るべき国のトップであるのに、あらゆる問題(森友学園問題、加計学園問題、議事録・統計データ改ざん問題、河井夫婦問題、新型コロナ対策)が噴出しているにもかかわらず、コロナの陽性者が増加がはっきりしてきている今も、国会を開こうともせず、記者会見も開こうともせず、安倍人脈ばかりが潤い、多くの庶民の生活が脅かされているという結果もひどいではないか。
結果を出していない安倍首相を、野党よりましとかいう(仮定・妄想)だけで、現在出ている安倍政権の結果を無視するってのは、ダブルスタンダードではないか。
安倍友であれば、国から便宜が図ってもらえるってのも、結果だけ見れば、彼らは成功している(勝ち組)と言えるえるわけだが、負け組は指をくわえて、黙ってろっていうのか。
「考え方さえ合ってれば、努力など全く要らない。」ってのは、安倍政権と考え方(思想)が合ってれば、努力などせずに勝ち組って言ってるように取れる。全く努力しないものが、勝ち組となる社会をおかしいと言えない時点でおかしいと私は考える。
彼がどのような考えの持ち主か、刮目して、ツイートを見るべきである。
欧米は、良くも悪くも、キリスト教の「(絶対者である)神の下の平等」という考え方の延長線上に、階級社会の否定、法の下の平等ってのが強く意識されている訳である。
一方、明治維新好きな人々の信仰する神道には、神々自体にも序列があることから、「天皇の臣民である」国民にも序列ができること認めていることにつながる訳である。
明治維新では、「階級社会(カースト制度)」否定する仏教を徹底的に排除し、神道との分離、廃仏毀釈をしたのである。
日本人がまた、あの時代に戻るのであるとすれば、多くの個人の考え方も規制されるようになり、国家(天皇)のために行動することになるのだろう。私は、そのような国家観を放棄すべきだと考える。
黒瀬深氏の考え方こそ、優生思想を許している
黒瀬深氏が、下記のようなツイートをしている。まず、読んでほしい。
黒瀬 深 @Shin_kurose
優生思想を蔓延させているのは貴方のようなパヨクです。世間が困窮しているから「目先の使えない人間を養ってる場合ではない」という発想になる。たかが8億円の話で国会を一年半も空費し、今も観光業の苦労など全く考えず「GoToを止めろ!」と言う人間が、人々から余裕を奪い優生思想に走らせている。
引用ツイート
異邦人 @Narodovlastiye
·
優生思想を持った人物の手によって、19人もの障碍者が命を奪われた、あの凄惨な津久井やまゆり園における忌むべきヘイトクライムから、今日で丁度4年が経った。しかし、この事件を忘れてしまったのか、性懲りもせず優生思想を世に垂れ流す愚かな動きは無くならない。同じ過ちを繰り返してはならない。
午後4:52 · 2020年7月26日·Twitter for iPhone
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https://twitter.com/Shin_kurose/status/1287294729856487425
黒瀬深氏の発言、「世間が困窮しているから「目先の使えない人間を養ってる場合ではない」という発想になる。」、これ自体が、批判できる対象であることを見逃しがちである。
現在、「困窮している」人が多いとすることには同意する。
しかしだ、困窮しているから「目先の使えない人間を養ってる場合ではない」は(≒死んでかまわない)って発想は、優生思想とほぼ等しいだろうってことに、彼は気づかなくてはならない。
なぜ、「世間が困窮している」状態であれば、弱者が切り捨てられることが仕方ないこと(当然なこと)と考えるのか、「世間が困窮している」状態なら、優れた遺伝子を持つ人が生き残るべきで、劣った遺伝子を持つものは滅びるべきであると言うことと同じである。
「世間が困窮している」状態という言い訳が成り立つことを認めれば、命の扱いに対する不平等が許されるという考えが正しいか、近代民主主義の思想の流れに照らしてどのように考えるべきかって、問いかけたい。
異邦人氏を「優生思想を蔓延させているのは貴方のようなパヨクです。」と批判しているが、異邦人氏の発言はすごくまっとうなことを言っている。黒瀬深氏の発言は反論にもなっていない。むしろ、彼が優生思想につながる発言をする思想の持ち主であることに気づかなくてはならない。
「たかが8億円の話で国会を一年半も空費し、今も観光業の苦労など全く考えず「GoToを止めろ!」と言う人間が、人々から余裕を奪い優生思想に走らせている。」って、政治の公平性・公明性ってのが理解できていれば、森友学園や加計学園、そして、“GO TO トラベル”もおかしな政策であろうことが分かるはずである。だから批判されて当然である。
救うべきは、観光産業だけではないし、観光産業でも“GO TO トラベル”で恩恵にあずかれない地域や宿屋もあることだろう。
“GO TO トラベル”で自民党・公明党に感謝する人々は、おそらく、利益誘導型政治である残念な民主主義に満足していることだろう。
現在の貧困が“GO TO トラベル”で解決しますか?格差拡大し貧困を生み出したのは、消費税を増税し、所得税の累進税率を平たんにし、法人税の税率を下げてきたほぼ自民党が原因でしょう。
「人々から余裕を奪い優生思想に走らせている。」ってのは、現在の日本人の多くが、優生思想に走っているって認識なのか・・・、多くのツイッターが、野田氏のツイート批判している現状をどのように理解されているのか不思議である。
このツイート後のツイートも見てみよう
黒瀬 深 @Shin_kurose
誰だってお金に余裕があれば「お年寄りも障害者も養えばいい」という発想になる。自分の生活が苦しいのに「弱者」のために税金や社会保険料を取られると「ふざけるな」となる。思想だの倫理だの善悪だの歴史認識の問題ではない、経済が人間と社会を動かしている。いい加減、その現実に向き合うべき。
午後4:57 · 2020年7月26日·Twitter Web App
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https://twitter.com/Shin_kurose/status/1287295912524386305
「自分の生活が苦しいのに「弱者」のために税金や社会保険料を取られると「ふざけるな」となる。・・・・経済が人間と社会を動かしている。いい加減、その現実に向き合うべき。」って黒瀬深氏の発言は、今の経済の不満が政治に向かうべき(現在の問題の多くが政治的に解決すべき課題である)ことを、経済自体の問題にしている点で誤誘導である。
「経済が人間と社会を動かしている。いい加減、その現実に向き合うべき。」という認識は、誤りである。
人の営みが経済を動かしていると考えるべきである。
なぜなら、人がいなくては経済が動かないからである。もちろん、フィードバック(feed back)やフィードフォワード(feed forward)てのも、人の行動パターンにはあるから、経済動向に影響されないとは言えない。実際、過去の経済の動きやそれら経験則に基づく経済の予測に基づいて(経済動向に影響されてしまう)行動することや(多くの経済的強者がしていることだと思う)、労働市場における弱者の中には、派遣切りのような、自分の意思とは関係ない景気不景気という現実に左右されることも否定はできない。
しかし、だからこそ、強者が弱者を守ることを期待するのではなく、政治が弱者を救うべきであろう。
それが、民主主義への期待される政治の在り方であろう。なぜなら、民主主義の民が主であるということは、だれが強者で、だれが弱者であるかを超えて、すべての民(国民)が主となる政治であることを目指す政治であろうからである。
今の、自民党の主流である、日本会議派は、保守とは言えない。
むしろ、彼らの考えは復古主義である、明治維新から、敗戦までの体制への変な憧れのようなものがあるだけで、歴史を直視できていない人々の集まりにしか過ぎない。失敗から何も学べず、あの時代の民族全体の一体感や高揚感というのを求めている人々であり、彼ら考え方は、仲間か敵かという意識が強く、排外主義に通じる。幼いころに芽生える自我の発見から大して成長していない精神の持ち主であろう。国民国家と自身を一体化させるばかりで、一人で広い世界に出ていくことができず、強固な仲間との連帯感に浸っていたいだけである。
だから、嫌韓や嫌中ってのをやっているのである。民族問題、国民特性の差異に注目しすぎである。個人の価値観が民族を超えて理解もできるし、同じ国民同士でも理解できないことがあることを気づけば、彼ら自身の考え方はとても偏狭な考え方であることに気づくべきである。
改めて、保守とは、文字通りに解釈するなら復古主義とは異なるはずである。現在における保守とは、日本の伝統だけでなく、現在の民主主義の制度を維持しより良くしてくしていくこと(メンテナンスすること)を実践する人々を言うべきであり、明治憲法のような天皇中心の国家観に戻す運動は保守と言うべきではないのではないか。
改めて、自問してほしいものである。言葉の使い方が間違っていないかと・・・、認識が間違っていないかと・・・。
ノーナレ「炎舞」を見てしまった
千日回峰行をした人がどのような境地なるか、それを語って聞かせてほしいと、私にも、素晴らしい言葉が聞けるかと期待して見ていた。
NHK 番組表 _ 【ストーリーズ】ノーナレ「炎舞」 _ ナレーションのないドキュメンタリー「ノーナレ」。炎と舞うがごとき神々しさが多くの参拝者を呼ぶ塩沼亮潤(52)の護摩行。塩沼は数々の荒行を成し遂げてきた修験僧だ。.html
https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2020-07-20&ch=21&eid=19446&f=4253
いや、私は、仏陀が苦行では悟れないとの言葉を信じている(理解もしている)ので、むしろ、千日回峰行修行者が、大したことを言わないことを確認したいだけだったのかもしれない。
仏陀の根本的思想の背後には、この世が苦に満ちている(四苦八苦)と観るため、そこからの解脱を目指すことが、修行の始まりであり、
まず、仏陀は多くの修行者と同じように苦行をした結果、苦行では悟れないことを悟るわけである。
四苦八苦は、生苦、老苦、病苦、死苦の四苦に加え、愛別離苦(あいべつりく、 愛する者と別離すること)、怨憎会苦(おんぞうえく、 怨み憎んでいる者に会うこと)、求不得苦(ぐふとくく、 求める物が得られないこと)、五蘊盛苦(ごうんじょうく、 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと)の四つの苦を合わせた八苦のことである。
(四苦八苦 - Wikipedia.html:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%8B%A6%E5%85%AB%E8%8B%A6)
つまり、これらの苦しみを克服、いや、むしろ、受け入れながら解脱(悟りの境地)に向かうのである。
あえて、求めて苦痛を(苦行を)することは、単にそれらの苦痛を(苦行を)求めているだけで、欲求を満たす行為と同じであり、現世についての理解を深める行為としては、苦行という矮小化した問題にこだわっているだけであり、それでは、正しい悟りの境地には達しないだろう。
この世は、曼荼羅以上に複雑である、だから、多くの人の苦しみに理解を示し、ともに、苦しみ、解決策を提示しようとする行為の先に、次の世界が見えてくるはずである。だから、苦行では真の悟りに至らないと悟るのが正しい。
苦行したことをひけらかしたりなどは仏陀はしていない。
この世の苦に対して、因果あることから、仏陀は、善行を勧めることになる。決して苦行をすることを勧めていない。
千日回峰行が素晴らしい修行であるなら、多くの人に勧めるような代物なのか、また、それを実践できた者がすごいのかって問題を考えてほしい。もし多くの人が真似できるならば、彼の修業の価値も相対的に低くなる。真似できないようなことをしたことで、信仰の対象として修行者を崇めているだけ、悟るという目的より、信者獲得ためのパフォーマンスと見られても仕方がない。
苦しみの強弱を比較して、強い苦しみを体験すれば悟れるって考えは、仏教の中道思想にも反する。
私は、千日回峰行をやれば、必ず悟れるなら、人生の他の苦しみも全て克服できるなら、やってもよいが、そうとは全く思えないのだ。
むしろ、いろいろな体験(観方)をすること、それに伴う、心の変化を自分自身で見つめながら、自分自身の心のコントロールをできるようになること、最終的に、だれもが死に直面するわけだが、その時の苦悩のいくばくかを軽くできるようにするのは、自分の生き方次第で、千日回峰行ような苦行ではないと思う。
黒瀬深氏また誤誘導ツイートしている
黒瀬深氏の以下のツイートにうまく誤誘導される人多いのかもしれない。
黒瀬 深
@Shin_kurose
別に自己責任で出かけたい人は出かければいいし、営業するところはすればいい。何でもかんでもアンケート取って「大多数の人間がこう言ってるから中止しろ!」という朝日こそ全体主義的だと思いますよ。
GoToの開始、74%が「反対」 朝日新聞世論調査:朝日新聞デジタル
朝日新聞社は18、19日に全国世論調査(電話)を実施した。政府の観光支援策「Go To トラベル」を22日から始めることに、74%が「反対」と答えた。「賛成」は19%だった。開始時期や対象地域を決め…
asahi.com 午前7:25 · 2020年7月20日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/Shin_kurose/status/1284977754773979136
朝日の記事は、アンケートの結果を提示しているだけで、中止しろとは書いていない。
つまり、「アンケート取って「大多数の人間がこう言ってるから中止しろ!」という朝日こそ全体主義的だと思いますよ。」
ってのは、彼の妄想か、デマを振りまいているだけで、これだけで、多くの彼のフォロアーがまた“朝日新聞”がって、思うのかもしれない。
どこが全体主義なのだろうか、アンケート結果を紙面で明らかにすることのどこが、・・・、彼は叩くべき相手はだれかを示して、扇情しているわけで、黒瀬深氏のスタンスが決まっているだけである。
また、「別に自己責任で出かけたい人は出かければいいし、営業するところはすればいい。」って、政治家でもない彼の個人的な発言だから、責任問題になるわけではない。
しかし、よく考えてほしい、黒瀬深氏の発言は、新型コロナウイルスの対策を取るべき政府への批判を和らげる(ぼやかす)効果があるだろう。
新型コロナウイルスの感染者数がじわじわと増加傾向を示している中で、何も対策を示さない、専門家会議を解散させるなど、危機意識示すべき状態にもかかわらず、安倍首相の露出が極端に減っていること、政府の観光支援策「Go To トラベル」が迷走していることなどからも、与党支持者でも、政府にしっかりやれよって言うべきだろう。
旅行者・旅行会社の判断でやればいいなら、この前の、緊急事態宣言は何なのか、また、旅行者による新型コロナウイルスの拡散を専門家なら危惧するところだろう。自分たちが良ければ(リスクをとれれば)、良いって考えでは、旅行者自身が新型コロナウイルスの媒介者になる可能性を想像できない時点で、大丈夫ですかって心配してしまう。
黒瀬深氏は、ツイッターの文章から判断すると、かなり文章が巧みであり、切れ者のように感じている。彼が、私が心配するようなことも気づかないほど愚鈍とは思えないから、彼は、意図的に誤誘導している。
それを賛同するツイッターの中にも桜がいる可能性が高い、つまりは、安倍政権の支持率を維持するための雰囲気づくりのためである。
彼の発言は、気を付けて解釈すべきである。
私のとって基本となる真理とは
自身の劣等感の裏返し
私にとって、重要なことは、たくさんの知識を頭に詰め込むことでなく、真に重要なことを知り理解することである。
なぜか、私は、幼いころから、私より口が立つ人や、博学な人を知っているからである。
当然、自分は、彼らには敵わないと何度か思わされたことか。
しかし、彼らの多くが、それだけの才能をもってしても、彼ら自身の判断に過ちがあることに気づいていないことが散見されることもあった。
つまり、
有能な人も普通の人のように自身の過ちに気づけないこともあるということである。
逆に、私は、口が立つというより、考えることが好きではあったが、何が正しくて、何が間違っているかは、
状況により変わることを経験的(感覚的)に気づき、どの言葉も発した時点で責任が伴うことの怖さ(嘘となる可能性がある)から、
多くの場合、卑怯かもしれないが、「沈黙は金」と言えるような行動をとるようになっていた。
もちろん、自分が自信もっていえることは、はっきり言ってきたつもりである。
真理への関心
誰しも、人間関係の序列を意識されるように、また、興味ある分野での序列(優劣)に関心を持つように、私は、具体的知識より、より普遍的に成立する概念を求めるようになっていた。
つまり、どんな状況でも、成り立つ概念が知りたい、と
それは、大量な知識を詰め込むことより大事であると私は確信していた。知識の蓄積は、パソコンが発展すれば必要ないし、計算が早くできることも必要でなくなると確信していた。
ちなみに、私が小学生の頃は、そろばんや公文式といった稽古事に通う学友が多くいて、学校での計算問題(掛け算・割り算)の小テストで解答速度を競わされるような状況が嫌で嫌でしょうがなかった。
九九の暗記をさせられるのも嫌でしょうがなかった。
知っていれば、早く回答ができるって競争に、競争心を煽るのと劣等感を植え付ける以上のものは見いだせないとさえ感じていた。
私は、真に普遍的なものが何か知りたいという欲求は、それらの劣等感を超越できる逃げ道でもあり、自身の判断は自分でできるようになりたいという独立心もしくは自我の目覚めであった。
そのために、自宅にあった百科事典で、仏教の項目で、仏陀が悟りを開いたと書かれているところ、特に、仏教の自力本願って言葉に私の心は共鳴した。
基本となる真理は簡単である
普遍的成り立つことが複雑であるとは到底思えない。実際、複雑なことを複雑なまま頭に入れられるほど自分が賢くないことを知っていたし、複雑なものをそのまま頭に詰め込んでいるだけの人を感心をしても、共感はしなかった。
むしろ少ない必須な知識から、新しい知見を見出すほうが優れると思っていた。
例えば、薬草となる植物の発見や万有引力の発見のほうが、過去の知識集積より有益である。
どのようにしたら、病気に効果のある薬草を見出せるのか、どのようにしたら、リンゴの落下から万有引力を気づけたのかってほうが、私には興味が湧いていてきてしょうがなかった。
そのような発想は、その発見がある前のままの考え方では、到底思いつかないって思えるし、これは、連続的な発想というより、跳躍する感じの発想である。
何かが違う!
そのような、新しい知識を見出せるのってのは、これまで認識できない、何かが見出せる能力、違いが分かる男(女)って感じである。
その発見で、人類は、大きな跳躍をしたと思え、新しい知見の誕生は人類に行動様式さえも変えてしまうのである。
例えば、アイザック・ニュートンが1665年に、地上の引力(落下現象)と月の公転運動も同様に説明できる可能性があることに気付いたことで、万有引力が理解されることになり、ロケットで衛星を打ち上げるまでになった。
また、アオカビの周りに菌が繁殖しにくいことから、ペニシリンという物質を、イギリスのアレクサンダー・フレミング博士が、1928年に発見することになるが、これが世界最初の抗生物質である。
これらの前後で人類は大きく変化したのである。
人の知識取得の特徴
人間は、生まれたときには、五感を知識(言語化できる知識)と関係づけてとらえることもできないのだろうと思う。赤子を世話をする母親の匂い、肌から伝わる母親の体温、十分に発達できていない視覚でとらえる母親の面影、優しい母親の声の聴覚の刺激、そして母乳の味、を何度も感覚的に繰り返される中で、安心できる存在として母親と漠然と認識するが、その安心感を与える存在が、ママと呼ぶのかお母さんと呼ぶのかなど、最初はどうでもよいのだ、泣きわめけば駆けつけてくれる安心感を求めているだけなのだろう。生まれた赤子には、言語の必要性はそれほど重要ではない。
次に、やっと、母親の声掛けに反応するように視線を母親に向け、言葉らしき発声するようになり、おそらく、日本人なら、多くの子がマンマ(ご飯)って言葉を発するようになるのではないかと思われる。
さらに、ママやパパといった言葉使うようになり、どんどんと使える言葉が爆発的に増えるのだろう。
しかし、この知識(言語)に体系的ではないのではないだろうと思う。ただ知っているという知識の羅列に近いのではないか。
社会的な関わりが増すことで、知識の体系化(秩序ができる)が強化され、学校に行くことで、さらに、知識の体系化が進む。
何が言いたいかというと、知識というのは、体系化される過程でも、最も基本的な概念であるもの、普遍的な真理を背景として成り立っていることからスタートしていない。
つまり、多くの人間は、普遍的な真理を知ることより、「この料理はおいしい」、「赤信号では止まる」、「面白い芸人はだれ誰である」といった社会で経験する身近な言葉を使うことだけで満足してしまう。
そこにも、真理が宿っているのだが、それが何かは、当たり前すぎて気づかないか、抽象的な感覚(具体的でない感覚)のためうまく認識できずにいる。
色即是空・空即是色
仏陀の悟りの重要な部分が、空の認識であろう。
あくまでも、仏教の経典を読んでない、私自身の認識でしかないことを断りを入れておくが、
「空」とは認識できない何か、「色」とは認識できている何か
であろう。もしくは、
「空」とは未出現の何か、「色」とは出現済みの何か
と考えてもよいだろう。
存在と認識
認識できるものが存在しているものとすると、認識できないものは存在していないものとなる。
認識と存在は厳密に一致することではないが、「人間的な感覚でとらえられる存在を認識」、「人間を超越した感覚での存在を普遍的な存在」としてみると、ベン図的なイメージで認識は普遍的な存在のうち、人間が認識できる限られた存在と言えるだろう。
この世の始まりは
多くの神話や民族の出自や宗教において、この世(宇宙)の始まりが語られている。
私の答えは、最初の存在が生じたことがこの世の始まりであるとするだろう。
空(≒無)の世界というものがあったが(これ自体が認識できない、もしくは、存在と認められないもの)、ある時、最初の色すなわち存在(≒有)が生じた。
それが何なのかではなく、空(≒無)であるそれまでと異なる最初の何か「色すなわち存在(≒有)」が生じたことで、
宇宙の始まりといえよう。
だから、存在とは何かが重要であろう
あるとは、存在とは
人間の認識的な感覚のほうが分かりやすいだろう。
何かを認識するには、他のものとの違いを認識できる状態が認識的な存在と言える。
つまり、違いが認識できないものは同じものとなる。
コーヒーと紅茶の違いが分かっても、モカコーヒーとキリマンジャロコーヒーの違いが分からなければどちらもコーヒーとなるだけである。
これを、普遍的な存在においても成り立つと考えてよいだろう。
存在とは、それ自体が他の何かと差別的な関係性を持つ何かなのである
それを、「存在は差別化するもの」と私はとらえている。
存在がそれ以外の何かと差別化をしようとすることでこの世は動き出した、いや、今も動く原動力となっている。
だから、最初の存在があったため、別の存在も他の存在もあることを認めてしまったと言え、それが更なる複雑な世界へと発展し、存在同士がけん制しあい、時に融合しこの宇宙が発展したと考えられる。
だから、この世界の見方は一通りではないとも言える。
体系的な知識の誤悟
若くして、体系的知識の習得をし、そのような見方に固執していると思わぬ形で失敗することがあるだろう。
この世界は、多様な存在があり得るわけであるから、どんなに体系的な知識を習得してもそこに収まらない別の存在があり得ることが想像できなくてはならない。しかし、よくできた多体系的な知識には、内部矛盾がないように十分に注意されてできていて、その世界感で満足してしまう人もいる。そのような場合に、外部から、新たな概念が持ち込まれると、それまでの体系的な知識が破綻する特異点が存在することが見つかったりするだろう。
観自在菩薩
仏教において、観音信仰というものがあるが、観音様とは観自在菩薩のことで、世界を自在にみる(観)ことができる菩薩ということである。
菩薩とはWikipediaによると、
「菩薩(ぼさつ)とは、ボーディ・サットヴァ(梵: बोधिसत्त्व, bodhisattva, 巴: bodhisatta) の音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり、仏教において一般的には菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。」
ということである。
ここで重要なのは、悟った人でなく、悟りを求める人であるということである。すなわち、悟ろうとする過程で多くの人に多くの人に良い刺激を与えるとともに、この世の見方を自在に観れることで、現世の凝り固まった体系的な世界観に抑圧されている人々にも光明を示すことができると解釈できるだろう。それが悟りへつながるとも言える。
そのようになるには、存在とは、そもそもどのようなものであるかが分からなくてはならないと、私は思う。
話が長くなったので、この辺でやめておこう。